第五話 『遠征』
「遠征?」
ある日、アウグスタに無理矢理に引っ張り込まれやってきた兵舎、
その食堂で忠正はその言葉を聞いた。
「うむ、そうだ。そも、姫様の墓参りについて行けなんだこともそれが原因よ。
……あ、シローよ。酒はいるか?」
木製の硬い椅子にどっかりと腰掛けながらアウグスタは言う。
「いらん!」
辺りは訓練を終えた兵士で溢れんばかりであり、辺りは騒がしい。
声が掻き消えてしまわないように、忠正は大きな声で答えた。
「つれんやつめ! まあいい。おおい、酒を一杯!
……とにかくだ。遠征だ。ここより東にはこれから魔族が増える」
誰も人が住んでいないということは穢れが増えることなのだ、と。
確かマリーエもそう言っていた。それを思い出して忠正は腰を落ち着けた。
アウグスタは沈黙を保った。
いや、酒が運ばれてくるなり鷹揚に笑い女給仕の腰を叩いて酒を受け取り、
それをぐいと呷るとようやく喋りだす。
単に勿体つけてるだけなのか、忠正はなんとも言えずに踵を鳴らした。
「故、それの調査よ。近隣に明かりを一時的にばらまくとともに、
魔族が居るならそれを討伐し、何匹湧いたかの記録を取る」
これからは、その魔物が多くもなる時期であるらしい。
それの数減らしと調査のための遠征だという話だ。
「とはいえ、精々片道七日程度の道程よ。
今回はそれほど遠出をするつもりはないのでな。
あの、お前が連れてきた傭兵の女が居ったろう。奴が使えるのかどうかも見たい」
酒の匂いに満ちた吐息を忠正に浴びせかけながらアウグスタは言う。
主君に忠誠を誓うという騎士が昼間からこんな様子でいいのか、などと眉をひそめるが、
形だけの勇者よりはましだろうか、と忠正は思い直した。
「酒を一杯」
そして彼はアウグスタに付き合うのであった。
● ● ● ●
忠正の毎日の食事は、いつもアナスタシアと共にあった。
仮にも賓客、勇者である彼はアナスタシアからの歓待を受けているわけである。
忠正はこれに気後れしているわけではないが、勇者というものが理解できず、
ただその待遇を甘受しているに過ぎなかった。
いつも通りに堆く積み上げられたパンの山を黙々と消化していく忠正。
元よりあまり喋る方ではない、と自覚している。
特に相手を楽しませる作法も心得ていない彼は、ひとまず目の前の食事を片付けることにしたのである。
しかしそれが連日続くとなれば、アナスタシアが複雑な心持ちになるのも当然のことである。
なにせ、彼女は忠正のことを無理矢理に縛り付けているも同然なのである。
少なくとも彼女自身はそう感じていた。
故に、
「あの」
アナスタシアは遠慮がちに忠正へと声をかけた。
忠正は口に放り込んだ肉を五十度は噛んでからようやくそれを飲み込み、
「なんだ」
と応じる。行儀がいいといえば聞こえはいいが、この間の沈黙もなかなかたまらないものがある。
だからといって飲み込んでから尋ねようとしても間髪入れずに次を口へ放り込むのだから会話しづらいに違いない。
「シロー様も、次の遠征に行かれるのですよね?」
「応。精々勉強させてもらうことにしよう。
ああいった手合とやりあったことはほとんどないからな」
話しかけられることで忠正の咀嚼の速度が早まった。
噛む回数は相変わらずといった様子であるが、忠正も話をする気はあるのだろう。
とっくりと時間をかけながら、二人の会話は進んでいく。
「何故シロー様は剣をお執りになったのですか?」
「家業であったからだ。恐らくお前もそうであろう。
貴族になりたかったから貴族として生まれたわけでもあるまい。
己もそう生まれたが故にそうしてきた」
「生まれてからずっと?」
「それしか考えたことはない。ただただ、剣を振ってきた。
だからお前が勇者の力として己の剣を求めるというのなら、
それもいいのではないだろうかと思っている」
「……戦うことは、怖くはないですか?」
「戦うことも、死ぬことすらも、己にとってはどうでもいい。ただ……」
長い時間をかけながらも淡々と重ねられた言葉に、そこでようやく逡巡が生まれた。
「……そう。祖父のようになるのが、己にとって最も恐ろしい」
苦渋の響きを伴って、彼は絞りだすように答えた。
「シロー様の、御祖父?」
「あの男は我が鹿野家の恥さらしだ。……まあ、いずれ語る機会もあるかもしれん」
つまり、今はまだ語る気がないと、暗にそう告げて彼はパンを口に放り込んだ。
アナスタシアも追求するつもりなどない。緩やかに視線を逸らした忠正に向かって、彼女はただ、
「シロー様。怪我を負っても、命だけは粗末になさらないでください。
生き延びることさえできれば、次があるのですから」
と懇願するのであった。
● ● ● ●
遠征の日取りが決まったという報せが忠正の耳に入ったのは、その一日後のことであった。
三日後の早朝に出発するらしい。騎士団の主力、総勢百人で向かうそうである。
多いのではないかと思いもしたが、そもそもあの大病蜥蜴ですら騎士二十人が適正であるという話だ。
あれが最強の魔族であるわけもなく、ならばその量も当然だろうと納得した。
さて、日取りさえ決まってしまえば後は慌ただしいものであった。
とはいえ、客分に過ぎない忠正はマリーエから先日の手入れ道具を受け取ってから愛刀の整備に勤しむ程度であったが。
そうして愛刀の、気合のこもった手入れをようやく終えた頃、再び彼はアウグスタに呼び出された。
また酒にでも付き合わされるのかと立ち上がった後に告げられたのは、予想に反して真っ当な場所であった。
円卓の間と呼ばれるそこは、何十人もの人間が腰掛けることができるのではないかというほど巨大な円卓が鎮座した部屋だ。
他には光が差し込む窓もなく、陰気で鬱屈するような沈殿した空気が漂っている。
拳ほどの厚みを伴った扉を閉め、ランタンの明かりをつけると、
最早文字通りに息が詰まってしまいそうな錯覚を覚える。
そんな円卓に、数人の男女が座っている。一人はアウグスタ、一人はエンキ。
そして他は、そう、アウグスタに次ぐ力を持つ副団長たちであったか。
「おうおう、来たか!」
といつも通りに歯をむき出しに笑うのはアウグスタだ。
当然のように彼は円卓の上座にあたる奥側の大きな椅子に腰掛けている。
恐らくは騎士団の序列の順なのだろう。最後に現れた忠正に向かって奥側から挨拶を口にする。
そして最後にエンキが、
「カノだったか。先日は世話になった、感謝する」
と僅かな畏怖を持ったエンキが頭を下げた。
一回りも年上の女が頭を下げる光景は異様とも思えたが、
「いや、いい」
と忠正は大した感慨もなく返して、自分も円卓の席についた。
「おう、シローよ。エンキはどうだ?」
身を乗り出した尋ねるアウグスタの声は、弾んでいるように聞こえる。
しかしどちらかといえば下卑たような響きを伴っており、副団長らは苦い笑いを漏らす。
「どうもこうもないが。……槍の扱いは上手い。
魔族とやら相手には知らんが、対人ならば上手くやるだろうよ」
「ほーお、そうか! それほどか。ははァ。こりゃいい拾い物だな」
自らの顎を無で擦り言う彼に、
「このオヤジ臭ささえなければ団長も言うことないのに……」
などと副団長の一人が漏らしていたのを、忠正は聞き逃していなかった。
「下手をすればアウグスタ。お前よりもやるかもしれん」
「ほう」
忠正の言葉に心底興味深げに目を細める。その言葉にエンキは、
「そんな……琴弾きのアウグスタと並ぶなどと評されては、こちらが恐縮する」
恐縮するように言うエンキを見て、そこまでの男なのかと忠正は驚いた。
確かに、兵士の筆頭とも言えばその実力も高かろうが、彼のエンキに対する評価も公正なものである。
あれだけの実力を持ったエンキが恐縮するほどの武勇を、
このアウグスタという男は持っているということだ。
身の丈ほどの大剣を振るう膂力、その隙を埋めるための魔法。
なるほど確かに、アウグスタという男はこの場において強力な武人ということだ。
とはいえ通り名である“琴弾き”は、その実力だけでなく線の細く美しい、ともすれば女に見えないこともないその形から来ているところも大きいだろうが。
「まあ強い分には儂は歓迎よ。遠征中は、それなりにきつい戦いになる。
儂は騎士二十人の働きはするがな? 他の者はそうはいかん。
大病蜥蜴がニ、三匹出るだけでも大騒ぎよ」
確かにそうだろうな、と忠正は同意する。
ニ、三匹に囲まれようが凌ぐ自信はあるが、実際に打倒できるかは別の話だ。
「まあ、お前ならば大病蜥蜴如き楽勝という奴だろうよ、なあ、勇者」
その言葉に反応したのは忠正ではなかった。忠正は照れもせず手を一度振っただけであり、
「勇者……というと、もしかして、クーデリアの伝承にある?
道理で見たことのない装束だと思ったが……!」
エンキが感嘆の声を上げていた。
目を爛々と輝かせて、畏怖の念が畏敬のものへと変わっていく。
「む……」
それを見て忠正がたじろいだ。
アナスタシアのそれとは違う、輝くような視線を向けられて忠正は背に汗を感じた。
「なるほど、それならばあの強さも納得だ」
と、身を乗り出す彼女を尻目に、副団長らがおもむろに地図を広げ始めた。
「此度の遠征は東に広がる大森林の探索です。
前回出てきたのは大病蜥蜴が五匹、大老魔木が二匹、跳水球が二匹です。
前回の遠征に比べて、恐らく数が増えていることと思われます。
領地の近郊に魔族が現れるほどですから毎日戦闘になることも覚悟しなければならないでしょう」
そう言いながら副団長は羊皮紙で作られた地図に線を引いていく。
この線が今回の遠征の順路なのであろうと、忠正もそちらに目を向けた。
一週間の道程は、恐らく歩き通しになるだろう。
軽装の自分は良いが、常に甲冑を身に纏う騎士団の人間は体力を消耗するだろうと忠正は考える。
「気をつけなければならんのは……食料を輸送する馬車を襲われないようにすることか」
「その通りです、勇者様。水や食料、それに野営道具を運ぶ馬車は生命線。
これらの死守は大前提となりますね」
笑顔を忠正へと向けながら副団長の一人が言う。
これまでに荒事もこなしてきた忠正であったが考えてみれば、
「何かを守りながら戦ったことは無いな……」
そう。いわば忠正の剣は攻めるためのものだ。
自身の矜持を守るために戦うことはあっても、実際にそこにある何かを守ったことなど一度もない。
仏頂面で彼は唸った。
「人は初めて遭う戦いにこそその真価が出るというが……
いや、アタシはともかく、勇者殿であれば大丈夫ではないか」
いつの間にやら、忠正に対する呼び名が変わっているエンキを尻目に、
「エンキもカノもシケた顔をしおってからに。
戦うものならば苦境にこそ笑うべきだろうに!
兼ねてより思っておるが、カノよ。貴様は少々笑いが足りん!
余裕が足りんのではないか!」
そういってアウグスタがすっくと立ち上がった。
勇ましく忠正へと近づいていくと、
「ほうれ、笑ーえ」
などと、忠正の頬を摘んでぐいと広げた。
「ふぁんふぁ」
そうされてなお表情一つ変えぬ忠正を見て、思わずその場のほとんどの者が肩を震わせる。
「えふぁおふぁ……」
口をまるで巾着のように開かれた忠正は、それでも抵抗せずに受け入れる。
真剣な面持ちで、眉を寄せての考え事である。
普段からは想像もつかぬその剽軽さに、
「アウグスタ殿、さ、流石にそこまでにしておいたほうが……」
エンキが戸惑うように声を上げるのであった。
● ● ● ●
「笑顔か……」
仏頂面で邸内を歩く忠正。彼とて別に笑いたくないわけではない。
ただ、何をどうすれば笑うのか分からないのである。
彼の人生は剣と共にあり、娯楽といえば剣ばかり。
戦いの最中に愉悦を感じることはあっても、日常生活でそこまで心を動かしたことはあっただろうか。
まるで石像であるだとか、剣のように面白みのない子供であるとか、
忠正の兄らはそう評しているが、別段それは間違いではあるまい。
彼の友人ならば、
「四郎は一直線なだけだろうさ」
などと評してくれるだろうが、自分でも面白みのない男だという自覚はある。
試しに、アウグスタにやられたように頬を摘んで伸ばしてみた。
すれ違う者たちはみな、この奇行を見てまるで妖物でも見たかのように目を丸くするのであった。
「シ、シロー様……!」
それはこの屋敷の主であるアナスタシアも例外ではなく、震えるように口元を抑えた。
● ● ● ●
「なるほど、そのようなことが」
二人は広間で腰を落ち着けて話をしていた。事情を聞いて、アナスタシアは眉を顰める。
忠正はといえば、深刻そうに切り出した割にいつも通り柔らかい座椅子に腰を落ち着けずに居た。
「つまらん人間だろう」
そこまで直したいと思っているわけではない。
さりとて別段今の自分に拘りがあるわけでもない。
笑えというのであれば笑ってみるのもいいだろうと忠正は思っていた。
「そうでしょうか?」
しかし、忠正の予想と彼女の答えは変わっていた。
「あっ、ええと、その。シロー様が剽軽でいらっしゃる、というわけではないのですが……!」
慌てたように手を振って顔を赤らめ、
「例えば、こちらの文化に不慣れでいらっしゃるときなど、とても人間らしいというか……。
あ、これも決して、シロー様がおかしいとかそう言いたいわけでなくてええと、その……」
必死に言葉を紡ごうとしてくれている。忠正にはそれが感じ取れていた。
「人間らしい、か。そうだろうか……」
「はい。普通、本当に面白みのない人ならば、笑ってみようとも思わないはずです。
ですが、笑ってみようと努力されるその姿は、誤解を恐れない言い方をすれば……面白い方かと」
「そうか……そうなのか?」
唸りながら忠正は自らの頬に手を当てた。これはそれほど特別なことであったろうか、と。
アナスタシアは姿勢を正して、
「シロー様はきっと、物事を全て真面目に受けとめていらっしゃるのです。
ですからきっと、そう遠くないうちに笑顔を自然に浮かべられるようにもなるのではないでしょうか」
その言葉に忠正は考えこむ。
真面目であるとか一直線であるとかそういった評価は決して悪いものではない。
自身の在り方が受けとめられているものだ。
不思議とそれらの言葉は心地よく、忠正は頭を下げた。
「……アナ、礼を言う。何しろ兄からは、己は人非人であるなどと揶揄されていてな。
そういうものかと思っていた」
「そんな! 私は思ったことを言っただけです」
謙遜する彼女に対して、彼はひとつ頷いた。
人の好悪は分からないが、きっとこういった人こそ善き人なのだろうと。
「物を知らぬ己を助けたのはアナだ。……そういった人間は得難いものだ、と思う。
だから礼を言ったまでだ」
それは何についてのことか。まっすぐアナスタシアを見つめて言う忠正に、
「それはこちらも同じことです、勇者様」
彼女もまた、花のように美しい笑顔を返した。
● ● ● ●
「皆、どうか無事で……」
「皆様、いって! らっしゃいませ!」
アナスタシアとマリーエは執務室から庭を見下ろしていた。
そこでは百名を超える騎士たちが一堂に会し、甲冑を鳴らしている。
遠征の時が来た。早朝の空気は肌を刺すように冷たい。
顔を露出させた忠正の吐息が白く染まった。
馬車をぐるりと取り囲むように、甲冑に身を包んだ騎士たちが佇んでいる。
今回は馬には乗らないらしくみな徒歩だ。
列の先頭には一際重厚な鎧に身を包んだ流麗な男、アウグスタが大剣を担いで騎士の群れを睨みつけている。
アウグスタの両翼に立つのがエンキと忠正である。
彼らは遠征には不慣れであるからと、団長の指示を直接受ける必要があるのだという。
「貴様らァ! とうとう魔族のくそったれどもを討伐する機会がやってきた!
愛する領民を守るためぇ、そして我らが愛するアナスタシア様をお守りするためにぃ!
意地を尽くせよ騎士どもよ! 我ら領土を持たぬものではあるが、誇りと剣の腕だけは一人前よ!
守るべきもののために剣を執れぇい!」
アウグスタの怒号が響く。
大気を震わせるような声と共に、彼の大剣が辺りを揺らすように振り回された。
「栄光を我が手に!」
それに呼応するように、騎士たちが己の武器を振り上げる。
肌を刺すような空気はいつの間にか汗ばむような熱気に変わっていた。
まるで気配が違う。人を率いたときのアウグスタはこれほどか、と忠正は掌を濡らした。
「うまくやろう、勇者殿」
エンキがこちらを見て言う。忠正も軽く刀を挙げることでそれに応じ、
「では、行進開始ぃ!」
その言葉と共に、遠征が開始された。
ようやく更新! これでいいのか、いいのだ! などと自分に言い聞かせながらの更新です。
ヒロイン力とは……。