レアとの出会い
木々が青く葉を繁らせ始めたローマは憂鬱で、僕は大学を少しばかり休んで南フランスはプロヴァンス地方の楽園、エクス‐アン‐プロヴァンスに行くことにした。
前日にリヨンに泊まり、朝一番にリヨン駅から客が溢れそうなTGVに乗り込む。流れる車窓からは大した情報は得られないが、何が楽しのかほかの乗客たちは満足そうに一瞬で切り替わってしまう窓の外を見ていた。
私がなぜエクス‐アン‐プロヴァンスに行きたかったか。そう思い至ったのは説明が長くなるのでやめておこう。そんなことを説明しなくてもこれからエクス‐アン‐プロヴァンスで出会う二人の美しい女性との恋を語る上でなんの問題もないし、そんなことを説明してしまえば二人の美しい女性との恋の話に水を差してしまう。
エクスにはただ行きたかったのだ、いやこのTGVの中ではエクスに生きてエクスに死んだ天才画家ポール・セザンヌに焦がれていたといっていいかもしれない、セザンヌが生まれ過ごし没するというエクス、どうしてセザンヌはそれ程までにエクスを愛したのかそんなことを考えていた。
TGVは三時間あまりでエクス‐アン‐プロヴァンスTGV駅に到着した。ワインで赤ら顔のマダム達に続き僕はエクスの地に降り立った。エクスは暑くちょうど日本の夏とよく似ている気候だったが、日差しは日本ほど攻撃的ではなく素晴らしく気持ちの良い体感だ。
駅から出て歩く足取りは快活だが、焦れったいことにエクスTGV駅はエクスの中心地から少し離れている、中心地に出ているシャトルバスに乗り込むためターミナルを歩いていても、陽気な笑い声や歓声があちらこちらから聞こえてくる。
バスに乗り込む、しばらくすると満員になりドアが締まると、ドライバーが
「人生の楽園エクスへ発進します」
と言ってクラクションをご機嫌に二度鳴らせば乗客は楽しそうな声を上げバスが発進した。所要時間は20分、どんどんとエクス‐アン‐プロヴァンスらしい景色へと変わっていく。
エクスという街は実に個性的な街だ。
新市街の街中には大小様々な噴水が数え切れないほどあり、その噴水と噴水が通りを結ぶ基点になっている。通りは美しいプラタナスの並木道でその広葉樹からは木漏れ日が歴史ある道路に降り注ぐ、そして通りには必ず名前がついており、ポール•セザンヌ通りもたくさん点在している。
だが旧市街になると景色や道路が変わる、道路は狭くなり、建物と建物の間はほとんどなく全て三階建て以上、道を歩くとまるで両側には壁がそびえているように感じる。しかし閉鎖的ではない、空を見上げれば建物と調和していてそれがアートのようになっている。
そして旧市街にも小さな可愛らしい噴水が通りごとにあり、まさしくエクスは噴水が紡ぐ街だ。
私はバスを降りると、真っ先にエクス最大の噴水ロトンド大噴水に向かうことにした。
大小様々な通りには必ず食べ物や雑貨などの露店が並んでいる。歩くだけで店主たちが露店から陽気に声をかけてくれ、オープンテラスからは食事やワインを楽しむ人々の高揚した声が飛び交う、彼らはシンプルに食とこのなんでもない休日の時間を愚直なまでに満喫している。
その姿を見るだけで凝り固まった顔の筋肉もほろっと煮崩れをおこしたように緩み崩れる、誰だって心から楽しんでるエクスの人を見ればそうなってしまうのだ。
「ようこそエクスへ!」
「エクスに乾杯!」
「愛と人生に!」
「だらけた休日に乾杯!」
歌う人達もいる、
「許してくれよフィアンセ~、指輪は外さないから~、今日はワインを浴びるよ~」
人たちは陽気に人生を謳歌している、グラスを掲げて人生と酒と食はどれほど素晴らしいかを友人らと語り、そしてそれ以上に女性がどれほど素晴らしいかを語るのだ。
しばらくすると大きなミラボー通りに出た、通りの向こう側には大きなロトンド噴水が大量の水を吐き出しているのが見えた。はやる気持ちを抑えられないで早足になる、プラタナス並木の間から零れる木漏れ日の美しさにも気づけないで、活気あるミラボー通りを通り過ぎた。
ロトンド大噴水の素晴らしい彫刻と水の動きは圧巻で、様々な角度から見たり、腰をかけてみたりした。一番上には三体の像が立っていてそれぞれ、司法、農業、芸術、を表しているらしい。
そして何よりロトンド大噴水から見えるプラタナス並木のミラボー通りは素晴らしく上品に佇んでいて、ここから美しく見えるために作られたことがわかる。
しばらく近辺を散策していたら、私は朝からなにも食べていないことに気づいた、気づいたとたん耐え難いほどの食欲にみまわれた。そうなればもう美しい教会も噴水もセザンヌも目に入らず、とにかくマルシェ(市場)への道を探す。
すると訪れたいと思っていた
レ•ドゥ•ギャルソン(二人の給仕)というカフェが近くにあることに気づく、私は迷うことなくギャルソンに向かった。正午ということを忘れ当然この人気店を満喫できると思っていた。
レ•ドゥ•ギャルソンの店が見えると僕は落胆した。溢れるほどの人がギャルソンで昼の食事を満喫している、冷静に考えれば分かることだった。
正午を過ぎた時間にレ•ドゥ•ギャルソンというセザンヌやピカソらが愛して通いつめた名店入れるわけがないのだ、しかしだからこそギャルソンはエクスにいるうちには必ず訪れたいところになるのだろう。
僕はギャルソンを諦めて、その近くにあったエクス•アクアエというビストロに入った。扉をあけるとカチャカチャと呼び鈴が鳴り。厨房から一人若い女性がゆっくり出てきた、近くまできたその人は、
「お一人ですか?お好きなところにどうぞ。」
と笑顔で言うとおそらくだが店内の所定の位置に戻り、どこをみるでもなくたたずんでいた。
店内は他に老夫婦と男性が数人食事をとっていて全員が同じブイヤベースとマスカットワインを楽しんでいた。
この時期の昼頃はどこも満席だから、この店はあまり評判がよくないのかと思ったが、店内は綺麗でセンスも良い、おそらく厨房の中のシェフも丁寧な仕事人だろう。
だがあまりの閑散ぶりなので僕は不安であったが給仕の若いあの子が美しかったので、不味くてもいいかと思い、店の一番窓側に腰をかけて小さな呼び鈴を鳴らした。
「ご注文は?」
「この店の一番の人気はなんですか?」
「メスクラン(野菜盛り合わせ)とブイヤベース、あとはラム肉のパイ包み焼きなどですかね」
「ではメスクランとラム肉のパイ包み焼きをお願いします」
「飲み物は?」
「 Vino rosso(赤ワイン) 」と僕はわざとイタリア語で笑いながら言った
すると彼女はハムスターのように頬を膨らませた含み笑いで、
「 Sì (わかりました)」と大げさにイタリア語で返してくれた。
僕と彼女は見つめ合って笑い、そして彼女は厨房に消えていった。彼女は美しかった、髪は黒く艷やかで短く女性的、細く首がスッと長いのでどの角度から見ても絵になる、瞳は曙の空の色で、吸い込まれるとはよく言うが、突き放されるような瞳だ。
そしてなにより彼女の素晴らしいマルセイユ訛りが僕の耳を誘惑する、まったく飽きない魅力的なフランソワーズだった。
エクスにある、エクス•マルセイユ大学の学生だろうか。背も高くて182㎝の僕と対峙しても目線は少し低いくらいだから、おそらく175㎝近くはあるかもしれない。
並んで歩くのに丁度いいじゃないかと一人窓の外の屯する若者達を見ながら考えていると、彼女がナイフなどのカトラリーと赤ワインを運んできて、ビストロには珍しくワインの説明を彼女がはじめる。
微笑を宿した口元から、マルセイユ訛りのうっとりする言葉が朗々と飛び出すが、その内容は右から左、僕は目の前のフランソワーズに虜にされていた。説明が終わる、
「ワインのことで何か質問はありますか?」
「貴女のお名前は?」
彼女は微笑し
「産地はエクス‐アン‐プロヴァンス。名前はレア•ソニエール」
「よろしくレア。しばらくここに滞在するんだ、ここには必ずまた来るよ。」
「嬉しいわ、また来てくれるのをまっているから。ラム肉のパイ包み焼きは少し時間がかかりそうだから、ごめんなさい。」
「まったくかまわないよ。ただその間は君がそこに座って話し相手になってくれればいいんだけどね」
「まぁ。それはまた今度あなたがうちに来てくれたときに」
彼女はそういってまた厨房の中に消えていった。美しい女性に冷たくされればされるほど男は喜び追いかける。
僕は自分を単純で馬鹿な男だと思いながら同時に、この店に入った自分をよくやったと褒めて、昔ながらのギンガムチェックのナプキンに、レア•ソニエールと指で書いていた。
いい名前だ。ワインを一口飲む。フルネームで教えてくれ印象のいい会話ができたこともあって僕は先ほどの空腹を忘れていた、ワインは空腹の胃袋に流れ込み僕はあっという間にいい気分になってしまった。
レア•ソニエール
なにか彼女の多くを知ったような幸せな気分になっていたが、僕はまだこの時は彼女の名前と視覚に入った容姿を知ったにすぎなかった。
僕はレアの心の奥にある闇や葛藤も全く知らずに浮かれていたのだから、このとき僕は本当に旅と酒に酔っていたんだ。
そして僕はエクスで出会うもう一人の恋の相手、
中身がなくてつまらないが美しい女性
“エポニーヌ•ドゥ•マーロウ”
ともまだ出会っていなかったのだから。
暑い熱いエクス‐アン‐プロヴァンス
これはエポニーヌとのふざけた恋と、レアの心を溶かしていく恋、そんな二つの恋の話。
第二章へ続く。