夏休み最終日
あたしが異海に落ちてから、どうやらこちらでは5年の月日が流れていたらしい。
それは、向こうの世界で5年後のクーちゃんに会った時からうすうす覚悟していたことだ。が、こちらの世界であたしの年齢は戸籍上21歳、高校中退、無職のどうしようもない人間になってしまった。
どうしたらいいものか。
途方に暮れていたら、母を通じて一本の電話が入った。
誰、と問う前に、受話器から大きな声が飛び出してきた。
「リィ、リィ?! ほんまにリィやねんな?! 無事なんか?! 元気なん?!」
聞くまでもなかった。
電話口にいたのは忘れもしない、あたしに地質学の知識を叩きこんだ師匠だった。
あたしが帰還したことは誰より先に母が伝えたらしい。
電話の向こうで、今すぐ行く、と言う師匠を止めることは出来ず、あたしは通話の切れた受話器を握りしめていた。
師匠はものの一時間もしないうちに現れた。
外で車が止まる音がして、バタバタバタ、と騒がしい足音。
「リィ!」
そして、見慣れた顔がのぞき込んだ。
5年経ったからいろいろ覚悟してたけど、師匠ってばあんまり変わってない……けど、あれ、ちょっとだけ、女性らしくなった気がする。あたしの知ってる師匠は、化粧っ気もなくて少年みたいだったから。
師匠はそのままあたしに突進すると、力任せに抱きしめた。
「ああああ、本物や……どうなってんねん、もう、マジで、どんだけ心配した思てんねん……」
ぶつぶつ呟きながら、その声が震えている。
あたしが世界から消える前、最後に会ったのは師匠だ。家の前まで車で送ってもらって、そのまま家に入って――そして、あたしは弟と共に姿を消した。
当時、師匠は相当悔やんだらしい。何度も何度も、あたしの両親に謝ったらしい。
形だけ行われたあたしとクーちゃんのお葬式では、誰より泣いて、叫んで、大変だったらしい。
あの時、自分が気付いていれば、と。
もちろんそれは無理だったろうけれど、残された師匠の感情を考えると身が引き裂かれそうだった。
「いったいどこ行っててん。何しててん。元気やったんか、体は大丈夫なんか、全然成長してへんけど、胸以外」
相変わらずよく回る口だなあ。
やっぱり、向こうの世界のララさんを思い出して、ほんのりと胸が苦しくなった。
「あたしね、すっごい遠くに行ってたの。だからね師匠、いっぱい話したいことがあるよ。あとお土産もあるんだ」
「土産?」
「まだ誰も地質調査してない大陸の地質図」
あたしの言葉で師匠は動きを止めた。
「もっかいゆうて」
「まだ誰も地質調査してない大陸の地質図をお土産に帰ってきました」
師匠は震えた。先ほどまでとは違う感情で。
「よっしゃ、ようやった! リィ、すぐ見してみ! さすがうちの一番弟子や!」
変わってない。
変わってなさ過ぎて、あたしは力が抜けてへなへなと床に座り込んでしまった。
その次の休日、あたしは地質図を持って師匠の家に招かれた。
地質図のついでに5年分の話を聞かせろと言われて。
母に相談したが、隠すことはない、全部話していいんじゃないかと言われたので、師匠には正直に話すつもりだった。
あたし、5年間眠った後異世界に落ちて、旅してきたんだよ、って。
師匠の家には『琴平』と書かれた表札が下がっていて、あれ、と一瞬考えた。苗字違うような……いや、もしかして……いや、どうだろ。
「お邪魔します」
「はいどーぞ」
師匠の家は、ぴっかぴかの新築マンションの一室だった。
明らかに一人で住む広さじゃなさそうだけど。
と、思っていたら、奥から知らない顔がのぞいた。
「あっ、ほんとに来たんだ。全然片付け終わってないよ、大丈夫なの?」
「ええねん、リィは。同じ地質学者やからな」
師匠と同年代の男の人。茶髪で色白、黒縁眼鏡をかけていて、頭の回転が速そうな印象を受けた。スウェットにTシャツというすごくラフな格好で出てきた。
「えっと、お邪魔してます」
頭を下げると、その男性も慌てて頭を下げた。
「あ、ごめんね、今日、俺も仕事で家にいて……ええと、こいつの夫の倫司です。よろしく」
え、今、夫って言った?
あたしが目を丸くすると、師匠は肩をすくめた。
えっ、マジで、まさかとは思ったけど、師匠結婚したの?
「えええ、師匠、早く言ってよ! お祝い用意したのに! ご結婚おめでとうございます!」
「はい、ありがと。結婚したの、結構前やから気にせんとって」
それでちょっと女性らしくなってたのか!
うわあ、何だろう、すっごい嬉しいかも。
「俺も久遠くんとは友人でね、ネット上だけど。大好きなお姉ちゃんの話はすごーくよく聞いてたんだ。今日は、会えて嬉しい」
倫司さんはそう言ってはにかむように笑った。
「弟の、お友達だったんですね」
「うん。実はね、君の弟がいなくなる直前、最後に話してたのって俺なんだ」
あたしとクーちゃんのお葬式に参列したときに師匠と出会ったらしい。同じく最後まで何も出来なかった事を悔いていた倫司さんが師匠に声をかけたのが始まりとか。
うーん、世の中何が起きるかわかんないね。
「俺も一緒に聞いていい? あいつ、帰っちゃ来ないけど元気なんだよね?」
「あっ、はい!」
倫司さんはとてもいい聞き手だった。勝手に口を挟む師匠に相槌をうち、突っ込み、あたしの話も興味深そうに聞いてくれて。
クーちゃんが結構やんちゃだった話をすると、あいつらしいな、と笑ってくれた。
なんだ、こっちの世界にもクーちゃんが心を許してた人がいたんだな。
あたしはなんだかとっても嬉しくなった。
師匠があたしにとっての師匠であるように、クーちゃんのパソコンの師匠はどうやら倫司さんらしかった。
倫司さんは在宅ワークをしているIT関連のエンジニアで、仕事に困らない程度には売れっ子らしい。
そして、もし君が望むならうちでバイトでもしてみない、と言われた。
「あたし、クーちゃんと違ってパソコンとかからっきしですよ?」
「いいんだよ、今から覚えれば」
最初は誰だって初心者なんだから、と倫司さんは笑った。
一応土日休みで、時給はごめん、今から相場調べて後で連絡する。と言われ、連絡先を交換して。
最後にはまた来てね、と笑ってくれて。
5年間もこの世界にいなかったのに、当たり前に受け入れてくれる場所がある事を知って、あたしはじんわりと心が温かくなった。
しかも、もしかして、無職を脱出できるかも。
「不思議だね、ルース。一度向こうに行って、帰ってきてからの方がこっちの世界に馴染めてる気がするんだ」
あたしはベッドに寝転がって、鳥のぬいぐるみをむにむにと撫でながらひとりごちた。
このぬいぐるみは、最後にあたしのフードにオンちゃんが放り込んだもので、両掌でちょうどぎゅっと出来るくらいの柔らかいものだった。触るとごろっとするから、中に何か入ってるのは確かで、オンちゃんの言葉を信じるなら、何らかの光術製品らしい。
翼の部分にはルースがくれた守りの光術が入ったヘアピンを止め、くちばしがちょうどのサイズだったから、ルースにもらったルビーの指輪をはめ込んである。
こちらの世界の感覚で言うとかなり大粒のルビーは、部屋の明かりを反射してキラキラ光った。
「クーちゃんがちゃんとこっちでもお友達作ってたことも知らなかったし、お母さんの事も、お父さんの事も、あたし、何一つ知らなかったんだ。ううん、違うね。知ろうとしてなかったんだ。怖くて、怖くて」
あの時のあたしは壊れそうな世界で、弟と二人、身を縮めている事しか出来なかった。
師匠がそこから連れ出してくれて、ちょっとだけ世界が広がって、それから――
「あたしを小さい世界から外に連れ出してくれたのは、ルースだよ」
面と向かっては言えないことを、白い鳥のぬいぐるみに託して。
ぎゅーっと抱きしめて、ベッドのうえをゴロゴロしながら。
「甘えろって言ってくれたのも、ルースだったよ。あたしが閉じ込めてた感情全部、外に出ちゃったのはルースのせいなんだよ」
ああ、あたし、こんなに泣き虫じゃなかったはずなのにな。
ぽたりぽたりとこぼれる涙が、ぬいぐるみを濡らしていく。
「会いたいなあ、ルース。会いたいよ」
何度名前を呼んでも、返事はないのだけれど。
あたしがいるせいで世界中を敵に回すくらいなら、あたしがいなくなればいい。そう決めたのは他でもない、自分自身だ。
バカみたい。
それでも、この感情が風化する日は来るの?
セピア色の思い出として胸の中に飾れる日は来るの?
分からないよ。
今はただ、苦しくて苦しくて、寂しくて。会いたくて仕方なくて。
ほんと、バカみたい。
こんな強い感情があたしの中に眠っていたなんて知らなかったよ。
「……ルース」
小さく呟いたって、どうせこの声は届かない。
そして、あたしの名前を二度と呼んでくれることもない。
それでも心がぎゅっと締め付けられて、どうにもしようがなくなって、あたしはぬいぐるみの指輪にそっとキスをした。
と、そのとき、ぬいぐるみがぶるると自ら震えた。
「えっ?」
驚くあたしの目の前で、ぬいぐるみの鳥があたしの手を離れてふわりと浮かびあがる。
「あれ、どうして……」
向こうの世界ならともかく、こっちの世界でこんな風にものが宙に浮くことなんてないはずなのに。
と、思った瞬間、ぬいぐるみがぱぁっと光りだした。
光素があふれ出す。
異海に落ちたあの日、リビングにあふれたようなまばゆい光があたしの部屋を包み込んだ。
思考が停止する。
目の前で何が起きているのか分からない。
あまりの光量に、思わず目を閉じた。
「……リーネット」
聞こえないはずの声がする。
向こうの世界で別れてきたはずの彼の声がする。
目を閉じたあたしの頬に、熱い指がそっと触れた。
「――うそ」
光はひいたけれど、怖くて目を開けなかった。
そうしたら、何かがあたしに覆いかぶさってきた。
びっくりして目を開けると、目の前に白い何かが覆いかぶさっていて何も見えなかった。
「あー……気持ち悪い。信じらんねーですよ。3回くらい死んだと思った。こんなん二回も耐えるとか、やっぱギオンは頭おかしい」
声が聞こえても、まだ信じられなかった。
でも、重い。非常に重い。この重さは本物だ。あたし、死ぬかも。
「……重い、ので、ちょっと、降りて、クダサイ」
息も絶え絶えにそう言うと、圧迫感がなくなった。
でも、密着感は消えてない。
横向きになって、あたしは腕の中に捕えられていた。
見上げると、額に手を当て、眉間にしわを寄せたイケメンがいる。これ、割と見慣れた顔だ。さっきもずっと想像してたし。
心臓が跳ね上がって、心拍数も跳ね上がる。
胸がみるみる温かい何かに満たされていくのを感じた。
「うそ」
「嘘じゃねーですよ」
不機嫌そうな声。
どうも体調がよくなさそうなので、手だけ伸ばして前髪のあたりをナデナデしたら、ちょっと和らいだ。
「お前の手は気持ちいいな、リーネット」
いつだったかと同じセリフを繰り返して。
「なんで?」
「何でじゃねーですよ」
「だってあたし、もう、会えないと」
「2回目」
あたしのセリフをルースが遮った。
「もう会えないと思った、っての、2回目。でも、会えただろ?」
1回目は首都ヘルシンガへ向かうとき、最後の通信で。
2回目は異海を渡ってこちらの世界へ帰るとき。
「ルース、異海を渡ってきたの……?」
「何か文句あるのか?」
「だって、ルースは向こうで、ララさんたちと一緒に、だって、クーちゃんは」
支離滅裂な事を言い出したら、ルースはいらっとしたようだった。
「いいからお前、ちょっと黙ってろよ」
面倒そうな声と共に、唇を塞がれた。
あの時と同じだ。
息もできないくらいに熱い感情が流れ込んできて、頭がクラクラする。
黙らされたあたしは、ぼーっとルースを見つめていた。
「勝手に決めて、勝手にいなくなりやがって。行くなっつったのにやめねえし。ほんとにお前は放っておくとすぐにどっか行っちまう。だから、俺が探して追いかけるハメになんだよ」
青風信子石のような瞳があたしをまっすぐに貫いている。
本物だ。
あたしの目の端から、すうっと涙が伝い落ちた。
よくさらわれるあたしを必ず迎えに来て、助けてくれたヒーロー。
「よく考えたら、お前と一緒に生きるのに向こうの世界にいる必要はなかったんだよな。クォントに言われるまで気付かなかったのが不思議だ」
クォント。
クーちゃん。
あたしを古代兵器に押し込めて、送り出した張本人。
もしかして、最初からクーちゃんはこうするつもりだったの? 向こうの世界で生きる場所のないルースを、あたしと一緒にこちらの世界に送ってしまうつもりだったの?
ギオンに出会った時点で、ルースが異海を渡るすべを手に入れられることを確信していたから。
「リーネット、お前がどこへ行こうとすぐ見つけてやるからな。それがどこであろうと――異海の向こうであろうと。覚悟しとけよ」
ルースは笑った。
子供みたいな笑顔だった。
向こうの世界で甘やかしてくれるやつを探せって言ったのは、どこの誰?
自分で来ちゃってるじゃん。
意地悪でそう言ってみたかったけど、ほんとに口に出したらひどい目に遭いそうだからやめた。
何より、ルースと共に生きたいと願っていたのはあたし自身だったから。
向こうの世界でクーちゃんたちが頑張って、こちらの世界との通信ができるようになるのはまだまだ先の話。
そして、こちらの世界と向こうの世界を行き来できるようになる日も来るのだけれど、それもまだまだ、ずーっと、先のお話。
あたしとルースの子供が大人になって異世界で恋をするくらい、先のお話だ。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
本当はもう一幕、ごちゃごちゃする予定でしたが、こっちの方がすっきり終われそうなのでここで完結とさせてください。
また、どこかでお会いしましょう!




