不明の光化種(3)
それからどれほどの時間が経ったかは分からない。
というのも、あたしは歌い終わって〈紡〉の光素に包まれると同時に意識を失ってしまったからだ。
気付いたのは、体を揺すれていたから。
切羽詰まった女性の声があたしを呼んでいる。
「莉音!」
ゆっくりと瞼を開ける。
頭の中がぼんやりしていてなんだかよく分からない。
けれど、目の前に見えたのがとても懐かしい姿だったから、一気に目が覚めた。
「お母さん」
「よかった、莉音……!」
細い腕で抱きしめられながら、あたしは周囲を見渡した。
懐かしい、家のリビング。なんとなく印象が違うのは、家具の配置が微妙に変わっているからだろうか。カーテンの隙間の窓から見える外は暗く、今が夜であることを示していた。
ああ、帰ってきた。
ほっとするとともに、全身から力が抜けた。
崩れ落ちそうになる体を、母が支えてくれた。ぽたりぽたりとあたしの肩に母の涙が落ちる。
「ただいま、お母さん」
その言葉を口にしたら、鼻の奥がくーっと痛くなって、涙が溢れ出た。
本当に帰ってきたんだ。
向こうの世界に、全部置いて。
「お母さん……お母さんっ……!」
苦しくて、つらくて、寂しくて、あたしは母に縋りつくようにして泣きじゃくった。
いろんな感情が一気に押し寄せてきて、わけがわからなくなった。
胸が痛い。
「お母さん、あのね、聞いてほしいの。いっぱい、いろんなことがあったの。それとね、いっぱい、聞きたいことがあるの」
泣きながらそう言うと、母は、同じように涙を流しながら、あたしの背中を撫でてくれた。
「……きっと貴方は、ユハンヌス=ルース王国へ行っていたのね」
母のその言葉ですべてを察してしまった。
やっぱり全部、本当だったんだ。
夢でもなく妄想でも幻想でもなく、現実にあたしが体験してきた出来事だったんだ。
たくさん話したいことがある。たくさん話してほしいことがある。
でも、その前に、たくさん、たくさん泣かせてほしかった。
死ぬほど泣いて、泣いて、泣いて。
あたしは最後に力尽きて眠ってしまった。
細腕の母はあたしの体をソファに横たえると、毛布を一枚かけて、傍に座った。
うつらうつらと沈んでいく意識の中、あたしは母の子守唄を聞いた気がした。
夢の中であたしは、大好きだったルースの姿を追っていた。
初めてルースを見た時に王子みたいだと思った事。クーちゃんと仲良しで、嫌いな食べ物をお互いに押し付けあってた。戦うときは息ぴったりで、阿吽の呼吸って言葉がすごく似合ってた。
クーちゃんがあんな風に友達と楽しそうにしているなんて、この世界では見たことがなかったからひどく新鮮で、それ以上に嬉しくて。
最初にルースを意識したのはその時かもしれない。
それから、あたしはよく捕まったりさらわれたりしたんだけど、ルースはそのたびに助けに来てくれた。時代劇のヒーローみたいですごくかっこよかったんだ。
光素の調子を整えてもらったり、治癒光術をかけてもらったり、ルースの手はとても優しくて気持ちよくて、大好きだった。
ちょっと口は悪いけど、ほんとは優しい彼に少しずつひかれていった。
でも彼はてんで気にしてなくて、いつも天然であたしを翻弄するから、走駒の試合では女の子が勘違いしそうなセリフを連発してあたしを勘違いさせたんだ。そうでなくともルースはとってもかっこいいのに、あれは卑怯だった。
そのころあたしは、ルースが向こうの世界に残す心になることを予感してたんだ。
それからルースの過去を知って、背負うものを知って、それでも真っすぐに育った彼の心根に触れた時、あたしははっきりと恋をしたことを実感した。
小指の約束と、真名の交換。
あたしの知らない向こうの世界の方法で婚約していたと知ったときは本当に焦って、恥ずかしかったけど、それ以上に嬉しくて仕方なかった。
ルースは意味を知りながらも指切りに応じてくれたから。
嫌われてはいないだろうな、と思っていた。
でも、『甘えることを覚えろ』といって甘やかして、抱きしめてくれたあの時、あたしはルースの気持ちに気付いていた気がする。
お互いにひかれながら、世界の狭間で手を離すことを決めていた気がする。
でもルースは気付いてなかった。最後の最後に通信であたしが告白するまで、全く気付いてなかったんだ。
だから、あたしもルースもお互いに思いあっていると知った時、無理して山脈を越えて、あたしを追いかけて、あの地下道で熱い感情をぶつけて、行くなって言ってくれて――
それでもあたしは、ルースの事が好きで好きで大好きすぎて、さよならしてしまったんだ。
ねえ、ルース。
世界が許すなら、あたしはルースと一緒に生きていきたかったよ。
それだけは嘘じゃないから、忘れないで。
お願いだから――
目覚めた時、思いのほかすっきりとしているのが不思議だった。
いっぱい泣いたせいで、悲しい気持ちを全部追い出してしまったんだろうか。
「おはよう、莉音」
はっと見ると、キッチンに母が立っていた。
こんな姿を見るのは何年ぶりだろう。
あたしと同じ艶やかな黒髪は束ねられておらず、さらさらと肩にかかって背中に流れている。顔立ちは似ているといわれることが多いが、あたし自身は似ていると思ってことはない。とても儚げで、今にも壊れそうな華奢な体。
でも、あたしの記憶にあるよりさらにやせてしまっているように見えた。
「莉音、たくさん言いたいことも聞きたいこともあると思うけれど、今はとりあえずご飯にしましょう。おなかがすいているでしょう?」
ホットサンドとスープの簡単な朝食を口にしながら、あたしはこの世界でも5年の月日が経っていることを知った。
それほどの衝撃はない。予測していたことだった。
リビングに違和感を覚えたのも、母がやせたのも、きっとそのせいだ。
「莉音も久遠も、強盗に連れ去られて行方不明になったことになったわ。ちょうど、久遠がお友達と連絡を取っていたみたいで、最後に強盗が来たっていうメッセージを残していったそうよ」
「あの、お母さん、クーちゃんは……」
「向こうに残ったんでしょう? きっとあの子ならそうすると思ったわ。でも、きっと貴方がここへ帰れるよう、力を尽くしてくれたはず」
言わずとも伝わるようだった。
週に一度しか会っておらず、母子らしい会話を最後にしたのがいつなのかも思い出せないのに、母はあたしが言いたいことを残らず分かっているようだった。
心のどこかで安堵した。向こうでいろんな真実を知ってしまったあたしを、母が拒絶したらどうしようかと、潜在意識では恐れていたようだ。
朝食を終え、コーヒーの入ったコップにたくさんミルクを足しながら、母は言った。
「さあ、教えて莉音。あなたが向こうの世界で何を見て、何を感じてきたのかを」




