逆風の帆走(はんそう)
三月の終わり、横浜の街を濡らす雨は、春の訪れを告げるにはあまりに冷たかった。
紗和は、馬車道のオフィスビルの一角にある、薄暗い会議室にいた。目の前には、人事部長と法務担当、そして苦虫を噛み潰したような顔の神崎部長が座っている。
「佐伯君。君が提出した『退職願』、および『久遠』との個別コンサルティング契約の継続……。これは到底、我が社の社内規定では認められない。君がこの会社で培ったノウハウ、人脈、それらはすべて会社の資産だ。それを持ち出すというのなら、相応の法的措置も辞さないよ」
人事部長の言葉は、事務的で、だからこそ残酷な響きを持っていた。
独立するということは、昨日まで自分を守っていた「看板」が、今日からは自分を刺す「刃」に変わるということだ。組織という巨大な傘から一歩外に出れば、そこには容赦のない雨と、自分を「裏切り者」と見なす冷徹な視線だけが待っている。
(……わかっていたはずよ。簡単に成功するほど、この世界は甘くない)
紗和は、テーブルの下で自分の膝を強く握りしめた。
かつての彼女なら、この威圧感に気圧され、謝罪の言葉を探していただろう。けれど今の彼女の肺には、瀬戸内の潮風が、そして青山での「剥き出しの言葉」が、確かな酸素となって循環していた。
「ノウハウや人脈を『持ち出す』つもりはありません。……私が提供するのは、私という一人の人間が、クライアントと共に築き上げた『信頼』と『哲学』です。……規定に背くというのなら、退職金も、これまでの実績報酬もすべて放棄します。ですが、私の『意志』を縛る権利は、会社にはありません」
神崎が鼻で笑った。
「意志だと? 紗和、お前は勘違いしているんだ。お前が今回成功したのは、この会社の看板と予算があったからだ。一歩外に出れば、お前はただの『三十五歳の無職』だ。誰がお前のポエムに金を払う? 挫折して泣きついてきても、もう席はないぞ」
その言葉は、鋭い棘となって紗和の心に突き刺さった。
恐怖がないわけではない。明日から、決まった給料は入らない。社会保険の手続きも、オフィスの確保も、すべて自分一人でやらなければならない。失敗すれば、これまで築いてきたキャリアは「無謀な挑戦」という汚名に塗り替えられる。
けれど、その恐怖の奥底で、紗和の「芯」は静かに、けれど熱く燃えていた。
泥中の記憶
会議室を後にした紗和は、激しい雨の降る横浜の街を歩いた。
傘を打つ雨音が、今の彼女を嘲笑っているように聞こえる。
(何が、私をここまで突き動かすの?)
ふと、彼女は島でのあの光景を思い出していた。
レモン園で、傷だらけの実を一つひとつ丁寧に摘み取っていた女性の手。
『傷があるからこそ、香りが強くなるんだよ』
源三が言った、星が闇の中から「咲いてくる」という言葉。
そして、勉強会で久保寺に「空っぽの三十五歳」だと断罪された時の、あの突き抜けるような絶望。
あの絶望があったから、私は「本物の呼吸」を探すことができた。
あの傷があったから、私は「誰かの痛み」に共鳴する言葉を見つけることができた。
彼女は、スマートフォンの電源を入れた。
画面には、加奈と井上からのメッセージが届いていた。
『佐伯さん、私たちは信じています。どんなに風当たりが強くても、私たちは佐伯さんが作った「凪」を忘れません。……いつか、また一緒に働ける日を待っています』
震える指先で、彼女は雨空を見上げた。
成功が約束されているから動くのではない。
自分が自分であるために、その一歩を踏み出さなければ、彼女の人生は再び「砂の味」に染まってしまう。そのことを、彼女は細胞レベルで理解していた。
ゼロからの胎動
翌日、紗和は最小限の荷物を持ってオフィスを去った。
見送る者は、誰もいない。神崎の指示で、部下たちは彼女に接触することを禁じられていた。
エレベーターを降り、ロビーの自動ドアを抜ける。
そこには、昨日の雨が嘘のような、透き通った春の光が満ちていた。
彼女が最初に向かったのは、山手の古い洋館のオーナーのもとだった。
会社からの予算は、もうない。彼女は自分の貯金を切り崩し、まずは一室、小さな「アトリエ」として借りる契約を交わした。
掃除用具を買い込み、一人で床を磨く。
使い込まれた木の床から立ち上る、埃っぽいが温かい匂い。
(ここが、私の新しい戦場)
夕方。アトリエの窓から見える横浜の港が、茜色に染まっていく。
彼女は、持ち込んだ小さなノートを広げた。
そこには、勉強会で書いた『願い』、島でスケッチした『光』、そして昨日、自分自身へ誓った『決断』が記されている。
これから、泥臭い営業が始まる。
久遠以外のクライアントを一から探さなければならない。
嫉妬に駆られた競合他社が、彼女の仕事を妨害しに来るだろう。
何度も「やっぱり会社にいたほうが良かったのではないか」と後悔する夜が来るだろう。
けれど、紗和の瞳には、以前のような「他者の期待」に怯える色はない。
そこにあるのは、逆風を受けながらも、自分の帆を高く掲げる航海士の光だった。
彼女は、窓を開けた。
海からの風が、彼女の乱れた髪を撫でる。
三十五歳。
困難も、苦労も、すべてを自分の栄養に変えてみせる。
彼女は深く、深く、人生で最も重く、そして清々しい「凪の呼吸」を繰り返した。
新しい月曜日が、もうすぐやってくる。
そこには、もう誰の指示も、誰の査定もない。
ただ、自分の意志で描き出す、どこまでも自由で過酷な、彼女だけの物語が続いていた。




