第十話 『月下』
吐く息が白い。蝕むような寒さの中、軽装の忠正は疾走していた。
履きなれぬ靴を脱ぎ捨てた彼の足運びはほぼ無音に近い。
既に打ち倒した賊の数は十を越えようが、
果たしてこの村に何人が入り込んでいるのかは忠正には分からなかった。
ただ、この場にいる全ての賊を叩き斬るつもりであった。
次の標的は畦道に立つ一人。呑気に剣を担いで鼻歌に興じる男だ。
しかしここで、眼前の男は突然振り向いた。特に意味はない。
意味が無いからこそ、忠正はその予兆を読み取れなかった。
「……だ、誰だテメェ!」
「…………ッ!」
先手を取ることができなかった忠正は、舌打ちをしながら態勢を立て直した。
構えは正眼、背筋を伸ばして切っ先を賊へと向ける。
対手の構えは盾を使った構えだ。高く掲げた右の剣に前につきだした左の盾。
手に持てるほどの小さな盾を構える、この独特な技を使うであろう人間はこれまでに何人か見てきた。
つまりここにおいては主流の戦い方であるということだ。
用心深く観察する。高く掲げた剣は、片手打ちで落ちた打撃力を増すためのものだろう。
「こっちだ! こっちに妙なやつがいるぞ!」
声を荒らげて仲間を呼ぶ男。
注意がこちらに引きつけられることは好ましくはなかったが、この際仕方があるまい。
その間にエンキらが上手くやっていることを期待するばかりだ。
忠正が男に視線を走らせる。山岳での動きを重視しているのか軽装だ。
耐寒の意味合いもあるのだろうが、毛皮に身を包んでいる以上のものはない。
打撃であれば一撃を少しなりとも鈍らせるだろうが、
「委細問題なし」
と忠正は言い捨てた。毛皮の厚着程度で切っ先が鈍るようなやわな鍛錬はしていない。
ならば、と忠正が間合いを詰めた。
音もなく滑るように近づくその様を、対手は一瞬気付かなかった。
「お、おおぉッ?」
見たこともない足運びだ。体幹が揺れないままするりとこちらに迫ってくる。
まるで幽霊かのような気味の悪い動きであった。
動きの起こりが理解できない。
忠正からすればただの足運びであり、袴でなくズボンを着用する今となってはその効力も半減するものである。
しかし、半端に場数を踏んだこの賊にこそその効果は見えていた。
いつの間にかに間合いが詰まっている。その事実に賊は大きくたたらを踏んだ。
瞬間、それに合わせて忠正が大きく身を沈めた。
盾を持つ左手側にその身を滑りこませたのである。
「あ、う、おぁあッ!」
急接近する忠正の身体に剣を打ち下ろす。
しかし、速度の乗っていない片手打ちよりも速く忠正の手が翻った。
忠正の刃は男の脛を薙ぐに留まった。致命傷ではない。
痛みをこらえれば走ることもできるだろう程度の浅い傷だ。
しかし、そのたった一手の傷を与えてそのまま忠正は身を離す。
剣の一撃が忠正の肩先をかすめていくが、身体には傷ひとつついていない。
そう、足だ。盾はそう大きいものではない。
下半身を狙い澄ました一撃を防ぐことは困難だ。
大して勢いこそ乗っていない速度だけの剣ではあるが、
守りの薄い脛を軽く裂く程度であれば十分に働く。
賊が身を強張らせその守りを固める。
大きく動くことをやめ、こちらの次の一手に備えたのだろう。
それを見て忠正が再び近づいた。音もなく、滑るように。
しかし今度の足運びは先程のものより大胆な速さだ。
その速さに気圧された賊が、たまらず剣を突き出すと、
「ぐ、ぐぅっ!」
その小手を狙い澄まして白刃が閃いた。
傷は浅い。傭兵団として鳴らした男ならば苦でもないはずだ。
だが。足と腕に傷をつけたのは事実である。
ただそれだけで踏み込みは弱くなるし打ち下ろしも鈍くなる。
これは面白くも美しくもない、ただ勝つための小手先の術理だ。
時をかければかけるほど、失血によりその差は大きくなる。当然のことであった。
その後は最早圧倒的なものであった。
確実な勝利を刻むために賊の身体を寸刻みに切りつけ、
たまらず逃げ出そうとして背を向けた賊に対して石を投げつけ昏倒させた。
騒ぎを聞きつけ寄ってたかった賊たちも、一刀のもとに叩き切られるか、
こうしてまるでいたぶられるかのように切り刻まれて終わるのであった。
そこに感慨はない。ただ己の成すべきことを成しているに過ぎない。
ただ淡々と、目の前の敵を最良の方法で打倒しているに過ぎないからだ。
まるで息をしていることと変わらないとでもいうように、
血に濡れようともその表情は変わらない。
三人を改めて切り伏せたところで、乾いた音が響いた。
拍手だ。
「あいやいや、全くお見事という他ねえな」
大男と小男の取り合わせ。小男が軽薄な笑みを浮かべて手を叩いていた。
腰に連なるように吊り下げられた幾本もの短刀、それに一振りの長剣。
横の大男が担いでいるのは大斧か。
対手の戦力を分析しながら睨めつける。
恐らくこの小男がこの一党の首魁であると当たりをつけたからだ。
「そこらへんで勘弁しちゃあくれねえかよ。俺と違ってこいつらぁよえーんだ。
兄ちゃんが本気出したら、俺の部下、全員ぽっくりいっちまわ」
小男の言葉にほんの僅かな間だけ逡巡した。
どちらが良いか、そういった判断をしたことはない。が、
「断る」
いつも通りのほうが確実だ、と忠正は決断した。
それを聞いて小男は大きく肩を落とした。
「あーあ、やってらんねえやな。おい、じゃあ兄ちゃん。こいつの相手をしてくれや。
こいつが一番強いからよ、まあこいつを倒しゃああれよ、消化試合ってやつよ」
首魁の軽薄そうな笑みと共に、隣の大男が前に出た。
小男は退屈そうに短刀で干し肉を切り落とし口の中に放り込む。
大男に向けられているのは絶大な信頼か、あるいは。
「どちらでも変わるまい」
どうせ全員を相手取ることになる。
辺りから残った賊たちが集結する気配を感じ、同時にエンキたちの気配も伝わってくる。
馬を用意していた様子はない。合流するには遅すぎる。
恐らくは、村民たちを安全な場所へと避難させていたのだろうと検討をつけた。
「勇者殿!」
エンキが声を張り上げると、すぐさま首魁の男がそれを手で制した。
「おおっと! 手を出してくれるなよ?
今はこの兄ちゃんと、こっちのブレンタンの一騎打ちが成立したところでね」
「……ブレンタン? 奴が戦斧のブレンタンならば、
お前は熊狩りのクラン・グラン・クベルか!」
「あー? ああ。ギリアンの野郎をぶち殺してからそんな風に呼ばれてんだっけか。
いやだねえ、俺ぁそんな風情のない呼び方嫌いなんだが」
「シロー様、名うての傭兵団たちです、お気をつけを……!」
「応」
そんな掛け合いを他所にブレンタンと呼ばれた男が戦斧を振り上げた。
対する忠正は刃先を後ろへ流して半身を前にせり出す脇構え。
忠正が足をこすらせるようにすり足で間合いを詰め、それをブレンタンが待ち受ける形となった。
相手が戦斧であることを除けば、恐らくは今までで最も尋常な立ち合いだろう。
しかし、ブレンタンは目の前の小男が傭兵団の大多数を屠った事実を認められずに居た。
細い身体に細い剣。どうとっても彼の中ではおおよそ強い男には見えなかったのである。
だが妙なやりづらさはある。構えのせいだろうか。
あの構えの何が凄まじいのかも分からないが、
ブレンタンにはどうにも攻める気が起きないのであった。
故にブレンタンは待ち、忠正は動いていた。
忠正の構えは異様だ。通常、剣や槍、あるいは盾などを前にせり出す形がこの世界においての一般的な構えであった。
故に、体の方が前に出る構えなど先ず存在しないのだ。
故に、ブレンタンは誤った。
ブレンタンが咆吼した。
白息がまるで雲霞のように吐き出され、間合いの内へと踏み込んだ。
ブレンタンは七尺近い巌のような大男だ。
その間合いは小柄な忠正のものを遥かに上回る。
風が荒ぶり、まるで唐竹を割るかのような一撃が振り下ろされる。
しかし、その一撃は忠正の鼻先から三寸の位置を掠めた。
「馬鹿め」
横合いから見据えていたクランが干し肉とともにその言葉を吐き捨てた。
すり足で近寄る忠正は後ろ足に体重を載せていた。
間合いに気を取られるがあまりに、ブレンタンはその一点を見逃していた。
忠正は後ろにつんのめるように断頭を回避していた。
そのまま足の前後を入れ替えて、後ろに送った足で強く地面を蹴りこむ。
一度振り下ろした戦斧を再び持ち上げることには労力がいる。
その上、重心が前へと傾いている戦斧は打撃にも向かないものだ。
ここが機であると踏み込むが、しかし、
「だ、ァホがあぁっ!」
一撃を回避されたブレンタンだが、しかしそれでも名うての傭兵に一人である。
渾身の意地によって無理矢理にその斧の軌道を変える。
袈裟に振り下ろされた斧の反動を利用してその身を回した。
蹴りだ。その斧の強烈な一撃が、蹴り足の速度となって飛来する。
刃は間に合わない。胸元へと伸びるその大鎚のような打撃を、
柄を振り上げ足に沿わせることでなんとか逸らした。
しかし蹴りさえ凌げば更に潜れる。
とうとう己の剣の間合いに捉えた忠正が、刀を振り抜きながら足を出す。
狙うは足だ。蹴りを出した後の軸足ならば容易に裂けよう。
だが、忠正の刃が足の肉を切り裂くことはなかった。
ブレンタンの身体が、忠正の視界の外へと流れている。軸足の力だけで飛び出したのだ。
ここまで出鱈目な運足を忠正は見たことがない。
しかし、横に回りこまれた以上、今度は忠正が隙を晒すこととなる。
たたらを踏むように体を崩したブレンタンが、その筋力だけで斧を持ち上げた。
勢いこそ失っているが鈍く重い刃が忠正へ迫る。
これを忠正は、鞘を押し込んで叩くことによって制する。
「ぐ、お、お……!」
三度に渡り平衡を失ったブレンタンの身体がとうとう傾ぐ。
忠正の身体が独楽のように回った。
振り返ると同時に振り抜かれた刃が大男の分厚い胴を薙いだ。
赤いものが腹からこぼれ落ちるのを見て忠正は息を吐いた。
「あに、き……」
口から血を吐き出しながらブレンタンが手を伸ばした。
しかし、クラン・グラン・クベルは応じない。
男は野卑な犬めいた笑みを浮かべて、
「へ、へ、へ……まさかブレンタンをやっちまうとはなあ。
よし、気が変わった。てめえら、引き上げるぞ」
腰から数珠つなぎとなった短剣を重く鳴らしながらクランが下がる。
それに応じるように辺りから気配が引いていく。その退き方は鮮やかである。
全員を生きて帰さぬような心持ちであったが、忠正一人で彼らを追うことは無理な話だ。忠正はただその気配だけに傾注し、
「その名前、覚えたぜ……勇者シロー。それじゃあな」
その姿が闇に溶け、忠正はそこでようやく刃の血を拭った。
「ど、どうなることかと思いましたよ……」
マリーエも気が抜けたのかそこで腰を抜かしてへたり込んだ。
● ● ● ●
「大変助かりました、クーデリアの皆様方」
翌朝になり、出立の時となった。
村の大人たちが総出で見送りに現れ、口々に礼を告げる。
概ねはその代表であるマリーエが表立って対応し、
忠正などは後ろで無表情にその光景を見つめている。
「勇者殿……」
エンキは辺りを見回して、その集団の中に件の子供達が居ないことを見て取り眉尻を下げた。
忠正は言葉に応じず、ただじっと視線を動かさない。
村から差し出された報酬の金を固辞したところでようやくマリーエがこちらへ振り返った。
「それでは出発しましょう、お二方!」
その掛け声に応じるように忠正が踵を返し、エンキが慌ててそれを追いかけた。
三人の乗り込んだ馬の嘶きが響き渡り、村人たちの耳に残響していった。空は青く、天高く掲げられた蒼月だけが三人の行く末を見つめていた。