冬の始まりに
――この世界に天使なんていない――
何度でも呟く。
――この世界に天使なんていない――
込み上げる切なさが太一の胸を締め付けた。
今にも泣き出しそうな曇り空は、太一の心の鏡のようで……代わりに、と言わんばかりに、ぽつりぽつりと静かに泣き始める。
冬。
今の季節には冷たすぎる雨は、太一の頬を打ち、そしてゆっくりと流れ落ちてゆく。
「……いやぁ、寂しいもんだなぁ、姉さん」
独り言が口をつく。
最近格段に増えた独り言だが、それは常に人に向けられた独り言だった。
そう、太一の唯一無二の肉親に向けての……
――姉さん、元気か?
雨が少しずつ強くなってきたので、太一は家路を急ぐ。
――俺がいなくても、大丈夫か?
制服ポケットから携帯電話を取り出しディスプレイを確認すると、時刻は夕方の五時半を少し過ぎたところだった。
――俺のこと、忘れてないよな? 姉さん、忘れっぽいからなぁ。
学校を出る時には雨が降ってはいなかったので、傘立てに傘を忘れてきたのを悔やむ。
――もしあの時、
家まであと数歩というところで立ち止まる。
――もしあの時、俺が少しでも早く帰ってきていたら。
雨は次第に勢いを増してくる。寒空に雨とは、笑えない冗談だ。確かあの日も、こんな風に雨が降っていた覚えがある。
太一は感傷に浸りながら、ゆっくりと、まるでスローモーションになったかのような足取りで歩く。少しばかり古めかしいアパートの一室。そこが太一の住居だった。
姉と、家族と過ごした家ではない。太一は独り暮らしだった。
太一を遮るものは何もなかった。濡れ雑巾のような有り様になって帰ってきた太一を、咎めるものも無い。
――もしあの時、俺が友達と遊びに行かなかったら。
――姉さんと一緒に、楽になれたのかな?
しかし誰にも咎められることのない罪は「罪悪感」という名となり、太一の心を蝕み続けるのだった。
――少なくとも、今この瞬間までは。
アパートのすぐ目の前、土砂降りの雨の中、寂しげに佇む人影。
長い黒髪は濡れそぼり、オフホワイトだったのだろうトレンチコートは雨水を吸ってほとんど灰色へと変色していた。
ただ……ゆったりとした緩慢な動きで太一に向けられた顔は、まるで世界が静止したかのような心地を与えた。
そう、この瞬間、太一の世界は静止した。落ちる雨粒は空中で落下速度をゼロとし、後方で過ぎ行く自動車はエンジン音を殺した。
動くものは皆無。
ただ太一の胸の鼓動だけが唯一無二の例外だった。
「姉さん……」
やっとの思いで絞り出した掠れた声の主は太一。
その宛先は、アパートの前で太一を見つめる女性であった。
「……」
女性は何を考えているのか判別しづらいような表情で太一を見つめ……やがて。
「だれ?」
それは太一にとって、死刑宣告とも等しい、残酷極まりない言葉だった。