夏休み一日目
異世界の化石が掘りたくてはじめたお話です。
好きに書きます。
化石はロマン(*´ω`*)
夏休み一日目。
遮るものなど何もない夏の日差しを脳天に浴びながら、手にした〈ねじり鎌〉で地面を削り続けていた。その名の通り、草刈りに使う鎌の首をぐりん、とねじったようなその形状は、熊手で地面を掘り返すような仕草で、薄く地面を削いでいくのに適した形をしている。
だからと言って、別に農作業をしている訳ではない。
地質調査中なのだ。
何しろあたしが引っ掻いているのは草の一本も生えてない地面だ。幅広い河床に露出した、何万年か前に湖に堆積した地層の上だった。
新生代の地層はまだ柔らかい。指でつぶすとぽろぽろと崩れるほど。
そうして目当ての場所をいくらか削ったあたしは、目当てのものを発見して声を上げた。
「師匠ぉ! 見つけたよ!」
「おお、ようやった! どこや、リィ」
あたしの声で、少し離れたところでルーペ片手に地面に張り付いていた女性が顔を上げた。
日に焼けた健康そうな肌色。そろそろ四捨五入すると三十路になるくらいの年なのに、職人のように頭にタオルを巻いて、まるで少年のように笑う女性。ノースリーブからはすらりと鍛えられた腕が伸びている。腰のあたりまで下ろして結んだ赤いツナギがよく似合う。
あたしが指さし、彼女が覗き込んだ先には、薄い黄土色の砂質な地層の中に、ざらざらとした粗い礫質の地層が入り込んでいた。その形は、桜の花びらを二枚、並べたよう。
「間違いない。あっちの足跡の続きや。ようやったで、リィ」
師匠は日よけのキャスケット帽の上から頭をぐりぐりと撫でてくれた。
でも、いくらあたしが小さいからって子ども扱いするのはやめて欲しい。
褒められたのは、素直に嬉しいけれど。
あたしが見つけたのは、偶蹄類の足跡化石だ。二つの花びらは、足跡をつけた動物の爪の形。
この河床は、もともと湖畔だった場所に堆積した地層が露出しているので、こういった足跡化石が多く残されている。師匠とあたしの目的は、この河床の足跡化石データを収集することだった。
ねじり鎌で地面を薄く削り、4メートル四方の範囲で見つけ出した足跡の群集の数は数十個。
草食獣が群れを成して湖畔を歩いている様子が思い浮かぶようだ。太古の足音さえも聞こえる気がする。
何万年も前に生物が歩いた跡の上を、あたしは今、踏みしめている。
これは大きなロマンだ――震えるような感動が心の奥からにじみ出た。
「足跡の化石はすごいよねえ、師匠」
「突然何を言い出すねん」
ため息ともに感動を吐き出すと、師匠は、あきれたような声で返答した。
「ほな聞くけど、リィ、足跡化石が他に比べて有効な点は、何や?」
「えーっと……『生き物が確実にそこにいたって言う証拠』です。骨とか、他の化石は川で流されたりするから、本当にそこに住んでいた証にはならないんだけど、足跡は確実にこの環境を生き物が歩いてたって証になるよ」
「正解。よう覚えとったなあ。優秀な弟子や。もう免許皆伝やな」
「だってあたし、化石好きだもん」
あたしが勢い込んで言うと、師匠は気を良くしたのか唇の端を上げた。
あ、スイッチ入っちゃったかも。
思った時には遅く、師匠はすでに足跡化石について語りだしていた。
「他にも、歩幅から体高が分かるし、数から群れ具合が分かるし、走ってるか歩いてるかも分かる。うまくやれば走る速さも推測できる。もし走る速さが分かれば、骨格の組み立ても変わるかもしれへんしな」
「凄いね、足跡の化石って」
「せやろ? 生き物本体やないから軽く見られがちやけど、生体を知る手がかりとしては骨よりよっぽど分かる場合もあんねで? ほれ、恐竜かて体が水平やったり尻尾を引きずったり、復元図がよう変わるやん。あれも足跡化石と一緒に尻尾の引きずり跡があらへんかったから、っていう理由で書き換えられてんで。何しろあの長い尻尾や。もし引きずってたら跡が残らへんわけない。何しろ、カブトガニの足跡化石にかて尻尾の跡は残るくらいやからな」
師匠は、化石に心酔するあたしの目から見ても、変態レベルのオタクだ。
理科の先生なのに先生らしいことをしているのは見たことないし、理科準備室は大量の化石と研究資料が運び込まれて足の踏み場もないし、何より、少しでも化石に興味を見せた生徒を、師匠は見逃さない。
瀬戸内海の底引き網漁で見つかるナウマンゾウの化石の話を延々聞かされたのは、つい先日の話だ。
研究者ってみんなこんな人たちばっかりなんだろうか。
ちなみに今、彼女の中で流行っているのは足跡化石だ。
長々と恐竜や他の生物の足跡について語った師匠は、何話してたか分からんようなってもた、と言いながら首を傾げた。
「せやせや……それやのに、ちょっと大雨が降ったらその素晴らしい証拠が水に流されて消えてまうねん! その前に、こうやってデータを残しとかなあかん。何より、こんなん炎天下で歩幅だのなんだのを計測すんのも面倒やさかいな、ぱっと写して帰って涼しい部屋で計測するんや。分かったらちゃっちゃと手ぇ動かしい」
師匠はそう言いながら、大きな透明ビニールでその地面を覆う。
そして、あたしにも油性マジックを渡し、自分も靴を脱いでビニールの上に膝をついた。
「はーい」
額に浮かんだ汗を首に下げたタオルで拭い、あたしは足跡のトレースを開始する。
靴を脱いでビニールの上にあがり、透明なビニールに地面を透かすようにして足跡の場所を等倍で書き写し始めた。透明のビニールにマジックで足跡の位置と深さがプロットしていくのだ。
とんでもなく地味な作業だ。
でも、あたしはこの地道さが好きだった。
「地質学者――古生物学者でもええんやけど、うちらは過去の環境を復元したいんよ。それを知るには、地道にデータを積み重ねるより他ないんや」
口癖のように、師匠はそう繰り返す。
地質調査は正直、地味だし面倒だ。このデジタルの時代にこんなアナログ手法でデータを収集するなんて、ほんと、馬鹿げていると思う。
それでも、何も考えず足元の観察をして、それを書き連ねて、ふっと気づいて顔を上げると、辿ってきた道のりが見える。
そうすると、少しずつ答えの方向見えてくるのだ。あたしの手元に集まってくるデータは、点が線となり、線が面となり、世界が少しずつ形作っていくような気がする。
目の前の世界が秩序と理由を持って存在している事を知ると、すべての物事には理由がある、というとても簡単な世界の成り立ちに帰結する。
間違いなく、師匠はあたしの目の前に新しい世界を拓いてくれた――それは彼女がただ、地質調査の仲間を探していただけかもしれないけれど。
狭い世界に閉じこもり、壊れそうなそれを必死で守っていたあたしにとってはとても大きな出来事だったのだ。
足跡を探してはトレースし、トレースしてはまた探す、という作業を夕方まで繰り返し、ようやく帰路に就いた。
助手席から左手に見える夕日がまぶしい。
運転席に座るのは、夏休みになったのをこれ幸いと、部活動の名目であたしを拉致、四輪駆動の軽の助手席に放り込んであっという間にこの河原に連れてきた地学部顧問の女性理科教師。関西で最も有名な大学を出ていて、かなりの博識だが変わり者。基本的に人の話は聞かない主義だ。
彼女は運転席側の窓を全開にしたうえ、楽しそうに鼻歌なんてこぼしている。
「せっかくの休みや。明日も行くで、リィ。今日よりちと上流まで行ってみよか。できれば来月には論文にまとめたいしな。今回は、リィの名前も共著に載せたんで」
「ほんと?!」
ほんまや、と運転席の彼女は笑う。
この人は、あたしの家庭環境があんまりよくない事を知っていて、半ば無理やり地学部に入部させ、休みになるたびにこの愛車の軽の助手席に乗せて連れ回すのだ。
愛用の調査用具を詰めたサイドバッグも青い柄の岩石用ハンマーも、師匠が部費という名のポケットマネーで買ってくれた。
お蔭で、あたしは地質学に関してかなりの知識を身につけた。一人で知らない山に放り込まれても、それなりに調査出来るくらいに。
ちょうど日が沈む頃、あたしを家の前まで送り届けて、師匠はひらひらと手を振る。
「明日の朝8時、またここまで迎えに来るさかいな」
「はーい」
あたしもひらひらと手を振って、家の門をくぐった。
ドアの前に立って、深呼吸。
大丈夫。平日だから、共働きの両親はまだどちらも帰っていないはず。
意を決して、家の扉を開いた。
「ただいまー!」
そうしたら弟の声が返ってくると思ったのに、予想に反して家の中は静まり返っていた。
調査用のリュックサックだけ玄関に置いて、腰にハンマーをぶら下げたまま家の中に入る。パラパラと砂が廊下に落ちる。後で掃除しなくちゃ。
「クーちゃん、いるの?」
そう言いながら、リビングの扉を開けた時だった。
唐突に、光の渦が溢れ出した。
扉の隙間から漏れだした光は、電灯とか、フラッシュとかそんなレベルじゃない。まるで視界を埋め尽くすように広がったその光の奔流は、瞬く間にあたしの全身を包み込んだ。
声も出せず、立ち尽くす。
「……りー姉! 来ちゃだめだ!」
留守番していたはずの弟の声がした。
「クーちゃん、どうしたの? 何があったの?」
声の方向をみると、光に包まれながらも懸命にこちらに向かって手を伸ばす弟の姿があった。
その背後に、見たことのない人が立っていた。中学生の弟よりずっと背の高いその人。溢れる光のせいで顔はよく見えなかったが、その立ち姿だけでなぜかあたしは恐怖を覚えた。
その男性が、弟の手首を握りしめているようだ。
強盗かもしれない。
「クーちゃん!」
恐怖を押し殺してあたしも必死に手を伸ばし、駆け寄ろうとした――刹那、足下の床が消失した。
かろうじて見えていたはずの弟の姿がふっとかき消える。
腹の底がひやりと冷え、一気に落下する感覚。心臓が跳ね上がり、全身が硬直した。
しばらく落下すると、どぷん、と水のように湛えられた何かに落ちた。たたえられた水のようなソレの中で、あたしは必死にもがいた。
けれども、無駄だった。
息が出来ないわけではないのだが、体がうまく動かない。
粘性の高いその液体のようなモノはみるみるあたしを包み込み、意識は、体がその液体に沈むにつれてどんどんと沈んでいってしまう。
クーちゃん……
暖かな液体が周囲を満たし、あたしは落ちていくそのまま、緩やかな眠りについた。
参考:
『フィンランド国民的叙事詩 カレワラ』 森本覚丹 訳 講談社学術文庫
『ムーミン谷の絵辞典 英語・日本語・フィンランド語』 トーベ・ヤンソン




