つまらないエポニーヌ
レアの微笑に見送られ、アクアエを出た僕は一度エクスにある父のコテージに向かうことにした。
僕の荷物は明日の朝にコテージに届く手筈なので明日の午前中は外出できない。午前中の食料をコテージ道中のスーパーマーケットで購入してセザンヌ通りを感慨深く歩く。
一度街を歩けばもう芸術の中、ここはポールセザンヌ縁の土地。
近代絵画の父セザンヌの作品は世界各国に散らばってしまい、この町には片手で数えるほどしかないけれど、セザンヌが生涯書き続けたサントヴィクトワール山がこの街からは見える、それだけでもエクスの住人は満足だろう。
そう簡単に思い至らせてくれるほどサントヴィクトワール山は雄大で壮観だ。
計算されたような美しい左右非対称、山陰と
雲のない空とのコントラストは日本の富士山とは違った山の存在感で、美しさと共になにか恐怖を感じる。
「うわー。。怖い」
僕は意識なくそう独り言を言ってしまった。
自然の圧倒的な存在感、美しさと畏怖を肌にピリピリと感じながら交差点を曲がり、形として僕はサントヴィクトワール山にむかって歩を進めていた。3分ほどサントヴィクトワール山にむかい歩き、突き当たりのT字路を左に曲がると大きめの教会に出会った。
地図上ではその教会の隣の家が、父の所有するコテージのようだ。教会に意識をとられつつも隣の家の鍵を四苦八苦しながら空ける。
家の中は少々埃っぽいものの、比較的綺麗で1人では持て余すほど多くのゲストルームがある。
リビングの大きな窓で隣の教会を美しく見ることができる。窓枠は絵画の額縁のような装飾が施され、外の教会が一枚の絵のようになっている。しばらく見ていたが食材のことを思い出し
冷蔵庫のコンセントを差して、マーケットで買った食材やビールを詰め込んだ。
二階に上がり布団を外に干し、棒で布団を叩きまくるとミストのような埃が飛び出しむせ返してしまった。涙が出るほどむせ返し、向かいの道路の井戸端会議中のご婦人らに
「綺麗にしないと寝られないわよ~」
などとひとしきり笑われる。僕はご婦人らには分からないようにイタリア語のスラングで、
「ヴァッファンクーロ!(馬鹿野郎)」
と何度も叫び最高の笑顔で手を振る。
するとご婦人達も笑顔で手をふりかえしてくれた。
布団から埃を叩き出し綺麗に天日干しにてなんとか夜には寝られるような準備をすませ、僕は財布と携帯を持って家を出た。
家の前に出ると隣の教会の前に立っていた、一人の女性が突然、
「ちょっと!あなたのせいで教会で吹き出して笑っちゃったじゃない!周りの人に変な目で見られて出てきたのよ!」
美しいとてもとても美しいその女性は半分呆れ半分面白ろさを暗に主張しながら、僕に話しかけてきた。
「あなたイタリア人?そうは見えないけど。とにかくイタリア語で何度もあんなこというから。私、笑っちゃって!」
「僕は日本人だよ、mixだけどね。とにかく苦しいのに馬鹿にされたから、平和的にうさ晴らししたまでさ。君はフランシーズだろ?イタリア語もできるのかい?」
「少しね!大学で勉強してて少しは知ってはいたけど、あのスラングを叫んでる人は初めてよ。ほんとあなた可笑しいわね」
「どうもありがとう。可笑しいおかげで君とこうして話ができたんだから、捨てたもんじゃないだろ?」
「まぁ、口も上手いのね。私の名前はエポニーヌ。エポニーヌ•ドゥ•マーロウよ。」
「よろしくエポニーヌ。僕はナギ。ナギ•ローゼン•レビ。ローマの大学に通ってるんだけれど、少しエクスに滞在するんだ。」
「ローマ?まさか、ローマ大なの?」
「ぁあ。ローマ大学サ•ピエンツァだ」
「信じられない。わたしも同じローマ大学よ!こんなことってあるの!」
「冗談だろ!まさか同窓なんて!」
「私はまだ一回生なの、あなたは?」
「僕は三回生だ、こんなところで話すのもなんだから時間があるならカフェにでもいくかい?」
「ちょっとパパに聞いてくるわ!」
そういうとエポニーヌは細身の体を弾ませ教会へ入っていった。
しかし驚きだ、こんな偶然があるから困ってしまう。ひょんなことから出会った、ものすごく美しい女性が同窓なんて。
こんなことが起こるからこの世界から恋は無くならないのだろう、この奇跡的な出会いを運命だとかそういったものに結びつけて盲目になってしまう。
その証拠にエポニーヌは浮かれた足取りで僕のお茶の誘いに乗るため、神への祈りを中断してもいいか父親に聞きにいくのだから。僕は神に同情していた。
そうエポニーヌとは対照的に僕は同窓と聞いて一瞬沸騰した気持ちはどんどん冷めていた。
なぜだろう考えてみてもまったくわからない、エポニーヌはそれはそれは美しい、レアも美しいがレアとは一線を画して美しい、誰がみても美しいと言うだろうそれほどまでに完璧で形容しようとしても僕の語彙では例えられない、透き通った海が美しいようにエポニーヌの美しさには理由がなかった。
なのになぜかレアの時とは違って情は熱を帯びることはなく、スーーッと適温に戻ってしまっている。
36℃の僕のもとに、沸点を超えたエポニーヌが戻ってきた、
「パパは先に帰るって!だから大丈夫みたい、さあ行きましょう!でも本当に凄いわね、本当にこれって偶然なのかしら!」
こんな熱湯かけられ、僕のエポニーヌと仲を深めあう心は大火傷。もうこうなればとりかえしはつかない、僕は平静(ここでいうエポニーヌと同じ温度)を装う、
「じゃあ。いこうか!楽しみだ!」
「ところであなたファミリーネームはレビって言ったけれどセファルディム(ユダヤ系)なの?」
「父がユダヤ系スペインなんだ、君の名前は綺麗だね。エポニーヌ。すごくフランス的だね」
「ありがとう!すごく嬉しい。ナギもユダヤ系の名前なの?」
「ナギは日本の言葉さ、穏やかな海面という感じかな。」
「素敵ね!優しい名前。日本の文化って感じね」
ほんの少し傾いた太陽にサントヴィクトワール山も影を伸ばし、全くなかった夕方の香りを微かに感じる時間に僕とエポニーヌはエクスの中心地へ向かう。
僕とエポニーヌは右に曲がり、サントヴィクトワール山を背にして歩き始めた。
歩いている最中もエポニーヌと会話してるはずなのに、どこか自分の無意識なところで話していてる。前に伸びている2人の影は同じ真っ黒であるはずなのに、なぜかエポニーヌと僕の影の温度は違うように、そしてそれが滑稽に感じた。
エポニーヌは美しい間違いなく美しい。美しくないなんて意見は僕はみとめない。容姿だけは文句のつけようがない、そして標準的なフランス語で教科書通りの発音だ。
でも僕はなぜかエポニーヌのつまらなさを感じていた。特別な感情を抱くことはないという確信。エポニーヌは美しいがつまらない、僕はこの短時間でこの結論に達した。
僕はエクスの夜は素晴らしい夜になることを知っていた、街頭は暖色で赤に近いオレンジ色が町すべてを包み、音楽が方々で演奏され。日中よりもっとディープに食と酒と人生が謳歌される。
そんな楽園エクスの最高の夜が近づいてきてる心躍るはずの今は、つまらないと感じていたエポニーヌのおかげで台無しになっていた。
だがエポニーヌはなにも悪くない、僕は中心地へ歩く“このときは”罪悪感でいっぱいだった。
少しずつ太陽が赤みを帯びてくれば、その太陽の赤く暖かい色は街に落とされて、夜通しエクスは夕日のような暖かい光に包まれる。
フランス語は文学を語るのに最適で、ドイツ語は哲学、イタリア語は愛を語るには最適だ。
ここはフランスのエクス-アン-プロヴァンス。
だが真実は、それがどこであろうと、相手が誰であろうと、どういう心であろうと、若い僕たちは夜はイタリア人になってしまう。
熱い暑いエクスで初めての“夜”
つまらないエポニーヌとの長い夜が始まる。
第三章に続く。