海で拾われた子
太公望は何人もいたのではないかと思って書き始めました。
中国の山東半島、紀元前1061年頃を舞台にした歴史ファンタジーです。
夜の海に打ち上げられたように岩礁でつくぼっている子どもがいる。
「釣れるか?」
そう声をかけたのは背の高い初老の男だった。嗄れているが張りがある。背の高い初老の男だった。いくら待っても一向に子どもは返事をしない。春先の海はしびれるように冷たかった。しかし、一度死のうと思って海に入った子どもは死ねなかったので、ふらりと蹲っている小さな体が海の方へ傾く。それは彼の残された意思であり、「助かった」と思った本能から逃れるためだった。
どぼん、という音はしなかった。波の音にかき消されながらも聞こえたのは、じゃぷんという冷たい海の鳴き声だった。
「おい……!!」
ざざざという波に揉まれて子どもの身体は見えなくなる。初老の男は助けようと海へ一歩足を踏み入れた。
「おやめください!」
と付き人の鋭い声が飛んだ。砂が少ない荒磯である。春先は冬と変わらぬ水温であり、見通しの悪い夜の海へ入るなどと正気の沙汰ではない。身体に差し障る、怪我をすると付き人は思ったのだ。
「溺れ死ぬのを見ておけというのか。お前も手伝え」
と初老の男は付き人の諌めに構わず、ざぶざぶと黒い海へ勢いよく入って行く。付き人は必死の形相で主の背を追った。こうなっては自ら子どもを救うしかない。若い彼は全身が濡れるのも厭わず肩まで浸かり子どもの行方を探った。指先に触れたと思うや、小さな身体が宙に浮く。彼の主が子どもの衣服を掴み上げたのだった。
「や、月が出たぞ」
薄雲に紛れていた望月が顔を出した。炯炯と闇夜の海を照らしていく。験が良い、と初老の男は付き人に聞かせるように言った。
「また、拾って来たのかい?」
初老の男が付き人と共に濡れそぼりながら夜陰に紛れて茅葺きの屋敷へ帰ってくると、その時代には珍しい、ふくよかな頬をした妻が暗がりから険のある瞳を向けた。
「何回拾えば気が済むんだ、この穀潰し!!」
「はっはっはっは………」
初老の男は妻の悪口を聞くのが殊のほか好きらしい。快活に笑い声を上げると、その場で身体を横に向け、付き人の腕の中で気を失っている子どもを妻へ見せた。
眼窩は窪み、頬は痩け、歯が剥き出し、腹は飢餓で膨らんで全身が皮と骨になっている。髪は茶色く縮み上がり、ごわついて垢の臭いが幾重にもとぐろを巻き、磯の匂いとごっちゃになっていた。もはや人と呼べぬ有様である。
「いつもの掘っ立て小屋に放り込んどきな!」
妻は吐き捨てるように付き人へ言った。付き人は肩を竦めながら去っていく。
「どうせ助かりっこないんだ」
口をとがらせた妻は、初老の男を恨めしそうに睨んだ。夫は度々みなし子を拾って来る。戦で家を失い肉親と離れた子は衰弱しており半数も生きられない。みなし子だけでなく、目や手足を失った人々も家で面倒を見ている。屋敷の側には邑の墓場に埋められぬ余所者の墓が広がっていた。
「ジャリ(小童)は嫌いだってのに」
妻は足音を立てて初老の男の前から去っていく。勾玉や管玉のジャラジャラという音が暗闇に溶け込むのを夫は耳を傾け口元を緩めると、油火をたよりに屋敷の夜回りをそろそろと始めたのだった。
「子どもが嫌い」と言い放った女主人だったが、彼女は真っ直ぐ厨へ向かうと、黍粥を土鍋から土器の碗へ掬い入れた。水甕に布切れを浸けて、のしのしと掘っ立て小屋へ入って行く。
「ここは、あんたの家だよ」
と、ぶっきらぼうに言って、水が欲しいか粥が欲しいか子どもに訊ねた。返事は無い。小さな口を太い指で挟みこじ開けると、布切れを片手で握り締め含んだ水を口の中へ落とした。そして身体を支えて顔を下へ向け、口の中の水を吐き出させる。砂利がぼたぼたと落ちていった。それを繰り返す。そして身体をざっと拭いていく。弱っているため細かい汚れは落とさずに、慣れた様子で女主人は痩せた子どもの手足の汚れを取った。身体が少し温まったところへ黍粥を一匙口に運ぶ。そっと口中へ入れると、僅かに嚥下した。
「上手い、上手い。その調子だ」
ところが二口目は唇から溢れて零れていく。
「今日はここまでだね」
と女主人は毛皮と編んだ枯れ草を子どもの体に掛け、粥の碗と布切れを手にして小屋から出て行った。
子どもの目に光は無い。
……神様は残酷だ。どうして死なせてくれなかったんだろうと見えない涙を流した。瞼の裏が熱い。眠い、と彼は思った。連日、道なき道で気絶同然に倒れ伏していたので、久々に睡魔を覚えたのだった。
「新しい子が入ったって、此処?」
「そう、そう。此処って聞いたわよ」
若い女たちの声がする。子どもは目をうっすら開けたが身体は動かなかった。女の一人が咳払いをして、
「入るわよ」
と戸の外から声がかかる。子どもは思った。左横腹と左腕が妙に重たく仄かに温かい。血が出ているのだろうか。戸がガタガタと引かれ、白い朝陽が小屋の中へ差した。
「あ、トラ!! こんな所に」
子どもの横腹の上で猫はむくりと首をもたげる。そしてやれやれと言うように、もう一度眠りについた。
「年を取ったら駄目ねえ。もっと鼠を取ってちょうだいよ」
しっ、しっ、と若い女は手で払うが猫は動じない。
「んも〜〜〜、トラなんて良い名前もらっちゃってさ、似てるのは頭の縞だけじゃない。体の斑模様は目をつぶってるのよ。あっちへ行きなさいったら。この子の身体を拭いて、お粥あげなきゃ、お家さまに怒られちゃう」
「騒々しいねえ、なにを朝からキイキイと鳥みたいに喚いてるんだい」
「あ……ッ、お家さま」
若い女は、さっと身を引いて一礼し顔を伏せた。
「猫が恐いのかい。かぶり付きゃしないよ」
と言って女主人は、ずいと子どもの寝床へ迫った。猫は微動だにしない。
「まったく、年かさのある、あんたならと思ったんだけどね」
「すみません」
「粥とお絞りを貸しな。明るいとこでよく見りゃ思ったより……だね」
女主人は言葉を濁して若い女に目配せをした。
「あたしがするから、あんたはいつもどおりの割り振りで動いとくれ」
子どもはよく見えない目で女主人の顔を近くで見た。おどろおどろしい仮面を被っているように見える。が、それは錯覚であり、女主人は鯨面であった。海の不祥から身を守る呪いである。額から目の周り、頬、顎、腕、脚に至るまで曲線刻の入れ墨が施されていた。耳飾りの玉が白く眩しく見える。
若い女も鯨面であったが額と目の淵に少し入れた程度で素肌が大半である。彼女は女主人に一礼すると小屋から出て行った。
「恐いかい? 猫を見とくんだね」
子どもは表情を動かさなかったが、女主人は余所の邑から来た子どもに泣かれたことが多くあったので慣れている様子だった。
禍々しいと思ったのは一瞬である。子どもには渦巻く入れ墨が美しい海の流れに見えてきた。というのも粥を口に運び入れ、身体を清拭する彼女の手が柔らかかったからである。
子どもは「ありがとう」と言おうとしたが、ただ口が僅かに動いただけで喉は一向に震えず声も出なかった。
やがて夕景が小窓から見えるようになった頃、子どもを助けた初老の男が付き人と一緒に現れた。中腰になって子どもの顔を覗き込む。
「お前は運が良い。此処に来りゃ食いっぱぐれはしねえぞ」
驚いたことに初老の男も鯨面であった。妻と同じ曲線刻の入れ墨を全身に施している。白髪混じりの髪が肩にかかり髭も長く伸ばしていた。
「俺は邑で祭祀をしてる呂尚と言う者だ。妻の名は祝という。よろしくな」
呂尚は子どもの名前を尋ねたが、口が利けない様子を見て、
「また今度、教えてくれ」
と言うや、長居は酷だと思い、付き人と共に去った。夕食はもう終わっていたが子どもは喉が酷く渇いていた。
「寝る前に水を持って行ってやれ。唇がカサついてたぞ」
「はい、女たちへ伝えておきます」
「何か言いたそうだな」
「………、昼過ぎに、お家さまから呼び出されました」
「叱られたか」
「いえ、この子の傷を見て欲しいと。足首の腱のところに傷がある、矢傷かどうか問われました」
「どうだった」
「矢傷です。恐らくまともに歩けません」
「そうか。子ども用の杖を見立てといてくれ」
到底、長く生きられない者にそこまで……と付き人は思った。が、主の言うことである。杖を持つまで長らえなかったとしても、その杖は他の足の悪い子どもの役に立つに違いない。
犬の遠吠えが子どもの耳に入ってきた。雉の鋭い鳴き声にびくりと身体を震わせたが、それを宥めるように女たちのお喋りが何処からか降って湧き遠ざかる。一日の終わりを告げる太鼓の音が地を這うように耳に吸い込まれた。賑やかな邑だなと子どもは幼心ながら思う。喉の渇きを覚えながらも微睡み始めた。次に目を覚ましたのは暮れ時で、朝方に見かけた若い女が心配そうに水を汲んだ碗を持って佇んでいた。
「トラが居なくなった?」
と、呂尚は声を上げた。屋敷の鼠避けに餌付けしていた野生種の猫である。
「若い方のトラは居るんだろう」
彼は、トラが行方知れずになったと告げた付き人に、続けてそう言った。
「居ます」
と付き人は答えた。
「先代のトラも、年を取ると姿を消してたな」
呂尚は溜め息交じりに伸ばした髭を指先でひねった。
「そうです。……それで、最後に老いた方のトラを見たのは、海で拾われた子どものいる小屋だったと聞きました。子どもの側で寝ていたと、お家さまが言っていました」
「弱って伏している子の近くか。吉兆かそれとも……」
凶兆かと呂尚は口に出さなかった。不吉だからである。
「その子に障りがあるかもしれんな。世話をする女たちに、変があれば直ぐ知らせるように伝えてくれ。祝は心得て既に触れ回っているかもしれんが」
「かしこまりました」
付き人は一礼すると、その場を去った。呂尚は庭先の木々に視線を送る。赤い若芽が柔らかな葉先から薄っすらと緑に染まろうとしていた。春が深まろうとしている。
彼は口が利けない子どもの名前が分からず、不便だからと、
「当面は『望』でいこうと思うが、どうだ?」
と本人を目の前にして訊いた。望月の日に拾ったからである。子どもは口をパクパクさせて、自分の名を伝えようとした。唇の動きを見ていると『望』と発音が遠いようである。
「………ッ、……キョ……フ、…………ぅ゙ー……ウ!」
「おお、話せるのか」
「キョ……、ウ」
「どういう意味だ?」
子どもは目を曇らせて俯いた。意味が分からないのか、意味を知っていて悲しいのか分からなかった。
果たして老猫のトラが居なくなったのは人にとって吉兆であった。命を子どもに渡して泉下へもぐったようなものである。目をギョロギョロさせて骨と皮ばかりに痩せていた子どもは、見る間に生気を取り戻し、杖を突いて歩けるほどまで蘇った。それは屋敷中の者たちを一人残らず驚かせ、ひとときながら僅かばかりの活気を与えたのだった。
「祝よ。お前は、どう思う?」
と呂尚は妻に訊ねた。二人並ぶと鯨面文身夫婦で凄みがある。が、彼らは土間の腰掛けに揃って座り、そこらにいる夫婦と何ら代わり映えのしない仕草と口ぶりであった。
「何をさね」
祝は、籠の中の木の芽から固くなった外芽を取り除いて別の籠へ入れていた。
「キョウという名前の意味だ」
この時代、漢字は広まっていない。王の祭祀の呪具に近いものがある。
「吉凶の『凶』とか、狂った『狂』とか」
妻が不吉な事を口にするので呂尚は顔をしかめた。彼女も呪術師であり、昔は祭祀をつとめていたのだが。
「……あの子、痩せてたときは気づかなかったけど、顔立ちが、あたしたちとちょっと違うねえ。彫りが深いし、目の色も鳶色だし、髪の色も黒くない。茶けってるところを見ると、」
そこで妻が言いかけたままにしたので呂尚は前かがみになり唾を飲んだ。
「……見ると?」
「異人さんだ」
呂尚は、はっと息を呑んだ。
「どうする? 片足の異人さんを拾っちまった」
妻の祝は、意地悪そうに笑みを浮かべた。
「……なら、キョウは『羌』だ。『夷狄』の意味がある」
夫の呂尚が思いがけなく子どもの名前を続けて探り入れたので、にたにた笑っていた妻は真顔になった。
「人狩りに遭う敵異族を指す言葉だ。それを名前にするのはおかしいぞ」
「知ったこっちゃないよ」
「真名は、ほかにある。それを言わないのは何故だ? 知られると呪いをかけられると思ってるのか? それとも、」
今度は夫が言いかけたまま間を置いたので祝が唾を飲む番となった。
「それとも、なんだい?」
「自分は死んだと思ってるのか」
年端のない子どもである。そこまで考えているとは思いにくい。
「なあ、やっぱりあいつの名前は『望』でいいんじゃないか?」
呂尚の言葉に妻の祝は大きく息を吸い込んだ。
「しつこいんだよ、あんたは! いい加減、諦めな!!」
自分は『夷狄』だと名乗るよりも、周りから待ち望まれている名のほうがどれだけ良いだろう。
キョウが庭の外れでぴょこぴょこと杖を突いて歩く練習をしている。屋敷の者たちは田畑へ、狩りへ、漁へ、厨や水くみへ出ていた。呂尚は辺りに人の目が無いことを見計らって、付き人を軒下へ残るよう言ってからキョウへ近づいた。
「キョウ」
子どもは主が歩み寄って来たのが見えたので、緊張しながら頭を下げる。
「聞きたいことがあるんだが、いいか?」
呂尚は庭に植えた桃の木の幹へキョウをいざなった。何処にも掴まらず片足で立つのは大変である。キョウは主の心配りに気付いて幹に手をかけた。頭のうえに若葉がある。
「あれからキョウという名の意味を考えたんだが、お前は……、人狩りに遭ったのか?」
子どもの顔が見る見るうちに青ざめ、強張っていく。
「親きょうだいと、はぐれたのなら探すのを手伝うぞ」
鳶色の目から大粒の涙が溢れ、ぱたぱたと落ちていく。キョウは小さく首を振った。
「はぐれた訳ではないのか」
呂尚はそう言い、同時に
(死に別れたのか)
と思った。子どもは俯いたまま押し黙ってしまう。土気色の顔色を見て呂尚は気の毒に思った。
「ここから北西へ行くと薄姑という邑がある。姜族が西から多く移り住んでる邑だ。お前の名前の『キョウ』は、姜族から来てるんだな?」
呂尚にそう尋ねられたキョウは戸惑いながらも恐る恐る頷いた。
「薄姑は俺の母の郷でもある。俺の血の中にも、お前と同じ姜の血が流れている。ひょっとすると遠い親戚かもしれんな」
そう言うと呂尚は嬉しそうに声を上げて笑った。キョウは驚きつつも、つられるように半笑いとなった。
「だが、『キョウ』は一族を表す言葉だ。本当の名前はまだ……」
キョウの顔色がさっと陰り、バツが悪そうに俯いた。
「まだ秘密なんだな? 言いたくなったら教えてくれよ。待ってるぞ」
幼い彼には言えない理由がある。呂尚はそれが薄っすらと分かってきた。この邑は、王の勢力下にあり、祭祀の呂尚が祈りを捧げる時も王を讃える言葉から始まる。王のために人狩りに遭ったキョウからすれば、呂尚は人狩りをする王側の者だ。命の恩人とはいえ仇の陣中に居るのである。それを思うと、
(つくづく不憫な子を拾った)
と彼は心中、穏やかではなかった。薄いもやが立ち込めている、これからそれがますます濃くなる予感がしてならなかった。
物語のはじめはちょっと暗めですが、段々と明るくなってきますので、お付き合いいただければ幸いです。




