悪役令嬢『転生者なので結末を知っています』 王『私も』 宰相『私も』 聖女『私も』 ——誰も知りませんでした
私は、王の口が開くより先に息を吸った。
断罪の間。天井から垂れる王家の紋章旗が、扉の隙間風に揺れている。居並ぶ貴族たちの視線が背中に刺さっていたが、指は震えていなかった。
三年分の証拠書類が、左手の革帳に全て綴じてある。
「——ルシア・ヴェルトラン」
玉座の前に立つライアス三世が巻物を広げた。
二十六歳の若き王は、緋色のマントの裾を踏みそうになりながら一歩前に出て、声を張り上げた。稽古でもしてきたような声だった。
抑揚の付け方が不自然なほど整っていて、舞台の朗読のようだった。
「国庫横領、貴族買収、王妃暗殺未遂——貴様の罪状は明白である。本日をもって、処刑を言い渡す」
処刑。その一語が石壁に反響して消えるまで、黙っていた。
知っている。
乙女ゲーム「蒼薔薇の誓い」のバッドエンド。悪役令嬢が断罪される、あの場面。前世でコントローラーを握りながら何周も見た光景が、今、自分の足元で起きている。
でも今日は違う。ゲームの私は証拠を持っていなかった。
「陛下、申し上げることがございます」
一歩前に出た。革帳の表紙を親指で撫でた。三年間の夜を費やした重さが、指に伝わっている。
「——私は転生者です。この結末を、知っています」
断罪の間が凍った。侍従長マルコが議事録の羽根ペンを取り落とし、インクが羊皮紙に黒い染みを広げた。
私の計算は単純だった。転生者であることを証明する手段はない。
だが「未来を知っている」と宣言すれば場が混乱する。混乱の隙に証拠書類を貴族たちの手に渡す。読ませれば勝てる。
「転生者だと?」
ライアスの眉が跳ね上がった。巻物を持つ手が一瞬止まり、視線が左右の近衛兵に走った。
「妄言で時間を稼ぐつもりか。哀れな——」
「哀れではありません」
私は革帳を掲げた。
「ゲームでは私は何の証拠も持たずに断罪されました。でも今回、私はこの三年間で会計記録の原本を全て揃えています。横領の実行者が誰か、数字が証明して——」
「——奇遇だな」
ライアスが遮った。
巻物を持つ手が下りた。肩の力が抜けて、玉座の前に立つ若い王の姿勢が、一瞬だけ崩れた。
「我も、転生者だ」
……は?
息を呑んだ。
「我が記憶では、この場面は『賢王ライアスが悪辣な令嬢を断罪し、国家を救う感動のクライマックス』だ。小説のタイトルは『クリムゾン・ソード外伝』。月間ランキングで三位まで上がった作品でね」
ライアスの声は、さっきの朗読調から完全に変わっていた。
まるで、好きな作品について早口で語る「オタク」だった。
私の指が革帳の縁を掴んだまま動かなかった。想定していない。転生者は自分だけのはずだった。三年間の準備は「私だけが未来を知っている」という前提の上に組み立てていた。
「でも——私の記憶では、ゲームの悪役令嬢は無実で——」
「陛下」
静かな声が、私の反論を断ち切った。
宰相ゼファン・クロウが、貴族たちの列から一歩前に出た。四十八歳。白髪交じりの髪を後ろに撫でつけ、宰相の印章が胸元で光っている。表情は動いていなかった。断罪の間に入った時から、この男だけが一度も表情を変えていないことに、私は今さら気づいた。
「私も、です」
断罪の間の空気が、音を立てて軋んだ。
貴族の列から複数の咳払いが漏れた。侍従長マルコがインクの染みを拭く手を止めて、ゼファンの顔を見上げた。
「私の前世では、歴史ファンタジーの学術論文を読んでおりました。『異界転移研究・第三章:ヴェルトラン家の興亡』。その論文の結論は明確です——ルシア・ヴェルトランは無実であり、本当の黒幕は王室側近にいた」
ゼファンは印章を指で一度回した。
「学術論文ですので、感動的なクライマックスはありません。ただ史料と数字に基づいた結論が記されていた。陛下の断罪は、冤罪です」
ライアスの顔が強張った。巻物を握る指の関節が白くなっている。
「ゼファン、貴様まで——」
「あの」
全員の視線が、玉座の間の右手列に向いた。
聖女エリア・サンクトスが立ち上がっていた。白い法衣の袖を両手で握りしめ、頬が耳の先まで赤く染まっている。
「……私も、転生者で——」
マルコの羽根ペンが二度目の落下を遂げた。今度はインク壺ごと倒れて、羊皮紙の議事録が黒く染まった。
「私の記憶では——二次創作の短編なんですけど——今日、ルシア様の断罪をエリアが止めて、二人で手を取り合って……その……」
エリアの声が尻すぼみになった。法衣の袖を握る力が強くなって、布に皺が寄っている。
「百合ENDだったんです」
断罪の間が、三秒間、完全に沈黙した。
貴族の列の後方から、誰かが吹き出す音がした。隣の貴族が肘で突いて止めたが、もう遅い。笑いの波紋が列の端から端まで走って、天井の紋章旗が震えるほどのざわめきに変わった。
侍従長マルコが、インクまみれの羊皮紙を両手で持ち上げたまま、私とライアスとゼファンとエリアを順番に見た。
「……百合、ENDと申されましたか」
マルコはインクまみれの羊皮紙を持ったまま言った。
「続けて、よろしいですか」
誰も答えなかった。
マルコは羊皮紙をそっと裏返して、インクの染みを隠した。新しいページを開く手が微かに震えていたが、それが笑いを堪えているのか恐怖なのかは、私には読めなかった。
私は三人の顔を順番に見た。
ライアスは巻物を握りしめたまま立ち尽くしている。
ゼファンは印章を回す手を止めない。
エリアは頬を赤くしたまま俯いている。
全員が転生者。全員の「正史」が違う。
笑いが収まる前に、ライアスが声を張った。
「くだらん。我の記憶こそが正史だ。小説の本編に記された正当な断罪であり——」
「陛下」
ゼファンが遮った。
「小説と学術論文では、史料の精度が異なります。私の記憶の方が信頼に足る」
「論文だと?架空の世界の架空の論文に信頼性もへったくれも——」
「それを仰るなら、陛下の小説も架空ですが」
ライアスの口が開閉した。反論が喉の手前で詰まっている。
「ルシア様」
エリアが一歩前に出た。法衣の裾を踏んでよろめきかけ、立て直した。
「私の記憶では、ルシア様は本当はとても優しい方で、断罪の後に私と一緒に——」
「エリア嬢」
私は片手を上げた。
「その話は後で聞きます」
「えっ、でも百合ENDの詳細を——」
「——詳細も記録に残しますか」
マルコが小声で言いかけた。
「後で」
私は言った。
マルコも口を閉じた。
エリアの肩が少し落ちたが、口を閉じた。
私は革帳を開いた。証拠書類の束。三年間の夜。帳簿の写し、取引記録、筆跡鑑定の依頼書。この全てが「私は無実である」ことを証明するために集めたものだった。
だが——私の手が止まった。
ライアスも書類を持っていた。巻物の裏に挟まれた告発状。匿名の密告書。私の横領を告発する内容が、整った筆跡で記されている。
ゼファンがローブの内ポケットから、折り畳まれた文書を取り出した。宰相の封蝋が押された内部文書。王室側近による証拠操作の記録。
三枚の書類が、断罪の間の卓上に並んだ。
マルコが新しい羊皮紙にペンを走らせながら、三枚の書類を交互に見た。
「……全て本物の筆跡に見えますが」
「本物だ」
ライアスが言った。
「本物です」
私が言った。
「写しですが、原本の所在は特定できます」
ゼファンが言った。
三枚の書類が示す結論は、三つとも違った。私の書類は令嬢の無実を示し、ライアスの告発状は令嬢が黒幕だと示し、ゼファンの文書は王室側近が全てを操作したと示している。
エリアが卓を覗き込んだ。
「……私の記憶には、証拠なんて出てきませんでした。ただルシア様と私が仲直りする場面だけで」
「二次創作に証拠検証の場面がないのは当然かと」
マルコが小声で言った。
私の指が証拠書類の縁を辿った。三年間。帳簿を盗み見るために使用人に扮した夜。金庫の番号を覚えるために廊下で三時間立ち続けた朝。全てがこの束に凝縮されている。
なのに、隣に並んだ告発状が——同じだけの重さで、正反対の結論を示している。
「……」
声が出なかった。私の「正史」では、この書類で全てが覆るはずだった。
王が動揺し、貴族たちが味方に回り、悪役令嬢が逆転する。
ゲームには存在しなかったルートを、自分の手で作り上げる——そのはずだった。
でも王も転生者だった。王にも「正史」があった。その正史では、私の証拠すら「悪辣な令嬢の最後の悪あがき」として処理される。
「では証拠を検証しましょう」
ゼファンが宰相の声に戻った。印章を回す手が止まり、三枚の書類に順番に指を置いた。
「ルシア嬢の会計記録。これは王室外部から入手した原本です。改ざんの痕跡を確認します」
ゼファンの指が紙面を滑った。数字の列を追い、インクの濃淡を確かめ、紙の断面を爪で触れた。宰相として何百通もの公文書を扱ってきた指だった。
「筆跡、インク、紙質——偽造の形跡はありません。本物の会計記録です」
心臓が激しく鼓動した。
だがゼファンの指は次の書類に移っていた。
「陛下の告発状」
ライアスが腕を組んだ。緋色のマントの裾が床を引いている。
ゼファンの指が告発状の筆跡を辿った。一行目、二行目、三行目——指が止まった。
「……陛下。この告発状、いつ、どこで受け取られましたか」
「半年前だ。玉座の間の扉の下に差し込まれていた。匿名だが、内容の精度が高く——」
「筆跡が、宮廷書記官クレス殿のものに酷似しています」
ライアスの腕が解けた。
「クレス?」
「三ヶ月前に不審な経緯で辞職した書記官です。辞表の理由は『家庭の事情』でしたが、引き継ぎを一切行わず、忽然と消息を絶った者です」
私は息を止めた。クレスという名前に覚えがあった。会計記録を調べていた時、署名欄に何度も現れた名前。帳簿の転記を担当していた書記官。
「……匿名の告発状を、宮廷書記官が書いた?」
ライアスの声が低くなった。巻物を持つ手が震えていた。
「……書記官の話は別だ」
ライアスは声を荒げ、強引に話題を変えた。
「だがこの令嬢が婚約者として相応しくない振る舞いをしたのは事実だ。三年前の秋の夜会で——」
「——ヒロインがドレスの裾を踏んで主人公の腕に倒れ込む場面ですね!」
エリアの声が弾んだ。
「恋愛小説の王道イベントです!私の二次創作では第二章に入れました。ヒロインが顔を赤くして、主人公が手を離さないまま——あ、続き読みますか?」
「エリア嬢」
ライアスの顔が赤くなった。
「二年前だ!この令嬢は私が話しかけるたびに顔を背け、頬を染めながら『べ、別に嬉しくないんですからね』と——!これは婚約者への明らかな——」
「ツンデレヒロインの必須シーンですね!完全に解釈一致です!」
エリアの目が輝いた。
「第三章あたりで気持ちが解けるんですよね、私そこが一番好きで——」
「黙れ!」
ライアスが叫んだ。
「一年前の庭園でもだ!月明かりの下、二人になった時——」
「庭園の告白シーン!」
エリアが両手を合わせた。
「私、そこ三回書き直しました。月の光の描写が難しくて——」
「エリア嬢」
私が言った。
「あ、すみません」
断罪の間が、完全に別の意味で静まった。
「我は——この告発状の内容が、我が記憶の小説と一致していたから、本物だと——」
「信じた」
ゼファンが静かに言った。
「転生記憶と一致する証拠が現れれば、疑う理由がない。陛下が信じるのは当然です」
私はライアスの顔を見た。若い王の顔から、さっきまでの「賢王」の表情が剥がれ落ちていた。巻物を握る指の震えを、マントの裾で隠そうとして、隠せていなかった。
「……我は、感動的な断罪を完成させるつもりだった」
ライアスの声は、もう朗読調ではなかった。
「台詞を何日も練習した。鏡の前で。声の張り方も、巻物を広げるタイミングも、全部——小説の通りにやれば、民が歓声を上げると思った」
私の胸の奥で何かが軋んだ。三年間、この男を敵だと思っていた。ゲームの中の断罪者。倒すべき壁。でも目の前にいるのは、好きな小説の主人公を演じようとして、偽造文書に踊らされていた一人の読者だった。
「陛下」
ゼファンが告発状を卓に戻した。
「クレスの所在を確認する必要があります」
「……信じてくれるんですか」
「正史が違えど、証拠は証拠です」
それだけで十分だった。目の縁が熱くなったが、証拠書類の角が掌に食い込む痛みで涙を押し返した。
エリアが私の隣に立った。法衣の袖が私の腕に触れた。
「ルシア様。私の記憶、ここまで全部当たってるんです——この後、私が隣に立つ場面もありました」
「……エリア嬢、今は——」
「今です。二次創作でも、ここでした」
私は何も言えなかった。エリアの法衣の袖が、腕に触れたまま離れなかった。
ライアスが巻物を卓に置いた。練習してきた断罪の台詞が記された巻物。インクが乾いて、紙の端が丸まっている。
「……クレスの所在を調べろ」
マルコが走り出した。扉が閉まり、足音が遠ざかる。四人と三枚の書類だけが残った。
待っている間、貴族たちの列がざわめき始めた。最初は小声だった。
老侯爵ベルナルドが扇を開いた。
「小説を証拠と……」
隣の伯爵夫人が小声で続けた。
「無実の令嬢を処刑寸前まで。この国は大丈夫なのですか」
ライアスの背中が、わずかに縮んだ。
扉が再び開いた。マルコの顔が白い。
「本日早朝、北門から荷馬車で出ております。断罪の開廷、二時間前です」
「逃げた」
という声が列のどこかから上がった。もう小声ではなかった。
ライアスの手が玉座の肘掛けを掴んだ。指の関節が白くなるほどの力で。
「……断罪の朝に、逃げた」
私が言った。声は平坦だった。感情を乗せる余裕がなかった。
「断罪が成功すれば、誰もクレスを追わない。令嬢が処刑されれば、偽造の告発状は『正しかった証拠』になる。辻褄が合います」
ゼファンが三枚の書類を順番に指で示した。
「ルシア嬢の会計記録は本物。クレスの告発状は偽造。そして私の内部文書が示す通り、王室側近——この場合は書記官クレスが、証拠を操作して令嬢に罪を被せた」
ライアスの顔から色が消えていた。巻物を握る手がゆっくりと開いて、断罪の台詞が記された紙が卓の上に広がった。練習した文字。推敲の跡。余白に書き込まれた「ここで間を取る」「声を低く」という演出メモが、私の位置からも読めた。
「陛下」
ゼファンが言った。
「クレスを追う許可を」
「……追え」
ライアスの声は短かった。巻物から手を離して、自分の額を掌で覆った。指の隙間から、光が漏れるように、小さな息が漏れた。
「北門の衛兵隊に早馬を。ヘルデン街道の関所にも伝書を飛ばしてください。宰相府の緊急逮捕状を発行します」
ゼファンが印章を外して、マルコに渡した。マルコが受け取って、今度は走らずに——しかし一刻も惜しいと示す足取りで、扉に向かった。
扉が閉まる直前、マルコが振り返った。
「……議事録ですが、本日の記録は最初から書き直してよろしいでしょうか。インクで三枚駄目にしております」
誰も笑わなかった。だが私の口の端が、ほんの少しだけ動いた。
扉が閉まった。
断罪の間に残された四人と、貴族たちの列。天井の紋章旗がまだ揺れている。
扉が閉まった後の沈黙を、最初に破ったのはベルナルド老侯爵だった。
七十二歳。三代の王に仕えた白髪の重鎮が、ゆっくりと立ち上がった。扇を閉じる音が静まった間に響いた。
「陛下」
怒鳴っていなかった。それが余計に重かった。
「確認させてください。陛下は本日、匿名の告発状一通を根拠に公爵令嬢の処刑を命じられた。陛下。その判断は、証拠ではなく物語に基づいたものですな」
ライアスは一息ついて、また口を開いた。
「先年の課税改定ですが、当時の閣議で陛下は『正史の記録に基づいている』と仰いました。その正史が転生記憶だとすれば、国民は架空の世界の統計を根拠に課税されたことになります」
私は口をついて出た言葉が、止まらなかった。
「辺境の予算も?人の生死が関わる配分を、物語で?」
「我は——正しいことをしようとしていた。民のために——」
「民のために?」
私は遮った。
「無実の私を処刑寸前まで追い詰めた。民のために!」
返す言葉が、なかった。
ライアスの背中が、少し縮んだ。
蝋燭が揺れた。影が壁を這った。誰も動かなかった。
革帳を閉じた。
三年間、この場面を想像してきた。もっと高く、もっと劇的なものを想像していた。目の前にいるのは、ただ、縮んでいく王だった。
「——選びなさい、陛下」
一歩前に出た。
「誤りを認めるか」
「それとも、判断もできない無能な王として、歴史に刻まれるか」
「……取り下げる」
ライアスの声は割れていた。
「全罪状を取り下げる。本件はクレスによる国庫横領と証拠偽造として、宰相府に移管する。ルシア・ヴェルトラン嬢に、一切の罪はない」
王の声が石壁に反響した。練習した抑揚ではなかった。声が震えていた。
その一言で、指から力が抜けた。
革帳の角が、床に触れて、わずかに音を立てた。
三年間、落とさなかった重さだった。
——初めて、軽いと思った。
拍手は、なかった。ただ、ざわめきだけがあった。
ベルナルドが再び立ち上がった。
「陛下。断罪の取り下げは結構です。しかし問題はそれで終わりではありません」
扇を閉じた。
「転生記憶を根拠とした政策決定が、過去どれほどあったか。課税。条約。人事。それら全てについて、長老院として改めて確認させていただく必要があります」
「……それは」
「加えて」
ベルナルドが続けた。
「この国の王は神から統治の資格を授かるとされています。しかしその判断の根拠が、前世で読んだ他人の創作物であったとすれば——」
老侯爵の目が、聖女エリアに一瞬向いた。
「神に問いただす必要があるかもしれません。聖女殿の御所見を伺いたい」
エリアの顔が、赤くなった。
「……あの、神の意向については……私の二次創作では神様もルシア様の味方でしたけど、その神様がルシア様とエリアの百合ENDを——」
「エリア嬢」
「はい」
「わかりました。正式な神託を改めて請う手続きを取ります。それまでは、王権を停止し、長老院が預かることにします」
ベルナルドが着席した。それだけだった。
ライアスは何も言わなかった。言える言葉が、なかった。
私の膝が少し笑った。三年間、一度も折れなかった膝が、今になって震えていた。
エリアの手が肘に触れた。支えるように。法衣の袖が腕に絡んで、離れなかった。
「ルシア様」
エリアの声は小さかった。頬はまだ赤い。
「私の記憶の百合ENDは正史ではありませんでしたけど——隣に立ちたかったのは、本当です。二次創作の前から。転生記憶とか関係なく」
エリアの顔を見た。白い法衣。握りしめた袖。耳の先まで赤い頬。真っ直ぐな目。
「……エリア嬢、それは告白ですか」
「違います。古参ファンです。二次創作を書き始める前から——ルシア様のことが、ずっと好きで」
三秒間、何も言えなかった。三年間の夜と、断罪の間の緊張と、四人分の転生記憶の混乱が全部重なった頭で、十七歳の聖女の告白を処理する能力が残っていなかった。
扉の外からマルコが滑り込んできた。羊皮紙とインク壺を抱えている。
「陛下が台本をお持ちだった件も記録に残しますか」
ライアスの耳が赤くなった。
「……残すな」
「……待て」
誰も動かなかった。
ゼファンが淡々と言う。
「本件は、すでに宰相府と長老院に移管済みです」
ベルナルドが続けた。
「よって本件に関する王命は、無効となります」
ライアスの口が、閉じた。
マルコのペンが走り始めた。
隣にエリアが立っている。法衣の袖がまだ私の腕に触れたままだった。
「ルシア様」
エリアが小声で言った。
「私の記憶の二次創作、全文を覚えています。王室図書館に献上してもよろしいですか。ルシア様の本当の姿を書いた物語として」
「……百合ENDの二次創作を王室図書館に献上するんですか」
「……続きを、書いてもいいですか」
三秒間絶句した。
それから——今日初めて、声を出して笑った。
断罪の間に笑い声が響いた。天井の紋章旗が揺れた。
マルコのペンが一瞬止まり、また動き出した。羊皮紙の余白に、小さな文字が書き足されていく。
「追加案件:百合END短編の王室図書館への献上について(審議要)」
「……一点、確認させていただきます」
顔を上げた。いつもの事務的な声だった。
「本日の記録ですが——転生者という語は、削除してもよろしいでしょうか」
空気が、わずかに動いた。
「混乱を招きますので。記録上は『匿名告発の精査により冤罪が判明』と整理するのが適切かと」
「——プレスへの対応は、一貫性が命でしたからね」
私にだけ聞こえるほど小さな声で、マルコが呟いた。
その場にそぐわない前世的な響きが、同じ人間であることを告げていた。
私は、マルコを見た。
ゼファンが一瞬だけ視線を上げたが、何も言わない。
ライアスは——何も言わなかった。
「……構いません」
私の声は、驚くほどあっさり出た。
マルコは頷いた。
ペンが、再び走り出す。
——転生者はいなかった。
——複数の正史も、存在しなかった。
——ただ、匿名の告発と、それを正した賢明な判断があっただけ。
インクが乾けば、それが真実になる。
エリアが、袖を握った。
「……それで、いいんですか」
小さな声だった。
私は少しだけ考えて、
「私の物語では、違いました」
と答えた。
「でも——その方が、都合がいいでしょう」
誰にとって、とは言わなかった。
マルコのペンは止まらない。
歴史は、音を立てずに書き換わっていく。
——真実よりも、扱いやすい嘘の方が価値がある。
本案件のプレスリリースを完了いたしました。
転生者の数だけ「正史」があり、記録者の数だけ「隠蔽」がある。
そんな現場の混乱が少しでも伝われば幸いです。
当局では、皆様からの「ポイント評価」や「ブックマーク」という名の報告書を随時受け付けております。
皆様の支持という名の「世論」が集まれば、さらなる事実の隠蔽も検討されるかもしれません。
今後とも、歴史の修正に励みますので、何卒よろしくお願いいたします。
【侍従長 マルコ】




