中
「すいません、お邪魔します」
「まぁまぁ、いらっしゃい」
達也の来訪を実に嬉しそうに受け入れる母。電車でもそうかかる距離では無いのだが、達也が車で家まで迎えに来てくれたので、そのまま彼の運転で実家へ辿りついた。
「とりあえず、お茶でも飲んで下さいね」
「あぁ、いえ、お気づかい無く」
目の前で繰り広げられるのは母と達也のお約束のようなやりとり。自分の生まれ育った家に彼が足を踏み入れていると言う光景が、何だか私には擽ったかった。
達也の仕事は、雑誌の編集者だ。
とは言え、仕事の上で関わりを持った事は一度も無い。
私を担当してくれていた女性編集者に無理矢理持ちかけられた、出版関係の人が集まると言う合コンで、私と達也は出会った。徹夜明けもあってか、非常に面倒くさいと感じていたのだが、今となっては感謝している。ちなみにその女性編集者は、未だに私の担当で、生憎未だに独り身で、達也の同僚でもある。彼女が実は達也を狙っていたのかどうか、それは流石に怖くて聞けなかったが、今では事あるごとに、先生はいいですよねぇ、と不満を垂らす。自分で誘っておいた癖に、よく言う。
仕事の幅でも広がればと、合コンの二次会で名刺交換をして、後日二人っきりでのデートのお誘いを受け、お付き合いを始め、2か月前、プロポーズをされた。
その日、締め切りと言う名の修羅場を超えた私の元にやって来た彼は、普段と変わらぬ様子で私の肩を揉んでくれた。
「お疲れ様」
「疲れたわよ~。あんたんとこの雑誌、特集やるならもう少し余裕持ってスケジュール組んでくれない? 普段通りとかマジで死ねる」
「でも、この後は少し余裕出来るんだよね?」
「とりあえずはね~。3日位は寝倒せる予定~」
「そんじゃ、元気になる差し入れ」
そう言って彼は、私に紙袋を手渡した。
「お、気が効くじゃない」
チョコレートか、シュークリームか、甘い物を想定して袋に手を入れた私の手に収まったのは、小さな箱だった。開くと、それ以外のものは受け付けませんと言うように、スッポリと、指輪が収まっていた。
「達也、これって……」
「結婚しよう」
言葉はサラリとしていて、だけれども、緊張した満面の笑みを浮かべる彼に、逆らえる者などいるのだろうか。
「……いいよ」
達也の真似をするように、サラリとそう応えると、彼は揉んでいた私の肩から手を離し、そのまま私の身体を抱いた。
「よかった~、断られたらどうしようかと思った」
「よしよし、頑張ったね~」
彼の頭を撫でてやると、彼は「元気出たか?」と言って笑った。
「出た出た」
それがもう、二か月も前の事だなんて信じられない。今でもその時の事を思うと、頬が緩んでしまう。
母のお誘いを丁重に断った私と達也は、荷物を居間に置いて、そのまま父の部屋へと向かった。
二階の一番奥の部屋。
この部屋の中には、私にとってはそんなにいい思い出が詰まっていない。入る前に深呼吸をして、ドアのノブに手をかけるが、やはり躊躇ってしまう。
「琴、大丈夫か?」
達也が声を掛けてくれた。傍目から見ても、私は相当緊張しているのだろう。
「うん、大丈夫」
無理矢理に微笑んで見せると、少しだけ力が沸いて来た。
ドアのノブを回すと、ドアはあっさりと開いた。
途端に埃っぽい空気が廊下に流れ込んで来る。それと同時に、忘れようも無い、父の部屋の空気が、私の中に流れ込んで来る。
一歩足を踏み入れると、父の空気を媒介にして様々な記憶が瞬時に頭を巡った。
懐かしいとは思えなかった。
未だに私の中には、私が思うよりも根強く、父の記憶が残っていたのだ。
「立派なピアノだな」
達也は気後れする事無く、私の横をすり抜けて、部屋の中央に鎮座するピアノへと近づいて行った。
大丈夫、私はもう一人じゃ無いから……。
自分に言い聞かせながら、達也の後を追ってグランドピアノへと近づいた。
「これ、いくら位すんの?」
「さぁ、私が物心ついた時には、もう家にあったもんだし。でも実際買ったら、ん百万は下らないんじゃない?」
「はぁ、やっぱりそん位はしちゃうんだな、いい音出そうだもんな」
関心したような相槌を打ち、達也はグランドピアノに手を触れた。こう言う時、値段の話をしておいて、そこから音に結びつく会話に流れる、達也の価値観が私は好きだ。きっと何も知らない人間なら、値段の高さに驚くだけで終わっているだろう。音楽の流れる家の生まれでは無いのに。
「弾いてみる?」
「俺、ピアノ弾けねぇよ。琴、弾けるんだろ? 弾いてみてくれよ」
「冗談。私はもうピアノはやめたのよ」
弾き続ける理由も、とっくに無くなったし、と言う言葉は飲み込む。
「琴、それじゃお母さん、教室の方行くから、後宜しくね」
部屋に顔を出した母は、それだけ告げて去ろうとした。
「ちょっと待って!」
慌てて呼びとめる。
「何? あんまり時間無いのよ、頼んだわね」
「聞いてないんだけど。お母さん、今日教室あるの?」
「あら、言って無かったかしら?」
「聞いて無いよ。大体、何したらいいか分かんないんだけど……」
「そうそう、スコアとCDは捨てないでね。残った物をあんたが適当にしてくれたらいいわ」
「適当にって……」
「あんたが要ると思った物はとっておいて、残りは全部捨ててくれていいから」
「……本気で言ってる?」
「いいのよ。お母さん、全然捨てられなかったから、あんたに任せた方がよっぽどいいのよ」
「……洋もそれでいいって?」
「あの子も今忙しくなっちゃったからね」
「確認してないの?」
「スコアとCDは取っておくって言ったら、じゃあ、琴に任せるって」
「そんな……」
「いいから、親孝行だと思ってやんなさい。達也さんもいる事だし、きっとすぐ終わるわよ。部屋の中に段ボールいくつか置いといたから、適当に使ってね。それじゃ、お母さんもう行くわ。後よろしくね」
そう言うと母は、私の横をすり抜け、部屋を覗きこんで、「それじゃ達也さん、宜しくお願いしますね」なんて高い声で達也に挨拶をするのだ。
再び私に、「じゃあね」と声を掛けた母が階段を降りて行くのを見ながら、私は頭を掻き毟った。
「なんなのよ、全く……」
零しながら部屋に戻ると、達也は既に畳まれた段ボールを見つけたようで、それを手際良く箱状に戻していた。
「お母さん、教室って言ってたけど、習い事でもやってんのか?」
「違うわ。お母さん、ずっと子供に教えるピアノ教室やってるの。教室って言っても、出張で相手の家に行って教えてるんだけどね」
「すごいな、本当にピアノ一家なんだな。確か、お兄さんも有名なピアニストなんだよな?」
「有名なってよりは、父さんが死んで一気に有名になったって感じね。実力もそこそこあったし、そこに話題性が乗っかったってだけよ」
実際、洋と父さんのピアノを聞き比べたら、その出来は天と地程の違いがある。それはきっと、洋本人も分かっているのだろう。だからこそ、今はがむしゃらに頑張っているのかもしれない。いつ飽きられてもいいように、稼げる時に稼ぐつもりなのかもしれない。
「なんだ、私と一緒じゃない……」
流石は、双子と言うべきだろうか。
「何か言ったか?」
「ん、なんでも無い。さっさとやっちゃいましょ。とりあえず、ピアノ以外全部捨てるわ」
「全部って、お前」
部屋の中をぐるりと見渡しても、ピアノ以外の目ぼしいものは何も目につかなかった。どこかの国の置物とか、父さんの愛読書なんかもあったが、思い出の付加価値を取っ払った段階で、それらは不必要な物に成り下がる。ましてや、全権を与えられたのは、親の希望から逃げ、父と対立し続けて来た可愛くない娘だ。希少価値もプレミアも、私のフィルターには存在しない。
「本当に、全部捨てちゃっていいのか?」
「欲しい物があったら持ってってもいいわよ。ただし、結婚しても、私の目に留まる所には置かないって条件でね、それと……」
部屋の隅にある、大きな本棚に目を移す。
その本棚には、父さんが集めた貴重なスコアや、名の知れた指揮者やピアニストのCDが詰まっている。結局この部屋の中で、ピアノ以外で価値のあるものなんて、この棚の中に収まっている物位だ。父にとっては大事な物だったようで、一度として手を触れた事は無い。手を触れた洋に対し、父が激怒しているのを目にしていたからだ。その価値も、クラシックに暗い人間には分からない程度の物に過ぎないだろう。
「つまり、要は力仕事って事よね」
溜息が出なくも無かったが、仕方ない、乗りかかった舟だ。達也がついて来てくれて本当によかったと、心から思った。
17の時、私は父の部屋に呼び付けられた。
「琴、今日、コンクールを辞退したそうじゃないか? 何か理由があるのか?」
言葉だけは尋ねるように、だけれども、そこに含まれた憤りを隠そうともしない。何かを咎める時の父の言い方が、私は大嫌いだった。
私はその日、父に優勝を命じられたコンクールをボイコットしたのだ
「……下らないと思ったから、出なかった」
「ふざけるんじゃない! 下らないとはなんだ!」
父はどれだけ激昂しても、絶対に直接手を上げたりしない。
私を傷つけたくないからじゃない。ピアノを弾く手を痛めたくないからだ。なので、時折物が飛んでくる事はある。
「もううんざりなのよ。毎日毎日ピアノピアノ。私は、ピアノなんか弾きたく無いの!」
父の鋭い眼光が私を睨む。心の底から怒りに震えてる姿に、思わずたじろぐが、ここで負けてはいけない。
「父さん、私、絵が描きたいの。この間、私、学校の写生大会で金賞取ったのよ。すっごく嬉しかったのよ。ピアノだけが全てじゃ無いの。皆、私の描いた絵をいいねって言ってくれたのよ」
そこで父は、机の上にあったパイプを私に向かって投げつけて来た。避けきれなかったパイプが、私の右頬に鈍い痛みを残す。
「そんなものが何になる!」
父は、顔を真っ赤にして私を怒鳴り散らした。
「才能の劣るお前は、洋の何倍も練習を積み重ねなければならんのだ! それなのに、絵だと? 下らない絵を描いてる暇があるなら、一秒でも長くピアノを弾け!」
父の怒号と、右頬の痛みが混ざり合った時、私の中で、何かがぷつりとキレた。
「こんな家、出てってやる……」
それだけ言って、私は踵を返し、部屋を後にしようとした。
「おい、まだ話は終わってないぞ! おい、琴!」
父の声を無視して、部屋を出た。自分の部屋から、鞄と財布と携帯だけを手に取って、階段を駆け下り、家を飛び出した。
玄関を飛び出した瞬間、洋に出くわした。
「どいてよ!」
泣いてる顔を見られないように、顔を背け、洋を突き飛ばすようにして走った。
若かったのだ。
幼かったのだ。
他者から見たら愚かに映るだろう。勿論、自分一人で何でも出来ると思い込んでいた訳では無い。ただ、ピアノに縛られたこの家から逃げ出したくて、飛び出したくて、そして、結局、ピアノに関しては洋ばかりで、私を顧みてくれなかった父を、何としても振り向かせたかったのだ。
その後、母と連絡を取ったが、父は私が謝るまで、頑として許さないと言っていたらしい。
そして、私は謝る気なんてサラサラ無かった。半ば意地になり、アルバイトと母の援助を得て、通っていた高校の近くで一人暮らしを始めた。
一人になった私は、油絵、水彩、イラスト、漫画、とにかくひたすらに絵を描き続けた。色んな絵に挑戦する事で、自分にはイラストが一番向いていると感じ、そのままイラストレ―ターを目指すに至る。
私が家を飛び出してからこちら、洋は時折逃げ場を求めるように、私のアジトに転がり込んで来た。
「琴はずるいなぁ」
「ごめーん」
「僕も一人暮らししたいなぁ」
「でも、ピアノ弾けなくなるんだよ?」
「そうなんだよなぁ、それはちょっときついんだよなぁ」
幸いにして双子の間には、変わらず軽口を叩けるような気楽な空気が流れていた。
きっと洋は、私に、自分がピアノを続けなかったらと言うイフの未来を見ていたのだろう。それは、私も洋に、もしもあのままピアノを続けていたらと言う未来を見ていたから、わかる。
私達は、洋と、琴の双子だから。
二人合わせて、洋琴、そう、ピアノになるのだ。
結局私は、自分の名前と、洋の存在の所為で、一生ピアノの呪縛から逃れる事は出来ないのだから。
そして、私が家を飛び出して六年後、あの日以来一度も顔を合わせる事も無く、父はあっさりと逝ってしまった。病院に駆け付けた時には、既に全てが終わってしまった後だったのだ。この一点においてだけは、未だに後悔しか残っていない。
勿論、父に許しを乞うつもりなんて毛頭無かった。だけど、もしそうだったとしても、喧嘩別れのままだなんて……。
きっと私には、そう思う資格すら、ありはしないのだろうけれど……。