日曜日の残像
横浜、馬車道。
歴史を感じさせるレンガ造りの建物が街灯に照らされ、夜の静寂の中にしっとりと沈んでいる。
佐伯紗和は、自宅マンションのベランダから、遠くに見えるみなとみらいの観覧車を眺めていた。規則正しく色を変える光の輪は、まるで止まることのない時間の歯車のように見えた。
「……また、明日が来る」
手にした赤ワインが、グラスの中で微かに揺れる。
三十五歳。
四捨五入すれば四十。けれど、まだ「女子」という言葉の残滓をどこかに引きずっているような、中途半端な年齢。
紗和は広告代理店でリーダー職を務めている。年収は同年代の平均よりずっと高いし、仕事の成果も出している。先月も大規模なキャンペーンを成功させ、局長から直々に労いの言葉をかけられたばかりだ。
身にまとうスーツは上質で、肌の手入れも怠っていない。鏡を見れば、そこには「自立した、美しい大人の女性」が映っている。
けれど、心の中はどうだろう。
まるで、精巧に作られたガラス細工の模型のようだ、と彼女は思う。外見は完璧で、どこにも欠けはない。けれど、中身は空っぽで、叩けば高い音を立てて割れてしまいそうな空虚。
ふと、スマートフォンの画面が光った。
大学時代の友人からのLINEだった。
『紗和、来月空いてる? 久しぶりに女子会しようよ。あ、そういえばサチのとこ、二人目だって!』
おめでとう、と打とうとして、指が止まる。
サチ。大学時代、一番地味だったはずの彼女は、今や二児の母として、SNSには幸せそうな公園の風景をアップし続けている。
結婚。出産。
それは三十五歳の女性にとって、避けては通れない巨大な壁のような言葉だ。
自分だって、全く考えていないわけではない。それなりに誘われることも多い。先週も、取引先のメーカーに勤める男性から「今度、ゆっくり食事でも」と誘われた。清潔感があって、会話も知的で、条件としては申し分ない相手だった。
けれど。
「……気が乗らないのよね」
独り言が、冷たい夜風にさらわれて消える。
彼と向かい合って、お互いのプロフィールを摺り合わせ、将来の展望を語り合う。その工程を想像しただけで、砂を噛むような退屈さが押し寄せてくる。
誰かと出会って、心をかき乱されるような刺激が欲しいわけではない。もう、そんな若さゆえの熱病は卒業したつもりだ。
ただ、ただ――心が、静かに満たされて欲しかった。
今の自分には、その「何か」が決定的に欠けている。その正体がわからないまま、効率と成果だけを追い求めて、今日まで走り続けてきてしまった。
グラスを置き、紗和は寝室へ向かった。
明日着るためのシャツにアイロンをかける。真っ白なコットンの上を、熱いアイロンが滑っていく。シワが伸び、完璧な形に整えられていく様子を見るのは、彼女にとって数少ない心の安らぎだった。
けれど、明日の朝、このシャツに袖を通す自分を想像すると、胸の奥が重く沈んだ。
月曜日の朝。
また、あの喧騒の中に戻らなければならない。
部下に指示を出し、上司の顔色を伺い、クライアントの無理難題を笑顔でかわす。
それは得意なはずの「ゲーム」なのに、最近はどうしても、コントローラーを投げ出したくなる衝動に駆られる。
「このままでも、十分なのに」
自分に言い聞かせるように、彼女は呟いた。
横浜のマンションに住み、キャリアを築き、美味しいものを食べ、たまに贅沢な買い物をする。他人から見れば、羨まれるような生活。
けれど、自分という器の底には、いつの間にか小さな穴が開いていて、そこから大切な何かが、ポタポタと漏れ出しているような気がしてならない。
アイロンのスイッチを切る。
深夜一時。
馬車道の静寂は深く、時計の刻む音だけが、彼女の焦燥を煽るように響いていた。
このまま、同じ毎日を繰り返していけば、自分はどこへ辿り着くのだろう。
どこへ行けば、この渇きは癒えるのだろう。
紗和は、消灯したリビングで、もう一度窓の外を見た。
闇の中に浮かぶ街の灯りは、どこか遠くの知らない国の星屑のように、ただ冷たく、美しく輝いていた。
まだ、彼女は知らない。
この凪のような退屈が、新しい嵐の前触れであることを。
そして、自分が握りしめていた「正解」が、どれほど脆いものであったかを。
三十五歳。
人生のリノベーションを始めるための、長い、長い日曜日の夜が、ようやく明けようとしていた




