誘いと砂の味
金曜日の夜。横浜の街は、一週間を終えた解放感と、これから始まる週末への高揚感で溢れていた。
みなとみらいのクイーンズスクエアを抜けると、潮風の中にどこか甘い、夜の香りが混ざる。紗和は仕事用の重いバッグを肩にかけ直し、待ち合わせ場所である赤レンガ倉庫近くのイタリアンレストランへと足を向けた。
今夜の相手は、大手総合商社に勤める藤代健二。
三つ年上で、仕事を通じて知り合った。ルックスも良く、聞き上手で、何より紗和のキャリアを「自立していて素晴らしい」と正面から肯定してくれる稀有な存在だ。周囲の友人たちに話せば、間違いなく「何を迷う必要があるの?」と背中を叩かれるような、いわゆる『優良物件』だった。
店に入ると、柔らかな間接照明と、重厚なジャズの音色が彼女を包んだ。
「紗和さん、こっちだよ」
奥のテーブル席で、藤代がスマートに立ち上がり、椅子を引く。彼の仕草には一点の曇りもなく、この場に相応しい洗練が宿っていた。
「お疲れ様。プロジェクト、無事に決まったんだって? おめでとう」
「ありがとうございます。よくご存じですね」
「君の噂は業界でも有名だよ。今日はそのお祝いも兼ねて、いいワインを開けようと思って」
運ばれてきたシャンパンが、クリスタルグラスの中で細かな泡を躍らせる。
乾杯の音。冷えたアルコールが喉を通る感覚は心地よいはずなのに、紗和の胸には微かな違和感が居座っていた。
会話は淀みなく進んだ。
最近の経済情勢、共通の知人の話、お互いの休日の過ごし方。藤代の話は知的で、適度にユーモアも混ざっている。紗和もまた、プロの広報担当として培った対話術を駆使し、彼が求める「聡明で、かつ可愛げのある女性」を完璧に演じてみせた。
「紗和さんと話していると、本当に時間が経つのが早いな」
藤代が、愛おしそうな眼差しで彼女を見つめる。
「俺ももう、いい歳だろう? 以前は仕事ばかりだったけど、最近はね、こうして心安らげる誰かと、温かい家庭を築くのも悪くないなって思うようになったんだ」
それは、実質的な告白に近かった。
普通なら、ここで心拍数が上がり、頬が火照る場面かもしれない。彼となら、きっと誰もが羨むような生活が手に入る。週末は横浜のカフェを巡り、年に一度は海外旅行へ行き、適度な年齢で出産し、仕事と育児を両立させる「素敵なママ」としての未来。
けれど、紗和の舌の上で、先ほどから食べているトリュフのパスタが、まるで「砂」のような味に変わっていった。
味がしないのではない。確かに美味しい。高級な食材の香りは鼻を抜ける。
それなのに、喉を通るたびに、心がザラザラとした渇きを覚えるのだ。
(ああ、私、この人のことを一ミリも見ていない……)
紗和は愕然とした。
目の前にいる藤代という人間を理解しようとしているのではない。彼女が見ているのは、彼が提供してくれるであろう「安定した未来」という名のパッケージに過ぎなかった。そして、そのパッケージの中に、肝心の「自分の心」が入る余地が見当たらない。
「紗和さん? どうした、急に黙り込んで」
「……いえ、少し、仕事の疲れが出たのかもしれません。ごめんなさい」
紗和は精一杯の微笑みを作ったが、それは鏡の前で練習したときのような、生気のない仮面の笑みだった。
「無理をさせたね。今日は早めに切り上げようか。……実は、再来週、僕の会社の保養所がある軽井沢にでも行かないかと思って。君さえ良ければ、そこでゆっくり将来の話ができればと」
将来の話。
その言葉が、逃げ場のない檻のように紗和に襲いかかった。
ここで「はい」と言えば、彼女の人生はひとまずの安泰を得るだろう。周囲の視線や、自分の中の焦燥からも解放されるかもしれない。
けれど、その安泰の対価は、自分の心の声を永遠に封印することだ。
「……藤代さん。ありがとうございます。でも、再来週は少し、予定を確認させてください」
嘘だった。予定など何もない。
店を出ると、夜の空気は驚くほど冷えていた。藤代がタクシーを拾おうとするのを断り、紗和は「少し歩きたいんです」と言って、一人で夜の横浜に踏み出した。
赤レンガ倉庫の裏手、誰もいない海沿いの遊歩道。
遠くでコスモワールドの観覧車が、静かに色を変え続けている。
海の匂いが、先ほどの洗練されたレストランの香りをかき消していく。
「何が、不満なのよ」
自分自身への問いかけが、波音に消える。
仕事も順調、誘いも多い、健康で、自由だ。これ以上望むのは贅沢だ。そう自分を叱りつけてみるが、胸の奥の空白は、冷たい潮風に吹かれて広がるばかりだった。
刺激が欲しいのではない。
激しい恋に落ちたいわけでも、劇的な成功を掴みたいわけでもない。
ただ、ただ、自分の内側から「生きていてよかった」と思えるような、温かな手触りの何かが欲しい。
誰かに与えられる満たされ方ではなく、自分自身の呼吸で、自分の心を満たしたい。
歩き疲れて立ち止まったのは、大さん橋の近くにある、古い雑居ビルの前だった。
ふと、数日前にオフィスの掲示板で見かけたチラシの言葉が蘇る。
『ビジネス・マインドの再定義』
それは、今の彼女には最も遠い場所にあるもののように思えた。けれど、なぜかその「再定義」という四文字が、砂を噛むような絶望の中にいた彼女に、一筋の光を投げかけた。
今の自分を形作っているすべてのルーティンを、一度解体して、組み直さなければならない。
それが仕事であれ、人間関係であれ、自分自身との向き合い方であれ。
紗和はスマートフォンを取り出した。
藤代への返信ではなく、ブラウザを開き、あの勉強会の申し込みフォームを探す。
深夜、人気のない横浜の海辺で、彼女の指先は微かに震えていた。
申し込みボタンをタップした瞬間。
彼女の肺に、いつもより少しだけ、深い空気が流れ込んできたような気がした。
それが、彼女が自ら選び取った、最初の「違和感」への対抗策だった。
砂の味しかしない日常に、自分自身の手で、新しい種をまくための。




