第60話 氷の標――届かぬ剣
地面がすれる音に振り返る。アンデッドの騎士が立ち上がりかけていた。レンドルは一気に間合いを詰め、その首と足を落とし、ジークたちの元へ戻った。
「ラドウィン、いいか、抜くぞ」
「ああ、ゆっくりだぞ」
息を合わせ、剣を引き抜く。刀身が抜けきる寸前、背中にジークの冷気が当たる。傷口だけが瞬時に凍りつき、血は流れなかった。
「血止めはある。腹は俺が縫う。ジークは背中を頼む。……そんな顔をするな、消毒液を使え」
「……分かった……すごく痛そう」
「レンドルは周囲を警戒だ。まだいるはずだ」
「わかった、近づかせない」
腹と背に深手を負ったまま、ラドウィンは淡々と道具を取り出し、自ら針を持った。
それを見てレンドルは確信した。剣が使えなくても、魔力が尽きても、この男は戦い続けるだろう。武器は剣だけじゃない。この冷静さそのものが、仲間を生かす力なのだ。
二人は手慣れた様子で、互いの傷を縫い合わせていく。
戦闘音は遠くで続いており、方向は変わらない。
「背中の傷は縫えたよ」
「こっちも縫えた。それと、レンドルはこちらを向くなよ。……ジーク、肩を見せろ」
「え、大丈夫」
「駄目だ、見せろ。……ディネットが心配する」
「……あっ、わかった。ディネットを悲しませたくない」
「そうだ。……血は止まっているが、跡が残らないようファルダに直してもらおう」
「そうね、包帯は巻いておくわ」
戦いの音は終わらない。近づいたり、遠ざかったり。
レンドルは音の合間を縫うように、森の奥へ静かに歩を進めた。暗闇に慣れた瞳が、すぐに新たな不純物を見つける。剣を振るう。ドサッという肉塊の落ちる音を確認し、二人の元へ戻った。
「レンドル、こっちはいいぞ。仲間たちのところへもどろう」
ラドウィンが立ち上がった。
「本当に動けるのか」
「ああ、大丈夫だ。内臓には当たっていない。とはいえ、合流したらすぐに診てもらおう」
腹と背に傷を負ったまま、その足取りに迷いはなかった。
「赤錆の沼伝いに行くと、滝があるはずだ。そこを越えたら、街道まで一本道だ」
「どうやって、みんなと合流するんだ」
「合図用の照明を打ち出す。そうだ、これを一つ渡しておく」
レンドルは、ラドウィンから筒状の道具を受け取った。
「刻印魔法の合図灯だ。ここを半分に折って、上に向ければ五秒ほどで合図が飛ぶ」
「どんな合図になるんだ」
「光る雲がしばらく現れる。夜なら遠くからでも見える。この合図灯はダルトハットに登録してある。確認した救助隊が駆け付ける仕組みだ。街道に出てから上げれば、仲間も救助隊も動ける。森に戻るより、ずっと安全だ」
「……高そうだな」
「黒曜石級のお前じゃ、手が出ないぞ」
ラドウィンは口元を緩ませた。
「大事に使うさ」
レンドルもそれに合わせて笑った。バルザードといい、ラドウィンといい、こんな状況でも笑える。そして助けてくれる。エルフは気持ちのいいやつらだ。
三人は歩き出した。
先頭はラドウィンが行く。戦傷を負った足取りは軽くはない。次にジークが歩き、最後尾をレンドルが固める。
ラドウィンの表情は、レンドルの位置からは見えない。不用意にジークに話しかけることも避けるべきだろう。記憶のこともあるし、闇の森には多くの魔物が潜んでいる。音もなく、慎重に進まなければならない。
やがて、耳に微かな響きが届いた。
「水の音だ……滝か」
レンドルの呟きに、ラドウィンが注意を促す。
「滝まで行く。落ちるなよ」
視界が開けた先には、深い闇を湛えた滝つぼが深淵のように広がっていた。
ラドウィンがジークを呼ぶ声が聞こえた。
その声の先を見ると、ジークが頭を抱えてへたり込んでいた。
「……ごめんなさい、わたし、疲れているみたい」
レンドルが歩み寄ると、彼女は虚ろな瞳で彼を見上げた。
「大丈夫か、ジーク」
「? あなた、だれ」
レンドルは、何も声に出すことができなかった。
「ジーク、彼は君を助けにきた、バルザードが雇った冒険者なんだ」
「そうなの? わたしを助けにってなんで」
「ディネットが倒れただろ。薬草を探しに来て、君は怪我をした」
「あ、そうだった。へんなの……」
「肩の怪我をしたときに、頭を少しうったんだ。大丈夫だ」
少し休もう、といってジークを木の根元に連れて行った。
「レンドル、大丈夫か」
「俺は平気だ。……早くみんなのところへ、ジークを連れて行こう」
「ああ、そうだな」
レンドルはラドウィンの顔を見ることができなかった。
腰かけたジークだけをただ見つめていた。
そして、空を仰いだ。
暫く誰もしゃべらなかった。
「……滝のもう少し手前に橋がある。そこを越えれば――待てっ」
ラドウィンが鋭く手を挙げ、静止の合図を出した。
暫しの沈黙。水の流れ落ちる音だけが響く。
その時、バキバキッという破壊音が後方から炸裂した。
レンドルは反射的に、腰のナイフを抜き放ち、弧を描くように投げつけた。同時に、静かに鞘から剣を走らせる。
そのままレンドルは月光の届かない木陰へと身を滑り込ませながら、ナイフを追った。
大蜥蜴なら、足音で大地が震えるはずだ。
――だが、これは違う。あいつだ。
自分たちを執拗に追いかけてくる魔物など、あいつしかいない。
闇を裂いて飛び出してきたのは、やはり銀狼――月闇のアステリオだった。
投げたナイフは銀狼の防御魔法に弾かれ、虚しく地面に落ちる。
銀狼がナイフの着弾に気を取られた、その刹那。
レンドルは銀狼の死角から脚を狙い、下から上へと剣を振り抜いた。鈍い音と共に銀膜を切り裂く。剣を返す瞬間、銀狼の碧眼とレンドルの紅蓮の瞳が至近距離で交錯した。振り下ろされる爪を、レンドルは飛び退いて紙一重でかわす。
『……あかがみ』
かすれるような、しかし呪いのような声だった。
レンドルは何も言わず、残り少ない魔力を足に集中した。
銀狼はすかさず氷の槍を発現しレンドルに向けて飛ばす。飛来したそれを剣の腹で斜めに受け流し、突進しながら残りの槍を紙一重の回避で抜ける。狙いは碧眼。剣を突き出すが、銀狼は巨体をひねって躱し、太い尻尾でレンドルを凪ぎ払おうとした。
レンドルはそれを見越してすでに、高く跳躍していた。
滞空する先で、二本目のナイフを上から下へと投げ落とす。青い光の粒が煌めいた。銀狼が思わず上を向く。その瞬間、レンドルは首をわずかに横に倒した。
レンドルの影で遮られていた青き月光が、銀狼の碧眼を直撃する。
眩しさに瞳が細まった、その一瞬。魔力を込めたナイフが、再び銀狼の眼を深く貫いた。
絶叫に近い咆哮が、夜の森を切り裂く。
着地と同時に、レンドルはそのまま首を狙って剣を振るった。刀身が一瞬だけ赤く熱を帯び、銀膜を食い破って肉を浅く斬り裂いた。
銀狼が怒りに任せ、地面を強く踏み抜く。地を這う波紋。
レンドルは剣に魔力を集中させ、地面を突き刺した。波紋を切り裂いた。
次に現れるはずだった氷の棘か土の棘は、レンドルの魔力によって斬った。
そこからは、徹底して視界から消える立ち回りだった。音もなく銀狼の懐に潜り込み、擦れ違いざまに剣を振るう。そのたびに赤い光が鈍く煌めき、防御魔法を削り、着実に肉体を刻んでいく。
やがて、戦場に異様な静寂が落ちた。
荒い息だけが白く溶ける。銀狼の碧眼は、もはやレンドルの姿を捉え切れていない。
すぐ近くにいるはずなのに、気づけば体を切り刻まれている。跳躍して距離を置いても、瞬きする間もなく肉薄され、斬られる。
焦れた銀狼が影から闇の手を伸ばした瞬間に、それはレンドルの赤く光る刃によって灰へと変えられていた。
銀狼とレンドルは、まるで踊っているかのようだった。
だが、その舞いの中で血を流し続けているのは、銀狼だけだった。
赤く煌めく剣が見え隠れする。
銀狼の呼吸の音だけが荒々しい。
そこに、地響きが近づいてくる。大地を這う巨大な音が、徐々に大きくなっていく。
銀狼の耳が、その方向へわずかに動いた。
闇の森の木々がなぎ倒される音が響きわたる。大蜥蜴の咆哮が轟いた。
『……待てえ!古き狼!』
『くたばりぞこないめ!』
その体には無数の氷の槍が突き刺さり、鱗はズタズタに裂けていた。
銀狼が大蜥蜴に意識を向けた、その一瞬。銀狼の膝がガクンと折れた。レンドルが背後から後ろ足を切断し、銀狼の巨体が地面に崩れ落ちたのだ。
『おのれええ!』
そこへ、大蜥蜴が突進し巨大な顎が迫る。銀狼は死に物狂いで雷撃を身にまとった。
大蜥蜴は銀狼を口に含んだ。放たれた雷撃の衝撃で身体が大きく跳ねた。そのまま巨体が倒れ込む。
その衝撃に弾かれ、レンドルは大きく吹き飛ばされた。
大蜥蜴が倒れ込んだ衝撃は凄まじく、地盤が悲鳴を上げて一気に崖を崩壊させた。
崩落した土砂の先には、ジークがいた。
ラドウィンが必死に手を伸ばすが、届かない。
ジークが、重力に引かれて真っ逆さまに落ちていく。レンドルもまた、彼女を追うように滝の深淵へと吸い込まれていった。ラドウィンはレンドルと一瞬目が合った。
崩れた崖は、大蜥蜴と銀狼をも飲み込み、すべてを滝の下へと押し流した。
残されたラドウィンが、崩落した崖下を覗き込んだが、そこにはただ、激しく叩きつけられる水の音だけが響いていた。
ラドウィンは、足元に落ちていたバルザードの剣を力なく拾った。
――だが、その剣はもう届かない。




