表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
銀と氷のジークリンデ  作者: 四十早
第2章 星の民と竜の加護
59/65

第57話 氷の標――沼に潜む影

「こっちだ、レンドル」


 闇に沈む森の中、ラドウィンが迷いのない足取りで進む。

 右目は血と腫れで塞がりかけている。包帯を巻いた右手の指は、まともに曲がらないはずだ。

 枝を払い、根を跨ぎ、嗅ぎ慣れた森の匂いを頼りに、獣のように正確に方向を定めていく。

 気づけば、赤錆の沼に沿うように進んでいた。遠くのほうで、水が落ちる音がある。滝でもあるのだろうか。


「……よくわかるな」

「まあな。探索、追跡が俺の専門だからな」


 ラドウィンが低く答える。振り返らない。立ち止まらない。


 ダルトハットに傷だらけで辿り着いた時も、治療を終えるや否や「俺が案内する」と立ち上がった。今もそれと同じだ。この男は、立ち止まらない。仲間のために力を使える場面で、止まれるはずがない。――自分も、きっと同じように飛び出す。


 カルドラの怒ったような顔が一瞬ちらついた。


「それよりもだ」

「ん?」


 少しの間があった。頭上で枝が鳴る。風ではない。何かが逃げている音だ。この森にはまだ、無数の命が息を潜めている。


「俺たちの仲間を……ありがとう」


 声が、少しだけ掠れていた。


「……もともとジークに用があって、俺が望んでついてきたことだ。礼を言われることじゃない」


「それでもだ。銀狼をあそこまで追い詰められたのは、お前がいたからだ」


 レンドルはバルザードから託された剣の柄を握り直す。重い。自分のものより、ひと回り重い。それがなぜか、今は頼もしかった。


「一つ聞かせてくれ。洞窟で言っていたことだ。ジークとラクアに、加護を奪われたと」


「……ジークは、ラクアに操られている」


 一瞬、足音だけが森に残った。


「操られている? どういうことだ」


「プラナスの聖霊の祝福――『魅了』で、ジークはラクアの言いなりだ」


 ラドウィンは短く息を吐いた。驚きがにじんだ、短い呼気だった。


「……そんな祝福があるのか」


「ラクロアンの騎士と行動しているのは、魅了の影響か」


 遠くで何かが倒れる鈍い音がして、警戒度が高まる。それきり静かになった。


 しばらく二人は黙って進んだ。十歩か、二十歩か。腐葉土を踏む音だけが続く。


「ジークに用があると言っていたな。……それのことか?」


 ラドウィンが再び口を開く。どうしたい、という問い方だった。敵意ではない。確かめたいのだ、とレンドルには分かった。


 ――この男とジークの間には、何かあるのだろうか。


 脳裏に蘇る。黄金騎士との戦いのあと、要塞で出会ったエルフの少女が口ずさんでいた歌。


「ルベリア要塞で初めて会った時、エルフの古い歌を教えてもらったんだ。その時、俺は名乗ったんだけど、ラクアと模擬戦になって、彼女の名前を聞きそびれた」

「ジークが歌を? ……珍しいな。あいつが知らない奴とまともに話すことなんて、滅多にない」

「最初は口が悪いなと思ったけど、色々と教えてくれたんだ。……優しいエルフだと思った」


 ラドウィンが短く、くぐもった声を漏らした。笑ったのか、それとも心当たりでもあったのか。その背中からは分からなかった。


「そのあと、銀狼に襲われて、一緒に戦った」


「そういう繋がりだったのか」


「……ずいぶん気にかけてるんだな、ジークのこと」


 言ってから、少し余計だったかと思った。だがラドウィンは気にした様子もなく、むしろ迷いなく答えた。


「大切な仲間だ。――いや、妹みたいなもんだからな」

「妹?」


 ラドウィンの背中が、一瞬だけ揺れた。足は止めない。だが、その一歩が、ほんのわずか重くなった。


「俺には、妹がいたんだ。気が合ったんだろう、ジークとはいつも一緒だった」


 夜の空気が、すっと冷えた気がした。木の間から差し込む青き月の光が、ラドウィンの横顔をかすかに照らす。塞がりかけた右目。


「妹は……殺されてしまった。落ち込んでいた俺を、ジークは毎日励ましてくれたんだ。自分の母親――ゼイナさんが死んで、一番辛いはずなのに、俺を……」


 ラドウィンは一度言葉を切った。


「ゼイナさんは妹を庇って死んだんだ」


 そこで言葉が途切れた。沈黙があった。


 ——銀狼。


 レンドルは言葉を噤んだ。


「……本当に尊敬できる人だった。だから俺は、ネオネスもジークにも、感謝しきれない」


 ラドウィンはそこで足を止め、初めてレンドルを振り返った。塞がりかけた右目の奥で、左の瞳だけが真っすぐにこちらを見ていた。


「それでお前は、ジークの名前を聞いて、どうしたいんだ?」

「え……ああ。俺は名乗ったから、名前を聞こうと思っていた、それだけだ」


 一瞬の沈黙。


「……名前を聞くだけ?」


 もう一拍。それからラドウィンの顔が崩れた。堪えきれないように、声を殺して噴き出す。


「ははっ……! お前、本当におもしろい奴だな。バルザードが剣を預けた理由が分かった」

「笑ってくれていい。でも、大事なことに思えてならなかったんだ」


 言いながら、自分でも苦笑いが浮かんだ。笑われても仕方ない。俺が同じ話を聞いたとしても、きっと笑っていた。


「はは、すまない。……ジークを助けよう」

「もちろんだ」


 ラドウィンが再び前を向く。その背中が、さっきより少しだけ軽く見えた気がした。


 どれほど歩いただろう。十分か、もう少し長いか。体感では分からない。疲労と緊張が混ざり合って、一歩一歩が重くも速くも感じられた。


 冷えた空気が肺の奥まで刺さってくる。


 その時、ラドウィンの目が鋭く地面を射抜いた。


「血の跡が切れている」


 しゃがみ込み、指先で土を確かめる。腐葉土に黒く滲んだ染み。新しい。

 言われて初めて気がついた。どちらの血なのだろうか。胸の奥で、何かが跳ねた。


「……枝が折れているな。こっちか?」

「ああ、それだ。足跡もある。……ん? あれは、氷か」


 月の光を反射して、地面のシダの葉の上に小さく光る塊があった。周囲の空気より、そこだけが僅かに冷たい。


「氷……銀狼のものか。あいつ、氷を纏っていた」


 銀炎に焼かれ、崩れ落ちた銀狼。終わったと思った。だが奴は、銀炎を消すために氷を纏い、そのまま立ち上がった。そしてその氷でエルフたちを薙いだ。バルザードの腕は——治療できたのだろうか。


「いや。この魔力は銀狼じゃない。ジークのだ」


 レンドルの足が、思わず速まる。


「ジークが……戦っているのか」


 ラドウィンは答えなかった。代わりに、先を急いだ。


 しばらく行くと、また氷の欠片があった。さらに進むと、また。間隔は一定だった。気づけば、吐く息が白くなっていた。空気が変わっている。肌を刺す冷気が、じわじわと濃くなってきていた。


「これは……ジークがわざと残しているな。氷の小さな槍を見てみろ。先端が、行く方向を示している」


 地面に短く突き刺さった、小さな氷の槍。自分がどこへ連れて行かれているか、分かっていて残している。


「……すごいな」


 声が、思ったより低く出た。諦めていない。連れ去られながら、まだ戦っている。


「ああ。……近いぞ。魔力が練れなくなってきた。氷の呪縛だ」


 ラドウィンが無言でハンドサインを送る。指し示された先に、ひときわ鋭い氷の槍。


 その方向へ素早く移動すると、ひらけた場所が視界に入った。

 違う――大木が折れている。草が踏みつぶされ、地面が大きく抉れた(えぐれた)。赤錆の沼から何かが這い上がった跡だ。巨大な何かが。


 ――ドォォォォォンッ!!


 地の底から突き上げるような轟音が、森の奥から響き渡った。足元の土が、微かに震えた。


 二人は顔を見合わせる必要もなかった。弾かれたように、抉れた(えぐれた)地面をなぞるように一気に駆け出した。


 闇の奥に、それはあった。


 岩のように見えた。だが、近づくにつれて違うと分かる。苔に覆われた表面の下で、鱗がわずかに光を返した。


 ——赤錆の巨岩(セラケモス)


 最初に見たときより、大きく見えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ