第57話 氷の標――沼に潜む影
「こっちだ、レンドル」
闇に沈む森の中、ラドウィンが迷いのない足取りで進む。
右目は血と腫れで塞がりかけている。包帯を巻いた右手の指は、まともに曲がらないはずだ。
枝を払い、根を跨ぎ、嗅ぎ慣れた森の匂いを頼りに、獣のように正確に方向を定めていく。
気づけば、赤錆の沼に沿うように進んでいた。遠くのほうで、水が落ちる音がある。滝でもあるのだろうか。
「……よくわかるな」
「まあな。探索、追跡が俺の専門だからな」
ラドウィンが低く答える。振り返らない。立ち止まらない。
ダルトハットに傷だらけで辿り着いた時も、治療を終えるや否や「俺が案内する」と立ち上がった。今もそれと同じだ。この男は、立ち止まらない。仲間のために力を使える場面で、止まれるはずがない。――自分も、きっと同じように飛び出す。
カルドラの怒ったような顔が一瞬ちらついた。
「それよりもだ」
「ん?」
少しの間があった。頭上で枝が鳴る。風ではない。何かが逃げている音だ。この森にはまだ、無数の命が息を潜めている。
「俺たちの仲間を……ありがとう」
声が、少しだけ掠れていた。
「……もともとジークに用があって、俺が望んでついてきたことだ。礼を言われることじゃない」
「それでもだ。銀狼をあそこまで追い詰められたのは、お前がいたからだ」
レンドルはバルザードから託された剣の柄を握り直す。重い。自分のものより、ひと回り重い。それがなぜか、今は頼もしかった。
「一つ聞かせてくれ。洞窟で言っていたことだ。ジークとラクアに、加護を奪われたと」
「……ジークは、ラクアに操られている」
一瞬、足音だけが森に残った。
「操られている? どういうことだ」
「プラナスの聖霊の祝福――『魅了』で、ジークはラクアの言いなりだ」
ラドウィンは短く息を吐いた。驚きがにじんだ、短い呼気だった。
「……そんな祝福があるのか」
「ラクロアンの騎士と行動しているのは、魅了の影響か」
遠くで何かが倒れる鈍い音がして、警戒度が高まる。それきり静かになった。
しばらく二人は黙って進んだ。十歩か、二十歩か。腐葉土を踏む音だけが続く。
「ジークに用があると言っていたな。……それのことか?」
ラドウィンが再び口を開く。どうしたい、という問い方だった。敵意ではない。確かめたいのだ、とレンドルには分かった。
――この男とジークの間には、何かあるのだろうか。
脳裏に蘇る。黄金騎士との戦いのあと、要塞で出会ったエルフの少女が口ずさんでいた歌。
「ルベリア要塞で初めて会った時、エルフの古い歌を教えてもらったんだ。その時、俺は名乗ったんだけど、ラクアと模擬戦になって、彼女の名前を聞きそびれた」
「ジークが歌を? ……珍しいな。あいつが知らない奴とまともに話すことなんて、滅多にない」
「最初は口が悪いなと思ったけど、色々と教えてくれたんだ。……優しいエルフだと思った」
ラドウィンが短く、くぐもった声を漏らした。笑ったのか、それとも心当たりでもあったのか。その背中からは分からなかった。
「そのあと、銀狼に襲われて、一緒に戦った」
「そういう繋がりだったのか」
「……ずいぶん気にかけてるんだな、ジークのこと」
言ってから、少し余計だったかと思った。だがラドウィンは気にした様子もなく、むしろ迷いなく答えた。
「大切な仲間だ。――いや、妹みたいなもんだからな」
「妹?」
ラドウィンの背中が、一瞬だけ揺れた。足は止めない。だが、その一歩が、ほんのわずか重くなった。
「俺には、妹がいたんだ。気が合ったんだろう、ジークとはいつも一緒だった」
夜の空気が、すっと冷えた気がした。木の間から差し込む青き月の光が、ラドウィンの横顔をかすかに照らす。塞がりかけた右目。
「妹は……殺されてしまった。落ち込んでいた俺を、ジークは毎日励ましてくれたんだ。自分の母親――ゼイナさんが死んで、一番辛いはずなのに、俺を……」
ラドウィンは一度言葉を切った。
「ゼイナさんは妹を庇って死んだんだ」
そこで言葉が途切れた。沈黙があった。
——銀狼。
レンドルは言葉を噤んだ。
「……本当に尊敬できる人だった。だから俺は、ネオネスもジークにも、感謝しきれない」
ラドウィンはそこで足を止め、初めてレンドルを振り返った。塞がりかけた右目の奥で、左の瞳だけが真っすぐにこちらを見ていた。
「それでお前は、ジークの名前を聞いて、どうしたいんだ?」
「え……ああ。俺は名乗ったから、名前を聞こうと思っていた、それだけだ」
一瞬の沈黙。
「……名前を聞くだけ?」
もう一拍。それからラドウィンの顔が崩れた。堪えきれないように、声を殺して噴き出す。
「ははっ……! お前、本当におもしろい奴だな。バルザードが剣を預けた理由が分かった」
「笑ってくれていい。でも、大事なことに思えてならなかったんだ」
言いながら、自分でも苦笑いが浮かんだ。笑われても仕方ない。俺が同じ話を聞いたとしても、きっと笑っていた。
「はは、すまない。……ジークを助けよう」
「もちろんだ」
ラドウィンが再び前を向く。その背中が、さっきより少しだけ軽く見えた気がした。
どれほど歩いただろう。十分か、もう少し長いか。体感では分からない。疲労と緊張が混ざり合って、一歩一歩が重くも速くも感じられた。
冷えた空気が肺の奥まで刺さってくる。
その時、ラドウィンの目が鋭く地面を射抜いた。
「血の跡が切れている」
しゃがみ込み、指先で土を確かめる。腐葉土に黒く滲んだ染み。新しい。
言われて初めて気がついた。どちらの血なのだろうか。胸の奥で、何かが跳ねた。
「……枝が折れているな。こっちか?」
「ああ、それだ。足跡もある。……ん? あれは、氷か」
月の光を反射して、地面のシダの葉の上に小さく光る塊があった。周囲の空気より、そこだけが僅かに冷たい。
「氷……銀狼のものか。あいつ、氷を纏っていた」
銀炎に焼かれ、崩れ落ちた銀狼。終わったと思った。だが奴は、銀炎を消すために氷を纏い、そのまま立ち上がった。そしてその氷でエルフたちを薙いだ。バルザードの腕は——治療できたのだろうか。
「いや。この魔力は銀狼じゃない。ジークのだ」
レンドルの足が、思わず速まる。
「ジークが……戦っているのか」
ラドウィンは答えなかった。代わりに、先を急いだ。
しばらく行くと、また氷の欠片があった。さらに進むと、また。間隔は一定だった。気づけば、吐く息が白くなっていた。空気が変わっている。肌を刺す冷気が、じわじわと濃くなってきていた。
「これは……ジークがわざと残しているな。氷の小さな槍を見てみろ。先端が、行く方向を示している」
地面に短く突き刺さった、小さな氷の槍。自分がどこへ連れて行かれているか、分かっていて残している。
「……すごいな」
声が、思ったより低く出た。諦めていない。連れ去られながら、まだ戦っている。
「ああ。……近いぞ。魔力が練れなくなってきた。氷の呪縛だ」
ラドウィンが無言でハンドサインを送る。指し示された先に、ひときわ鋭い氷の槍。
その方向へ素早く移動すると、ひらけた場所が視界に入った。
違う――大木が折れている。草が踏みつぶされ、地面が大きく抉れた。赤錆の沼から何かが這い上がった跡だ。巨大な何かが。
――ドォォォォォンッ!!
地の底から突き上げるような轟音が、森の奥から響き渡った。足元の土が、微かに震えた。
二人は顔を見合わせる必要もなかった。弾かれたように、抉れた地面をなぞるように一気に駆け出した。
闇の奥に、それはあった。
岩のように見えた。だが、近づくにつれて違うと分かる。苔に覆われた表面の下で、鱗がわずかに光を返した。
——赤錆の巨岩。
最初に見たときより、大きく見えた。




