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第二話 『異世界』

 ルディエンド。それがこの世界の名前である。

忠正の居た世界とは異なる、或いは忠正にとってそうとしか思えない場所だ。

そこに住まう少女らの言葉を、不思議と忠正は理解できる。

異なる世界といえども、見た目にそう大きな差があるわけではない。

生活様式も南蛮風であるように忠正は感じ取った。


「なる、ほど」


 尻が沈み込むような豪奢な座椅子に腰掛け、忠正は唸るように呟いた。

机を挟んで向かい側には、忠正の助けた異人の少女が座っている。

正直な話、忠正はこのような場所に来るつもりはなかった。

なんとはなしに足が向いて彼女を助けたものの、

こんなところまで足を運ぶつもりはさらさらなかったのである。


 だが、月が二つあることに彼が呆然としていた直後、


『勇者様、あなたは勇者様なのですね……!』


 などと、泣きはらしたような瞳でしがみつかれた。

普段であれば一にも二にも無く、しがみつかれたならば振りほどくはずであったが、周囲には倒れた彼女の同胞たち。

そして抱きついてきたのは、色恋沙汰には疎い忠正が戦いの最中に目を奪われた少女である。


 仕方もなしに彼女をなだめ、彼女を家まで送ったのがつい先程のこと。

そして、事情を説明すると押し切られこの南蛮風の大屋敷に招かれたのがたった今までのあらましである。


「その、先程は取り乱しまして申し訳ありませんでした。

(わたくし)はアナスタシア・ミヨン・クーデリア・ロフレス=エレノワリエと申します。

勇者様、先程は助けていただき本当にありがとうございました!」


「あ、あな……?」


 困惑したのは忠正である。異人の名前は聞き取りづらくわかりにくい。

そう知識はあったが、なにせ名前を聞くのは初めてである。

そもそもどこからどこが姓で、どこからどこが名なのか。


「ええと、アナスタシア……アナで結構です」


 眉をひそめてうなる忠正を見て、彼女は微笑みながらそう言った。


「アナ、アナ……」


 忠正は言葉を確かめるように何度かそう呟いて、ようやくしっくりきたのか一度頷いた。


「礼は無用だ、アナ。(おれ)の名は鹿野四郎という。鹿野無心流大目録、鹿野四郎だ」


 諱である『忠正』を初対面の相手に名乗るはずもない。

本当の名を知られた場合、それは相手に支配されるも同然だからである。故に、彼は通称である四郎とだけ彼女に告げた。


「カノシロー様? ああ、いえ。カノ・シロー様……ですか?

カノムシン流……ダイモクロク。あの、失礼ですが、ダイモクロクとは?」


 アナの問いかけに忠正は、


「名は四郎だ、呼び捨てで構わん」


 と前置きしてから、


「己は剣術道場に生まれた。そこの教える流派、鹿野無心流において全ての技を修めたとするのが免許皆伝。

そのひとつ手前が大目録だ」


 と説明した。


「まあ! 年の頃は私と同じぐらいですのに、さすがは勇者様ですね」


 口元に手を当ててアナは目を丸くした。しかし忠正も、彼女の言葉に照れるような人間ではない。

だが先ほどから妙な居心地の悪さを感じていた。それは、


「勇者様、お茶のおかわりをお持ち致しました」


 などと、恐らくは彼女に仕える女中だろう、それが何人も彼を取り囲み先程から世話を焼くのである。

アナの身なり、振る舞いからしても、兵士たちに守られていたことからしても、彼女が貴人であることは間違いない。

しかし、座り慣れぬ座椅子や見慣れぬ人々に世話を焼かれ賞賛されと、

いまいち腰が落ち着かない。それになにより、


「勇者様」


 これである。忠正のことを勇者様、勇者様と呼び続ける。

勇者、とはなんだったか。同門である四つ上の友人が、


『智者は惑わず、勇者は(おそ)れず』


などと言っていたことを忠正は思い出す。確か論語の内容だったはずだ。

学のない、剣一筋で生きてきた彼には論語などよく理解はできなかったのだが。

「……先ほどから勇者様、勇者様と。その呼び方は妙に居心地が悪い。一体なんなんだ?」


 む、と口を尖らせ彼が言う。鉄面皮のように表情を崩さぬ彼であったが、どうにも慣れない環境に歳相応の所作を表し始めた。


 ――そもそも、茶がまずい。


 異人の淹れる茶はいまいち好かない。やはり、日の本に生まれたなら茶は緑茶であろう。


 そうした彼の不機嫌さを感じ取ったのか、アナは居住まいを正して改めて向き直った。


「シロー様は、この世界ではないところからいらっしゃったのでしょう?」


 彼女の問いに忠正は目を閉じた。思い返すのはあの空に浮かぶ二つの月だ。


「少なくとも己は、空に浮かぶ月はひとつしかない、と思っていた。

それにあのような化物を見るのも初めてだ」


 率直に返す。少なくともここで虚勢を張ってもよいことなどそうあるまいと判断してのことだ。


「今から二百年の昔、この辺りで大きな戦いがありました。

あなたが化物と呼んだものたち……魔族との戦いです。

その戦いにおいてめざましい活躍を遂げたものが居ました。

 誰もがその人物を勇者と讚えたそうですが……その勇者は、

ここではない別の世界からやってきたのだといいます」


 その勇者もまた、月のひとつしかない世界から来たのだという。

この国の文化とはかけ離れた風習、戦い方をする人間だったとも。


 なるほど確かに共通するものがある、と忠正は頷いた。

事実、南蛮風の暮らしをするアナたちが、まさか打刀を持っていることもあるまい。

であるなら、打刀を主眼においた鹿野無心流のような戦いをするはずもなかった。


 改めて忠正はアナスタシアという少女を観察した。

異人の年齢など及びもつかないが、身体の発達具合を見るに自分とそう変わらない、十六、七ほどであろうと忠正は判断する。


 美しい。整った眉に筋の通ったような鼻、目元は柔和な雰囲気を醸し出し、背は毅然と伸びている。

こちらをまっすぐに見つめながらも、喋り慣れていないかのような仕草さえある。

話していて、嘘をいっているようには到底見えないというのが彼の中の評価である。


「それに」


 その瑞々しい口が続けて開いた。


「あなたは私のことを助けて下さいました」


 そう言って彼女はやおら腰をあげて忠正の手を取った。

忠正は驚いた様子でそのまま抵抗もせずにいる。


「去年に父を亡くし、私はその墓を訪ねた帰りでした。

まさか、領地の中に魔族が生まれているとは思わず、騎士たちを……」


 そういって彼女はここで初めて目をそらした。

あの場に居たのは騎士十名。護衛としては十分過ぎるほどであるが、

件の化物、魔族を相手にするには力不足だったということだ。


 自責の念に駆られるように彼女は一度首を振って、


「でも、シロー様が助けてくださった。私の命も……それに何より、騎士たちの命も。

あの後、救護を向かわせました。かろうじてではありますが、皆一命を取り留めたそうです」


 彼女の手を、忠正はひどく熱く感じた。これが熱なのか、と脳裏を過るが、


「己は己にできることをしたに過ぎない」


 と冷静に努めながら返した。彼女はその言葉を聞いてにわかに手の力を強めて、


「だから、当家……ミヨン・クーデリアはあなたが勇者であると確信したのです」


 と、断言した。



 ● ● ● ●



 アナスタシア・ミヨン・クーデリア・ロフレス=エレノワリエはベッドにその身を埋めていた。


 あれから、シローと名乗る少年にここでの滞在を勧め、彼も恐らくは不本意であろうがここに留まることを決めたのである。


 ……勇者様が。


 と、アナスタシアは彼のことを想う。

父であるバナン・ミヨン・クーデリア・ロフレスから何度も聞かされていた存在だ。

剣と勇気でクーデリアを救った英雄。強きもの。


 まさしく彼だ。どうしようもない危機に現れ、私と大切な家臣たちを救ってくれた。

自分だけではない。彼らが一命を取り留めたのも、彼の迅速な動きがあってこそだ。

勇者。それは彼女のあこがれであった。

父から聞かされていた英雄譚の数々は幼い彼女の心を大いに興奮させたものだ。

アナスタシアはうつ伏せで枕に顔をうずめながら唸り声をあげた。


『過去の伝承から、その勇者が元の世界へと帰還したという記録は……ありません。こちらから送り返すような手段も、ないのです』


 彼女が勇者に告げた言葉だ。その言葉を聞いた時の呆けた表情など、歳相応の少年そのものだった。


 だが、あの美しい太刀筋はまさに勇者のそれに他ならない。あの閃きを思い起こすたびに、彼女の胸の鼓動が跳ね上がる思いであった。


 不謹慎だ、とアナスタシアは思う。

騎士十人、一命を取り留めたとはいえ大怪我をしたのは間違いない。

自分とて死にかけたばかりなのだ。領内による魔族の発生も懸念すべき事態だ。

だが、それを承知してもなお、その心が弾むことを止められなかった。


 しかし。


 ハーブの香りを含んだ燭台の火が消え、彼女の唸りはため息へと変わる。


 魔族。そのことを考えるたびに彼女の心に闇が落ちる。

勇者が現れたということは、即ち、彼女の領地(クーデリア)が騒乱に巻き込まれるということだ。


 ――そう。アナスタシア・ミヨン・クーデリア・ロフレス=エレノワリエはひとつの街を治める子爵家当主であった。


「魔族……」


 それはこの世界において忌むべきものたちの名前だ。

どこからか突如現れ、気づけば周辺の生態系を破壊してその食物連鎖の頂点に君臨する。

人間たちに対して牙を剥くだけでなく、周囲の生物をも凶暴化させ狂わせてしまうのだ。


 その魔族がとうとう、クーデリアの領内へ現れた。

魔族はなんらかの規則性を持って現れるらしい。

一度魔族が出現した区域には次々と魔族が姿を現し始める。

これからのクーデリアは一層の危険が現れるに違いない。


「それも、勇者様が必要になるほどの……」


 そう。勇者が現れたことは彼女にとって喜ばしいことだが、

それが現れるということはこのクーデリアに危機が迫っている証拠に他ならない。

これからは騎士十人というわけにはいくまい。

ともすれば、彼女が守るべき領民までもが害される事態となるだろう。


 だから、この先のことを考えなくてはならない。

彼女の慕う勇者とも、正面から向き合わなければならないだろう。

山積みの問題を思いながら、彼女は深い眠りへと落ちていった。



 ● ● ● ●



 マリーエ・キャベンディッシュはミヨン・クーデリア家を代表するメイド長である。

小柄で童顔な彼女は威厳に欠けるが、しかしその肩書は伊達ではない。

この屋敷で最も長くクーデリア家に仕えているのは彼女なのだから。


 そういったプライドを彼女は有している。

彼女はエプロンドレスをきつく締め直すと、瀟洒な足取りである場所へと向かった。


 屋敷の三階、朝日が昇れば小高い丘から街の様子を一望できる一等室。

目覚めとともに右を向けば、そこには雄大な景色が広がっているというわけである。

マリーエ自身、あのふかふかのベッドで眠りたいと思ったことは幾度とある。

しかし彼女は所詮はメイド。賓客用のベッドで眠ることなど恐れ多くてできようがない。


 うらやまし。と、彼女は思う。そしてその羨望の対象こそ、件の勇者、カノ・シローである。


「変わった方らしいけど……」


 周囲に人が居ないことを確認して小さく呟く。

異なる世界からやってきたがために、少々変わった風体であるらしい。

彼女は昨晩は魔族の襲撃の件で駆けずり回っていたために、

まだマリーアはその賓客を見たことがない。


 勇者。長くこの家に仕える彼女は、当然少なからずその存在を知っている。

聞けば、新たな勇者は主であるアナスタシアと同じぐらいの歳の子供であるという。


 ふむん、と彼女は唸った。賓客といえど異世界からきたばかりの何も知らない少年だ。

ならば、懇切丁寧に接するよりも少しフランクに接してはどうだろう、と彼女は思う。

メイドがそんな態度でいいのかとも思えるが、彼女はもとより人より幼く見える。

まあちょっとした粗相のようなものだ。問題あるまい、とあっけらかんと割り切った。


 そうこうと考えるうちにとうとう部屋の前までやってきた。

こほんとひとつ咳を払ってリボンを締め直す。髪を少しばかり整えて、何度か部屋をノックした。


 部屋はしんと静まり返っている。どうやらまだ賓客は眠っているらしい。

ならばど起こしたものか、と思案しながら彼女はゆっくりと扉を開けた。


 が。


 その目に飛び込んできた光景に、


「な、なんでそんな風に寝てんのですかー!?」


 想定以上のフランクさで彼女は叫び声をあげた。



 ● ● ● ●



 不覚だ、と忠正は胸中でため息をついた。予想以上に疲れが溜まっていたらしい。

目の前の少女が叫ぶまでとんとその気配に気づくことがなかった故にだ。


 彼はゆっくりと身体を起こす。幸い、刀を手放してはいない。

念の為にと手元に引き寄せてから、彼は闖入者を見上げた。


「な、な、な」


 彼女は震えるように声を絞り出してこちらを指さしている。

何がそこまで彼女を驚かせているのか理解できず、


「どうかしたのか」


 と声をかける。彼女は唾を飲み込むと、


「なんでベッドで寝ずに床で寝てるんですかッ!」


 と、高らかに忠正の背後を指さした。


「ああ」


 と、彼は得心がいったように頷いて、


「やはりあれは寝具か」


 と、なんでもないように答える。しかしその様子が彼女の気に召さなかったようだ。

ぬおおおお、とかうあああああ、とかそのような珍妙な声を上げながら彼女はもんどり打った。


「なんだじゃなくって! ベッドですよ、ベッド! はっ……」


 そこまで言ってからようやく彼女ははたと気づいたようだった。またたく間に彼女の顔は紅潮し、


「し、失礼しました!

わたし、当家のメイド長を務めておりますマリーエ・キャベンディッシュと申します!」


 と大輪の花を咲かせるように彼女は笑った。


「めいど」


 冥土長とは随分と剣呑な役職だ。

どのような仕事をするのだろう……と逡巡する忠正であったが、彼女の服装を見て腑に落ちた。

彼女たちの着る服装は独特なものだが、着物の前掛けのようでもある。

彼女の態度や仕草から類推するにつまり、


めいど(、、、)か」


 女中のようなものだ、とようやく合点がいったようにもう一度頷いた。

目の前の少女は年の瀬おおよそ十七、八ほどだろうか。

髪も耳もすっぽりと覆うように南蛮風のずきんをつけている。

服装も黒を基調としたこちらでの女中服なのだろう。

背は低く幼いが、態度の割に姿勢は美しい。

女中として務めて長いのだろう、清潔感の溢れる佇まいである。

 まりえ……なんだったかと彼はその名前を口中で反芻した。そこでようやく彼もゆるりと立ち上がり、


「己の知る文化ではああいった場所に眠る習慣はなくてな。

落ち着かなかった故、床で眠らせてもらった」


 堂々と説明した。あのように身の沈む、とらえどころのない布団で眠れようはずもない。

あまりにも気色が悪く、あそこが寝床であったなどとは露ほども思わなかったのである。


「な、なるほど……!」


 納得いかない、といった表情でマリーエは返した。

しかしこれ以上この話を続けるのも無意味だろうと判断し、彼はこの話題を打ち切った。

彼が、それで、と話を続けようとした途端に、


 彼の胃袋が大きく鳴動した。


「む」


 いかなる達人の彼といえども、前準備なしに腹の虫を抑えることはできなかったようであった。



 ● ● ● ●



 目覚めてからすぐに一騒動あった忠正であったが、どうやらその苦難は続いているようであった。

使いづらい食器、見たこともない食材、見たことのない料理。アナスタシアを対面に迎えての食事である。


「箸はないのか」


「ハチ?」


 これである。参ったものだ、と彼は呟き、まるで三叉矛のような形をした食器を料理に突き立てた。

見たところ、獣肉のようである。

毒々しく赤い棒状のそれは、獣肉を食す習慣のない彼を大いに驚愕させた。


 勢い良くかぶりつくと、乾いたような高音とともにさくりと割れて、恐らく獣肉の油が口の中にこぼれ出る。


 臭い、と彼は頭痛を感じた。どうにも獣肉は拙い。なんとか口の中に押し込んで咀嚼する。

この間、彼は眉一つ動かさない。美味いとも、不味いとも口に出さず、ただ黙々と食べ続けるのだ。


 それをはらはらとした視線で見つめているのはアナスタシアと、その後ろに控える料理長だ。

なにせ勇者を迎える最初の食事である。

第一印象とは大事なものだ、と彼らとて重々承知なのである。


 しかしそれが失敗していたことが忠正の中では明らかであった。

次に次にと料理を口に放り込んで咀嚼しては、心の中で嘆息する。

口の中でまるで粥となるかのようなほどゆっくりと噛み続けるが、

彼にとってそれは苦痛でしかない。


 たまらず彼は、横に用意されていた濁り汁に手を出した。

ずずず、と音を立てて啜るものの、これに彼は、

まるで金槌に殴られたかのような衝撃を覚えたのである。


 一体なにを出汁に使っているのか。料理に詳しくない彼ではあるが、

これが煮干でも、昆布でも、鰹でも椎茸でもないことは分かる。

何やら妙な甘みが強い。彼は知る由もないが、

これは肉や野菜を煮込みきちんと出汁をとったれっきとした料理である。

コンソメスープ、などと呼ばれているが、どうにも彼の口には合わなかったようであった。


 一時間たっぷりかけて全ての食事を腹へと納めて、たったひとつ、彼の口に合うものを見つけた。それは、


「これがぱん(、、)か」


 そう、パンである。食べたことはないが聞いたことはある。見たこともある。

いかにも彼の食べたことのないような味、食感であったが、

その甘味と僅かな塩気が妙に食欲をそそるのである。

香りは少々独特だが、他の料理もそれは同様であるし、

臭いの強さだけでいえば納豆などの方が強い。


「美味い」


 一時間かけて、ようやくその言葉を彼は吐き出した。


「あら、まあ!」


 それに気を良くしたのはアナスタシアとその後ろに控える料理長である。

長い時間をかけて咀嚼する忠正の姿は、どちらかといえば食事を楽しんでいるように見える。

しかし表情はぴくりとも変わりはしないし、感想も漏らさない。

そして一時間経ってパンを平らげ終わり、ようやくそう呟いたのである。


「お、おかわりはいかかがでしょうか!」


「頂こう。なるべく多く持ってきてくれ」


 忠正の返答を聞くや否やメイドたちが慌ただしく駆け出していく。

彼がパンを求めるのは料理が不味いからというわけではない。

ただ単純に、足りないのだ。


 彼は一食で白米を二合は食べる。

炊きあがれば重さにして一斤(600グラム)を越える量である。

それだけの米を詰め込むのだから、ただのパンひとつで足りようはずもない。

どうにも腹が満ちることがないのである。


 そのため、


「おまたせしました!」


 またたく間に運ばれてきた山ほどのパンを、更に一時間かけて彼は食べきった。



 ● ● ● ●



 今のところ忠正の身分は食客で、特に与えられた仕事はない。

であるならば、やることといえば日々の鍛錬以外無い。

屋敷の前庭を借りて、彼は刀を抜いていた。


 雑念を取り払い、ただ一心に刀を構える。

自分にできることはこの程度だと彼は切っ先を上へと向けた。

風が吹く。日が照っているというのに、寒ささえ感じる風だ。

それを切り裂くかのように、切り、突き、払う。

流れるような動きを重ねて元の位置へと切っ先を戻す。


 見るものを魅惑するような太刀筋。まるで淀みのない流水のような動きであったが、


「だめだ」


 と彼は頭を振った。風に合わせて切っ先が僅かに右へと揺れる。

見上げれば、蒼天に月が二つ浮かんでいるのが見える。

あれが目に入るたび、頭が揺れるような錯覚を覚えるのだ。


 あれを見るたびに、己は遠い場所へ来たのだという自覚が頭を過る。

それがまるで霞のように彼の手足に、頭に絡みつくのだ。


 家が恋しいわけではない。家族に会いたいというわけではない。ただ、


 己は生きる目的を、失った。


 と、そう感じるのであった。彼には生涯をかけて成す目的があった。

しかしそれはこの世界では到底成し得ぬものなのだ。


 昨晩もただ月を見ているだけで長い時が経った。

夜が異様に明るいのも、月が二つ空に瞬いているからだろう、

どうしても目に入るそれが彼の眠りを妨げていたのだ。


 彼の動きは一定の型の繰り返しだ。それを徐々に、徐々にと遅くしていく。

切っ先を揺らさないように、身体をぶれさせずに振るうことはただ素早く振るよりも難しい。

これをただひたすら繰り返すことによって、

その型に相応しい身体になっていくのだと忠正は教わってきた。

無心に、否、無心になろうとしてそれをただ反復して一刻(二時間)ほどの時間が経った。


 忠正の額が汗で濡れる頃、香ばしい匂いが彼の鼻をつく。


「む……」


 丁度彼が定めた鍛錬が一周を終えて、彼は匂いのもとへと振り返る。


 彼の視界に映ったのは、木籠を抱えたアナスタシアだった。


「鍛錬のほどはいかがですか?」


 そういって彼女は木籠を掲げて見せる。そこから香る匂いに、忠正は鼻を鳴らした。


「順調……とはいいがたいな」


「こちらに来たばかりですから、慣れないことも多いでしょうしね……。

不躾なことを聞いて、その、失礼いたしました」


 アナスタシアは慌てたように頭を下げ、


「その、良ければいかがでしょうか」

 と木籠を差し出した。

忠正はそこでようやく刀を納めてアナスタシアのもとへと歩みを進めた。


「いただこう」


 忠正は表情を変えずにパンをつかむ。遠慮はなく、むしろ礼を失しているといっていい。

だが、アナスタシアはそれに表情を緩めて、


「どうぞ、召し上がってください」


 とパンを差し出すのであった。



 ● ● ● ●



 どうにも今日は調子が乗らない、と忠正は鍛錬を打ち切った。

ひとまずはアナスタシアから渡されたパンを食べることに専念する。


食べるパンはどれも雲をつかむような食感だ。

もう少し歯ごたえがほしいところであったが、贅沢は言うまいとひたすらに顎を動かした。


「あの」


 遠慮がちにアナスタシアが口を開く。


「実は勇……シロー様にはお話しなければならないことがあるのです」


「む」


 話と聞いて、忠正は咀嚼していたパンをひとまず飲み込んだ。

そのままつい、と空を見上げた彼に釣られるようにしてアナスタシアも首を動かす。


「この地……クーデリアには危機が迫っています。

魔族と呼ばれる、人に仇なすものたちです。

昨晩の大病蜥蜴(グライマン)のような異形のものたちが増え始めるのです」


 グライマン。それが昨晩忠正が打ち倒した者の名だ。

忠正が今まで体験してきた中では、恐らく最も強い獣。

鋭い爪、強靭な毛皮というだけならば多くの獣に当てはまるが、

それもあれだけ屈強になれば厄介なことこの上ない。


 彼がグライマンへと行なった業、鎧通しと呼ばれるような類の技巧でもなければ貧弱な刃で抜くことはできはしまい。


 こうして、あの化物蜥蜴のことを改めて思い出すと忠正は二度頷いた。

それを見てアナスタシアは更に話を続ける。


「恐らく、その規模は近年稀に見るものとなるでしょう。

そして恐らく……私達だけでは対処できないものになるのではないか、と私は考えています」


 そこまでの話で、忠正は彼女が何を言いたいかを理解していた。

彼は勇者だ。勇者とはクーデリアを救ったものの通名だ。ならば恐らく、


「己に戦えと言うんだな?」


 その言葉にアナスタシアは唇を噛んで目を伏せ、


「その通りです。……ただ、強制はいたしません。我々の都合であなたが呼ばれてしまったものだと考えれば、当然の事ですので」


 空から視線を動かしてアナスタシアを見た。

両の手を合わせて息を吐く彼女を見て、忠正は目を細める。

告げる言葉に嘘はない、少なくとも彼女の態度は誠実だと、そう彼は観察(、、)した。


 戦うか、戦わないか。彼は武人だ。

齢十六とはいえ、武を志すものであるならば、ただいたずらに鍛錬をするよりも余程良いに違いない。


 だが。


「…………」


 迷いがある。迷いは切っ先を鈍らせる。

そのような状態で、戦いに臨むことは果たして是か。

それが彼には判断がつかなかった。


 それをどう口にしようか逡巡する忠正。

もとより多弁な人間ではない彼はゆっくりと口を開こうとし、


『お待ちください、アウグスタ様!』


 門扉を強引に開き押し入る人影がひとつ。


「納得いかん!」


 それは涼やかな声であった。すらりと引き締まった体躯の男だ。

躊躇いのない足取りや息遣いに、別の術理ではあろうが手練であると忠正は判断する。


 こちらを見るや否や即座に敵意をぶつけてくる相手に対して、

彼は反射的に鯉口を切った。


 向かってくる人影は意志を感じる鋭い瞳を讚えた男であった。

柳のように細くしなやかな眉。その鍛えられた身体といい、異人の中でも恐らく美形の類だろう。

彼は握りしめた拳をこちらに突き出すやいなや、


「尻の青い若造めがぁ、勇者などとは片腹痛い!

貴様の性根を試してやるから表へ出ろぃ! 決ぇ闘だぁ!!」


 まるで猪武者のような猛り声に、忠正は一歩踏み出した。

段落やルビ振りなどがまだ手探り状態です。

読みやすければ良いのですが……。

追記:2013/11/13 編集中に大事な部分を貼り付け損ねていたことに気づいて加筆

   2013/11/23 各話のタイトルを統一

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