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凪(なぎ)の呼吸  作者: 久遠 睦


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2/6

完璧なルーティン

朝六時三十分。スマートフォンのアラームが、枕元で微かな振動と共に電子音を刻む。

 紗和は一度の動作で迷いなく右手を伸ばし、その音を止めた。カーテンの隙間から差し込む光は、まだ青白い。彼女の朝は、一分の狂いもないルーティンから始まる。

 まずは白湯を一杯。それからヨガマットを広げ、十五分間のストレッチ。凝り固まった思考を解きほぐすように、深く、ゆっくりと呼吸を繰り返す。

 鏡に向き合う時間は、彼女にとって「武装」の時間だ。

 三十五歳の肌は、手入れを怠ればすぐに嘘をつく。高価な導入美容液、丁寧なタッピング、そして彼女の象徴とも言える、落ち着いたテラコッタ色のリップ。

 「よし」

 鏡の中の自分に短く声をかける。そこに映っているのは、不安など微塵も感じさせない、有能な広告代理店のリーダー・佐伯紗和だ。

 馬車道の自宅を出て、みなとみらい線に乗る。わずか数分の乗車時間。

 みなとみらい駅の長いエスカレーターを上がり、地上へ出ると、巨大なオフィスビルが林立する「未来都市」が彼女を迎え入れる。海からの風が、アイロンをかけたばかりのシャツをかすめる。

 オフィスは、全面ガラス張りの最新鋭のビルにある。

 紗和のデスクは、チーム全体が見渡せる窓際の特等席だ。彼女が席に着くと、淀んでいた空気が動き出す。

「佐伯さん、おはようございます。例のコスメブランドの修正案、先方からOK出ました!」

 入社三年目の井上が、朝一番に駆け寄ってくる。

「お疲れ様、井上君。でも、浮足立たないで。あそこの担当者は、OKを出した後に細かい仕様変更を言ってくるのが癖だから。念のため、制作チームには予備のスケジュールを確保しておいて」

「……さすがです。すぐ手配します!」

 的確な指示。無駄のない判断。

 紗和の日常は、こうした「正解」の積み重ねでできている。

 午前中の会議では、部長の言葉を補足しつつ、クライアントの隠れた意図を鋭く指摘した。昼休みは、デスクで栄養バランスを考えたサラダを摂りながら、業界の最新トレンドをチェックする。

 午後は、最も重要なプレゼンが控えていた。

 横浜を拠点とする老舗ジュエリーメーカーのリブランディング案件だ。紗和が立案したのは「人生の節目に寄り添う、自立した女性のためのジュエリー」というコンセプトだった。

 会議室の空気は張り詰めていた。

 紗和は立ち上がり、スライドを映し出す。彼女の声は落ち着いていて、それでいて確かな熱量を持っていた。

「……三十代の女性が求めているのは、誰かに贈られる華やかさだけではありません。自分で自分を肯定し、明日を戦うための『誇り』としての輝きです。このブランドが、彼女たちの無言のパートナーとなる。それが、今回のプロジェクトの核心です」

 プレゼンが終わると、会場に静かな沈黙が流れた。

 メーカーの社長が、ゆっくりと頷く。

「佐伯さん、君の言葉には説得力がある。まるで、君自身の生き方そのものを見せられているようだ」

 最高の褒め言葉だった。

 プロジェクトは満場一致で採用が決まった。

 チームのメンバーは歓喜し、井上は「打ち上げに行きましょう!」と興奮気味に叫んだ。

 紗和もまた、完璧な微笑みを浮かべて「ええ、少し落ち着いたらね」と答えた。

 けれど。

 その瞬間、紗和の胸を通り抜けたのは、達成感ではなかった。

 ――生き方そのもの。

 社長の言葉が、鋭いトゲのように心臓の奥に刺さっていた。

 私の生き方って、これなのだろうか。

 誰かの欲しがる「正解」を先回りして提示し、洗練されたパッケージに包んで差し出す。それが仕事であり、私の価値だ。

 でも、パッケージの中身は?

 「自立した女性の誇り」を語りながら、自分自身は、たった一人の夜の静寂に怯えている。

 成功を積み上げるたびに、自分の足元が砂で作られた城のように、脆く崩れていくような感覚が消えない。

 夜八時。

 メンバーたちが帰り、静まり返ったオフィス。

 紗和は一人、窓の外を眺めていた。

 眼下には、コスモワールドの観覧車が虹色に輝き、海面を彩っている。

 観光客や恋人たちが、あの光の中で笑い合っているのだろう。

 今の自分には、あの光がひどく残酷なものに見えた。

「……お疲れ様、自分」

 小さな声が、空調の音に消される。

 机の上に置かれた、自分自身のプレゼン資料。

 そこには、凛とした表情の女性のビジュアルモデルが描かれている。

 以前の自分なら、この女性に自分を重ねて誇らしく思えたはずだ。

 でも今は、このモデルの笑顔が、自分を嘲笑っているようにさえ感じる。

 完璧なルーティン。

 完璧な成果。

 完璧な佐伯紗和。

 でも、ここには「私」がいない。

 紗和はゆっくりと椅子にもたれかかり、目を閉じた。

 まぶたの裏に残るのは、整然としたオフィスの景色と、終わりのないタスクリスト。

 このまま、あと何年これを続けるのだろう。

 四十歳になっても、四十五歳になっても、私はここで、誰かのための「正解」をプレゼンし続けるのだろうか。

 その時、私の手元には何が残っているのだろう。

 使い古された手帳と、すり減ったヒールと、賞味期限の切れたプライドだけではないのか。

 ふと、デスクの隅でスマートフォンが震えた。

 画面には、以前から何度か食事に誘われている知人男性の名前。

『お疲れ様。プロジェクト決定したって聞いたよ。お祝いに、今週末あのお店予約しようか?』

 祝福の言葉。

 普通なら喜ぶべき連絡だ。

 けれど、紗和の指は動かなかった。

 「ありがとう」と打とうとして、虚しさが指先を凍りつかせる。

 彼と会えば、きっと楽しい。美味しいワインを飲み、褒められ、女性としての価値を再確認できるかもしれない。

 でも、それはただの「補給」だ。

 すり減った心を一時的に誤魔化すための、その場しのぎの栄養剤。

 私は、補給がしたいんじゃない。

 この、器そのものを変えたいんだ。

 紗和は返信をせず、電源を落とした。

 暗くなった画面に、自分の顔がぼんやりと映る。

 テラコッタ色のリップは少し落ち、疲れを隠しきれない三十五歳の顔。

 

 バッグを手に取り、彼女は立ち上がった。

 カツカツというヒールの音が、誰もいない廊下に虚しく響く。

 エレベーターホールに向かう途中、彼女はふと、壁に貼られた社内掲示板の隅に目が留まった。

 そこには、取引先のIT企業が主催する、外部セミナーのチラシがひっそりとピンで留められていた。

『これからの時代の価値創造――ビジネス・マインドの再定義』

 普段なら「意識高い系の集まりね」と、一瞥して通り過ぎる類のものだ。

 けれど、なぜかその時は、「再定義」という言葉が、彼女の網膜に焼き付いて離れなかった。

 外に出ると、横浜の夜風はさらに冷たさを増していた。

 完璧なルーティンの中を歩きながら、紗和は初めて、その道筋から一歩外れる自分を、想像せずにはいられなかった。


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