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「それは、絶対に帰らないと駄目だ」

 土曜日の昼下がり。駅前のカフェは中々の賑わいを見せていた。朗らかに会話を楽しむ人、静かにコーヒーの香りを楽しむ人。そんな中、達也は真剣な面持ちで、私に言葉を返して来た。

「ん~、でもなぁ……」

「でもとかじゃない。何なら俺も付き合うから」

「いいよ、別に……」

「いや、琴一人だったら絶対行かない。だから俺も一緒に付いてく。そろそろ一度ご挨拶に行かなきゃって思ってたから、丁度良かったよ。明日の何時にする?」

「大丈夫だったら、一人で行けるよ……」

 達也の言葉を口では否定するが、その実、自分一人では確かに、だらだらと考えた挙句、結局行かずに終わるのだろう。


 昨夜の事である。

『琴?』

「お母さん、どうしたの?」

 母からの突然の電話を受け、私は少なからず動揺した。

『あんた、全然連絡してこないんだもの。明後日が何の日か分かってる?』

「明後日?」

 壁掛けのカレンダーに目を移す。赤い文字を見て、日曜日だと理解した直後、ああ、そうか、と胸の内で嘆息した。

 父の命日だ。

「もう三年になるんだね」

『そうよ。早いわよねぇ。あんた、帰って来るの?』

 帰って来るんでしょ? と言う、言葉にしなくても伝わって来る重圧が、母の言葉からは感じられた。

 今抱えているカット絵の締め切りは来週だ。そこまで余裕がある訳では無いが、言い訳に出来る程切迫している訳でも無い。

「ん~、まだ分かんない」

『まだって事は無いでしょう? もう明後日なんだから、帰っておいで』

「別に私がいなくたっていいでしょ?」

 死んでから三年と言うのは、実に中途半端な時期だ。一周忌と三回忌を済ませ、特に何かをやる訳では無いし、次の七回忌には随分時間が開く。心の穴を埋める程の時間には、まるで足りないにも関わらず……。

『そう言う問題じゃないの。もう三年でしょ? そろそろ、お父さんの遺品、整理しようと思うのよ。琴も手伝いなさい』

「洋は?」

『洋も、夕方に成田に着くらしいから、夜にはこっちに寄るって。ところであんた、仕事の方は上手くいってるの?』

 触れて欲しく無い話題を振られ、思わず息が詰まった。

「まぁ、そこそこね」

『今更口を出したりはしないけれど、もっと普通の仕事も一杯あるんだから』

「普通って?」

『事務とか経理とか。もっと安定した仕事も一杯あるじゃない』

「今時大手の会社だって、潰れたりリストラにあったりするんだから。それに、仕事に困ってる訳じゃないし、割と稼ぎもいいんだよ?」

『それでもねぇ、やっぱり不安定じゃない? ちゃんとご飯食べてるの? 夜は眠れてるの? 無理してても、身体壊すだけよ。なんなら、お母さんの仕事引き継いだっていいのよ? あんただってそこそこ弾けるんだから……』

「あー、もう! 分かってるよ、無理はしないから。じゃあ、まだ仕事残ってるから、切るね」

 一方的に言葉を投げつけて、電話を切った。途端、頭の中に靄がかかり始める。

 この靄の発生源は、焦りと、憂鬱だ。原因が分かっていても、振り払うのはいつも骨が折れる。

 台所に行き、沈んだ気分を持ち上げる為にコーヒーを淹れる事にした。冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して、サイフォンに流し込む。コーヒー豆をセットして、スイッチをオンにする。仕事をする上で、モチベーションは非常に大事だ。そしてモチベーションを上げる上で、コーヒーは非常に優秀な助手である。

 サイフォンがコーヒーを作ってくれている間に、達也に電話をする事にした。コールが3度目に差し掛かった所で、彼の声が聞こえてきた。

『はい、もしもし』

「あ、達也。ごめんね、仕事してた?」

『いや、まだ会社だけど、煙草吸ってた。どうした?』

「いや、ちょっとね~。明後日さ~、父の命日で、遺品整理するから帰ってこいって、お母さんに言われちゃってさ」

『そうか。それで?』

「いや、あの、どうしようかな~って思って……」

『え? 帰らないのか?』

「ん~、まだ迷ってる」

『どうして。帰った方がいいよ? 仕事溜まってんのか?』

「いや、締め切りにはまだ余裕があるんだけど……」

『じゃあ……』

「いや、でもさぁ、何だかんだで、私は、家を飛び出してった訳だから、帰り辛いって言うか、何と言うか……」

 受話器の向こう側で、達也が大きく息を吐く音が聞こえた。煙草の煙を吐き出したのだろう。私に対しての溜息だとは思いたく無かった。

『琴。明日時間ある?』

「明日? うん、別に大丈夫」

『俺、もう仕事に戻らなきゃいけないから。明日詳しく聞かせてくれ。後でまたメールするから』

「分かった。ごめんね、忙しいのに」

『いいよ。じゃあ、また明日』

「うん、仕事頑張ってね」

 達也との通話を終え、携帯をベッドに放り投げる。

「はぁ~……」

 思わず、一つ溜息が出た。

 ベッドに座り、作業机をぼんやりと眺める。机の上には、まだ手つかずのカット絵の仕事がいくつも乗っている。だけどそれらは、自分が実家に帰る時間を作れないと言う、都合のいい手助けはしてくれないのだ。寧ろ、時間はまだあるんだから、安心して行って来いよ、とすら言われているような気がする。

 ――下らないものを描いてる暇があるなら、一秒でも長くピアノを弾け!

 不意に、父の怒鳴り声が頭を掠めた。

 もうあの怒鳴り声を聞く事は無いんだ。そうは思っても、私はまだ心の奥底で、父を許す事が出来ずに居た。

 ベッドから身体を起こし、作業机に向かう。並べられた未完成のカット絵と、机の横に佇む本棚に仕舞われた雑誌を眺める。

「下らなくなんか、無いんだから……」

 敢えて口に出す事で、父の身勝手な暴言を頭から追い出す。

 静かな部屋の中、サイフォンがお湯を沸かす音だけが響いていた。


 今から三年前、世界的に有名なピアニストだった父は、突然の脳梗塞であっさりと息を引き取った。朝のニュース番組で、女子アナが無感情を装って、父の死を全国に告げているのに虫酸が走った。葬儀には沢山の人間が訪れ、有名なミュージシャンや、芸能人、政治家の姿もちらほら見かけたが、普段テレビの中でしか見る事の無い人達が目の前にいると言う事が、寧ろ現実味を奪って行った。そんな人達が、生前は父に世話になった、とか、本当に惜しい人を亡くした、とか、どうしてこんなに早く、とか言っているのだ。

 私はそれを兄の隣で、親族関係者と言う席に座りながら眺めていた。

 マスコミも多数来ていて、それらの受け答えは専ら兄が担当していた。双子の兄の洋は、その時既に、そこそこ名の知れたピアニストになっていたからだ。

 父の才能を最も色濃く受け継いだ兄。カエルの子はカエルだと世間に知らしめた兄の横で、じゃあ私は何なんだ、突然変異のゾウリムシか、なんていじけた考えを巡らせていた。

 父が亡くなった後、その穴を埋めるべく兄は世界中を飛び回った。一部の人間は、やはり父の演奏には程遠い等と揶揄したが、同情もあってか、概ね世間には受け入れられていた。

 そして私は、その葬儀で、実に六年振りに父の顔を見る事になった。怒鳴り声からは想像もつかない、安らかな寝顔に、非常に腹が立った。


『あら、じゃあ連れて来るのね?』

「うん、結果的に、そうなっちゃった」

『いいじゃない。たしか、達也さんだったわよね?』

「うん、そう」

『達也さん、何か食べれないものとかあるかしら? 何作ったらいい?』

「なんでも、適当でいいよ」

『あのね、お母さんだって、色々と準備があるのよ? いいから、達也さんは何が好きなの?』

「達也さん達也さんって、なんでそんなにテンションあがってんのよ?」

『いいじゃないの。あんたが家に男の子連れて来る事なんて初めてじゃない』

「……悪かったわね」

『それにしても、いい人そうじゃない。あんたはぬぼーっとしてるんだから、達也さんくらいグイグイ引っ張ってくれる人の方がいいわよ』

「会った事無いのに」

『いいのよ。じゃあ、明日、待ってるからね』

 母との電話を切り、思わずベッドに倒れ込んだ。

 結局達也に押し切られる形で、実家に帰る事になってしまった。面倒くさい訳ではない。まだ父の匂いの色濃い実家に、足を踏み入れたくないのだ。

 萎えた気力を励ましてくれるように、サイフォンが電子音で、コーヒーが出来た事を教えてくれた。

 出来たてのコーヒーをカップに注ぎ、それを持って作業机へと向かい、仕事の続きに取りかかる。来週締め切りのカット絵は、私が毎号受け持っている女性誌の占いコーナーのイラストだ。その週の星座のキャラクターを、占いの結果に合わせて描いていくのだ。

 絶好調の蠍座は、特に金運がいいらしく、尻尾にコインを刺して笑っているイラスト。最悪な山羊座は、体調不良に気を付けて、と言う事なので、熱を出して頭に氷嚢を乗せているイラストだ。デザインのラフ画は既にOKを貰っているので、それに従って描いて行く。これが、三週間後に本になって店頭に並ぶのだ。

 ――そう言えば、私の今週の運勢ってどうだったっけ?

 二週間前の仕事なんてすっかり忘れてしまっていた私は、先日届いた見本誌を本棚から抜いて、捲った。

「えーっと、何々? 乙女座の貴女は、ほどほどラッキー。ずっと失くしていた探し物が見つかるかもしれません、ねぇ……」

 女神様がハートをギュッと抱きしめているイラストが、解説の横で佇んでいた。

「こんなん、当てになるのかしらねぇ~」

 関係者が言ってはおしまいである。

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