第59話 氷の標――簒奪者
「ジーク!」
レンドルは叫んだ。
大樹の陰に膝をついていた銀髪の少女が、顔を上げた。右肩を押さえ、折れたレイピアを杖代わりにして立ち上がろうとしている。その剣の先端は戦いの跡なのか消失していた。
「無事か!?」
ラドウィンが、泥を跳ね上げながら駆け寄る。
「肩をやられたけど、大丈夫。牙が折れていたみたいで……深くは刺さらなかったようなの」
守れなかったが、護れてはいた。剣は折れたが、奴の刃も牙も砕いた。俺の剣は届いた。
「氷で止血したのか」
「外套の上からだけど……なんとか、血は止まったわ」
緑色の外套が裂け、左肩が黒くにじんでいる。薄暗い森の中でもはっきりと分かるほどの深い染みだ。連れ去られながら氷の標を残し、自ら止血まで施していたのか。
ドドン! ドン! と、遠方で亜神たちの戦闘音が激しく鳴り響いた。
「行こう」
ラドウィンが振り返りもせず言った。短く、それだけだった。
「そうだな。大蜥蜴が銀狼とやり合っているうちに戻ろう」
「よし、俺が先導する。レンドルは後ろを――うぐっ」
不意に、声が途切れた。
ラドウィンの腹部から、血に濡れた刀身がぬるっと突き出ていた。
闇のほうに目を凝らすと、そこには血を流した男の顔があった。だが、その瞳に生気はない。レンドルは考えるより先に踏み込み、固く握りしめた拳でラドウィンの背後の顔を殴りつけた。回転しながら吹き飛んだ死者の外套に、ラクロアンの紋章が翻る。
銀狼に殺された騎士が、夜を彷徨うものとなってラドウィンを襲ったのだ。
「ラドウィン!」
ジークが叫び、駆け寄ろうとする。
「焦るな、ジーク。レンドル、剣を抜いてくれ。……ゆっくりでいい」
腹を貫かれたまま、その声は静かだった。痛みなど、どこか遠い場所へ置いてきたような響きだった。
「ジーク。抜くのに合わせて、氷で背中側を凍らせてくれ。血が出ないようにな」
「……分かった」
「ラドウィン、あいつを黙らせてくる」
「……頼む」
ジークの視線はラドウィンに釘付けになっていた。レンドルは静かにその名を呼んだ。
「ジーク、ラクロアンの騎士だ。……斬るぞ」
「……どうして私に聞くの?」
「どうしてって、君はラクロアンの騎士と一緒にいただろ」
「え……私……なんで一緒にいたんだっけ」
ジークの瞳が、困惑に揺れる。
「ジーク! 今は治療が先だ!」
ラドウィンの鋭い声に、彼女はハッと我に返った。
「あ、そうね! 一緒に森に帰ろう。ディネットが待ってる」
ラドウィンの瞳が、一瞬だけ遠く悲しそうに揺れた。彼は一度、ゆっくりと目を閉じる。
「……ああ、妹は俺たちの帰りを待っている」
再びジークを見据えた時、その眼差しは先ほどとは違っていた。懐かしそうで、温かい。
ラドウィンの眼差しが変わった理由が、レンドルには最初、分からなかった。
――ジークとディネットは、いつも一緒にいた。
そうか、だから彼女にだけは、あんな悲しい目を向けられなかったのか。
ジークは、妹の名前は覚えていた。なのに、なぜラクロアンの騎士と一緒にいたのかという直近の記憶は抜け落ちている。
――プラナスの魅了なのか。
魅了の影響で彼女の記憶は混乱しているのかもしれない。ラドウィンは話題を切り上げることで、彼女を混乱から救った。あの瞬間に、すべてを悟っていた。
レンドルの体の奥底から、燃え上がるような鼓動が突き上げた。
俺の加護だけじゃない。
彼女の記憶まで奪った。
そして、エルフを皆殺しにすると言っていたな。
命を奪ったあと何を望む、どこまで奪う気だ。
――簒奪者ラクア。




