誘拐(3)
重そうな扉が大きな音を立てながら開く。入ってきたのは、大きな男性が一人、それと付き従うような老婆が一人だけだ。
男性が一歩、部屋に足を踏み入れただけで室内の空気が一変した。部屋の光素の濃度が一瞬で変化させられたのだ。
ワインレッドに近い真紅のケープを羽織り、黒基調の軍服に身を包んだ男性。一挙手一投足、動きに一切の無駄がない。見上げるほどの身長はリーダーと同じくらいだと思うけれど、体の分厚さが全然違う。どんな攻撃を受けてもびくともしなさそうだった。想像していたよりもずっと若く、40代に入るか入らないかと言ったところだろう。
精悍な顔つきではあったけれど穏やかな表情で、キャンさんが堅苦しい方ではありません、と言った理由が分かった。どことなく、いいお父さん、っていう空気が滲み出ている。きっと娘か息子を溺愛しているに違いない。
聞かなくても分かる。この人がキルヴェス将軍だ。
「遅くなってすまなかったな、ユルキスタ」
キャンさんの頭にぽん、と手を置きながら将軍は謝った。結構いい歳の男性にする事ではないと思うけれど、気にしていないようだ。しかも、将軍が大きいからキャンさんが子ども扱いされてても違和感があまりない。
キャンさんも慣れているのか、肩をすくめただけだった。
「いいえ、歌姫様とお話したい事はいくらでもありますから、お気になさらず」
キルヴェス将軍はあたしの目の前に立った。
身長差がヤバい。近づかれると、見上げても分厚い胸板と顎しか見えない。
「初めまして、キルヴェス・タルヴェラ将軍。私はリーネット・ベイと申します。お会いできてうれしいです。こっちは、弟のオンです」
オンちゃんを胸元に抱えてぺこりとお辞儀をすると、頭に大きな手が被さった。そのままわしわしと頭を撫でていく。
「よく来てくれた、リーネット。まさか、再び隔世の歌姫様に会えるとは思ってもおらんかった。しかし、確かにイルタの面影があるな」
その言葉であたしとオンちゃんははっと将軍を見上げた。
この人は、あたしの母親を知っている?
「イルタと言うと、〈黄昏の歌姫〉イルタ・ペルホネンの事ですか? 面影があるとは、どういう意味ですか? 今代の歌姫様は、血縁者であるという事ですか?」
キャンさんが問うと、キルヴェス将軍は当たり前のように告げた。
「リーネットは異海から来たのだろう? 異海から来た歌姫でありながら広範囲にわたる祝福の光術プロセスを持つのだから、イルタの子としか考えられんだろう」
この人、あたしたちが異海から来たっていう事を当たり前に受け入れてる。これまでずっと信じてもらえなかったのに、この将軍は何でもない事のように思っているのだ。
びっくりして思わず言葉を失った。
「キルヴェス、貴方はいつも説明が足りません。もう少し順を追って説明をお願い出来ますか?」
キルヴェス将軍と共に部屋に入ってきていた老婆が、おっとりと尋ねた。落ち着いた山吹色のケープを上品に着こなし、穏やかそうににこにこと笑うおばあちゃんだ。
おばあちゃんにおっとりと見上げられ、将軍は首を傾げた。
「イルタは20年前に異海を渡ったのだ。その向こうにあるのが黄泉の国か知れんが……辿り着いて生きているならば、子供がそろそろこのくらいの年齢になっている頃だろう」
大きな手をあたしの頭の上にぽんぽんと弾ませながら、将軍は続ける。
どことなく雑な仕草だけれど、不快ではないのが不思議だった。
「たったそれだけの事でイルタ様のお子だと推測するには少々、妄想が過ぎるのではないですか、キルヴェス。他にも判断すべき要素があったでしょう。貴方の勘がいいのは今に始まった事ではありませんが、その説明では周囲には伝わりませんよ。時系列順に話なさい」
老婆の言葉でキルヴェス将軍は、腕を組んで眉間に皺を寄せ、自分の思考を辿りなおすようにたどたどしく話し出した。
「最初にリーネットの話を聞いたのは、グーリュネンで歌姫が現れた事と数キロに渡る祝福を行った、と報告された時だな。数キロに渡る祝福を行う祝福プロセスを持つ歌姫は、俺はイルタしか知らん。本人かと思ったが、年齢が合わぬからな」
祝福プロセス、と言うのは、最初にグーリュネンで打ち上げたあの光の球の事だろうか。あれは、母が歌っていた紡ぎ歌で発動したのだ。
「祝福の光術プロセスを組んだのは他でもない、イルタだ。自らの出身である西の穀倉地帯に少しでも恩恵を与えたいと作ったものだからな。あれには俺もヴァルもギオンも手を貸している。あの時に生成したプロセス以上のものがそう簡単に出来るとは思わない。だとすれば、祝福のプロセスを受け継いでいること自体が、イルタと関係の深い者だと思うだろう?」
……今、一瞬でとても衝撃的な話を聞いた気がします。
あたしはオンちゃんと顔を見合わせた。
だって、おそらくこの人がヴァルって呼んでるのは、最後の国王ヴァル・ユハンヌス=ルースの事だろう。キルヴェス将軍自身が引き起こした革命で粛清された王族だ。
それにしては、あまりにも親しい口調だった。まるで、親しい友人の事を話しているような。
しかもギオンと呼んだのは、おそらくあの『ギオン』だ。
「将軍は、あたしの母を知っているんですか?」
「ああ。イルタはこの世界の話をしなかったのか? ユハンヌス=ルース王国で俺が正炎駒であった頃、イルタが正紡駒だった時代があったのだ。もう20年前になるが……懐かしい」
知らなかった。
母がこの世界にいた間、いったいどんな風に暮らしていたのか。いったいどんな事を成したのか。
いや、知ろうとしていなかったのかもしれない。
でも、将軍の言葉が本当なら、あのプロセスは、母親があたしに託した光術だったのかもしれない。
確かに、あの光術は知らないうちに魂に刻まれ、主記憶上に常時展開されていた。そして、真名を知るリーダー以外で、あたしの主記憶に干渉できるとしたら、両親しかありえない。
そこから導き出せる答えは、確かにキルヴェス将軍の言う通りなのだ。
あたしが世界を渡ってしまう日が来ることを予感していたとは思わないけれど。
「母は、全然話してくれませんでした」
「イルタはこちらに戻っておらんのか? と言うより、リーネットはどうやってこちらに来た?」
ストレートに問われて、あたしは言葉を失った。
この人は母が異海を越えたことを知っている……話すべき? それとも話さないべき?
オンちゃんを見下ろすと、まだ信じるには早い、と視線が告げていた。
何とか表情を取り繕って、笑顔を作った。
「事故に巻き込まれてこの世界に来てしまっただけなんです……だから、今も、こちらの世界と向こうの世界を行き来する方法を探しています。ですから、もしキルヴェス将軍がご存じであれば、教えていただきたいのですが」
「歌姫様は異海へ帰ってしまわれるのですか!」
キャンさんが悲鳴を上げた。
すでに帰る算段も立っていて、『半月ぞろいの夜』の儀式が終わったらこっそり消える予定だなんてとても言えないや。
そしてキルヴェス将軍はゆっくりと首を横に振った。
「残念ながら、異海を渡る術はヴァルしか知らない。俺は全く知らぬ。それに、知っておったとしても教える訳にはいかんかもしれん。情勢にもよるが、隔世の歌姫を失うわけにもいかんからな。感情は理解するが、俺の立場では味方をしてやる事は出来んよ」
きっぱりと言い切ったキルヴェス将軍。
その瞬間、背筋がひやりとした。
この人は、感情と施政を完全に分離する事が出来る人なのだ。
先代王を処刑したのも本当なのだろう。たとえその相手が友人と呼べるような相手だったとしても、自分の目的のためには非情になれる人なのだ。理由と目的と、大義があれば情を切り捨てる事の出来る人だ。
オンちゃんの言う通り、黙っておいてよかった。この人には知られちゃいけない。あたしが向こうの世界に帰る事も、メリィが今、こちら側に来ている事も、そして――あたしが、リーダーの真名を知っている事も。
知られたらきっとこの人は、このままの調子で『申し訳ない』と言いながら共和国のために情を殺すことが出来るだろう。
そんな人だからこそ、共和国への移行を成すことが出来たのだ。
キルヴェス将軍は腕を組んで目を閉じ、当時を想う出すようにしみじみと言った。
「あの頃、〈正大走駒〉の敗戦後、イルタへの批判があまりにも高まって、見かねたヴァルが異海へ逃がしたのだ。その方法は、俺たち、当時の〈白薔薇の六棘〉にも知らされなかった。以来、王国の正紡駒は欠番で……と、ああ、しまった、イルタが異海へ渡った事は話してはいかんのだったか?」
きょろきょろ、と周囲の人間を確認するキルヴェス将軍。
キャンさんは黙っておきますよ、と肩をすくめ、おばあちゃんもおっとり、ほほほと笑った。とても上品そうなおばあちゃんの空気にあたしも肩の力を抜いた。
最後にキルヴェス将軍はあたしとオンちゃんを見る。
何だか不安そうな様子に、思わずあたしも笑ってしまった。
「……あたしもオンちゃんも、さすがに知ってるし、誰にも言わないから大丈夫ですよ」
おおらかで、でも意識的に自分を律して感情を捨てる事の出来る厳しい人。
でも何だかちょっと抜けてる人だなあ。あたしも、気を抜いたら隙を見せてしまいそうだ。
この人が、現代最強の炎の光術師、か。
あたしは、何でもできるけど少し抜けているリーダーを思い出しながら、〈炎〉と〈紡〉の光術師の相性がいい理由が何となく分かった気がした。
天性の決断力で有無を言わさず人を引き付ける姿に憧れるけれど、どこか抜けているのだ。気性が真っ直ぐ過ぎてどこかで間違えそうな危うさに母性本能的なものを刺激されるんだと思う。
妙なところで納得してしまって、あたしは誤魔化すように笑った。




