第56話 護った指先、護れなかった背中
レンドルの目の前には、銀炎に焼かれ、崩れ落ちた銀狼がいた。
毛が、皮が、肉が焼ける匂いが、鼻腔の奥まで染み込んでくる。
荒い息を吐きながら、レンドルはわずかに後ずさる。
(終わったよ、母さん……)
胸の奥でつぶやく。
仇を討った。復讐は果たした。
銀狼の碧眼は、もうレンドルを見ていなかった。
ただ静かに、どこか遠くを――自分たちのいない場所を、見ていた。
なぜかそれが引っかかった。
背後から声がした。
バルザードだ。足をわずかに引きずっている。
「その足……大丈夫ですか」
「すべては躱しきれなかったが、歩ける。それよりも――」
バルザードはレンドルの肩を二度、重々しく叩いた。
「終わりだな」
「……はい」
二人は、ネオネスたちの待つ場所へと歩き出した。
その時だった。
レンドルとバルザードの足元に、急激に濃い影が落ちた。
「避けろ!」
叫ぶよりも早く、バルザードの手がレンドルの肩を強く突き飛ばした。
体勢が崩れる。視界が傾く。
その一瞬の中で、腕が宙を舞っている。
切断面から、血が噴き出す。
理解は、遅れてやってきた。
――バルザードの腕だ。
さっきまで自分が立っていた場所に、銀狼の巨大な刃が叩きつけられている。
「――っ」
息が詰まる。思考が止まる。
銀狼を見る。
焼けただれた身体。再生はしていない。
銀炎が、ない。
なぜだ。
――氷!?
銀狼の体が、氷に覆われている。
凄まじい冷気が、肌を削るように通り過ぎていく。
剣で払った傷は、確実に致命傷だったはずだ。
なぜ死んでいない。
それでも――立っている。
その先に、ジークがいた。
「ジーク!」
地を蹴る。全力で踏み込む。
銀狼はふらふらと、死に体でありながら――走った。
すぐさま、ジークの前に氷の壁が立ち上がる。
銀狼はそれに体当たりし、砕いた。
ジークは銀狼とぶつかり、倒れる。
だが銀狼は、そのまま一直線にエルフたちへ突っ込んだ。
『星の一族!』
――違った。
狙いはジークじゃない。カルドラだ。
銀狼は知っていたのだ。
星の民を。亜神を滅してきた者たちを。
レンドルは残りの魔力をすべて足に叩き込み、疾走した。
銀狼を追い越し、カルドラの前へと跳ぶ。
着地の反動を利用し、右へ旋回しながら、全体重を乗せて剣を振るう。
まだ刀身は赤い。
激突。
振り下ろされた銀狼の刃と、火花が一瞬、散る。
銀狼の刃を断ち切った。
そのまま牙と剣がぶつかり、牙を砕いた。
だが、その代償にレンドルの剣も限界を超えていた。
嫌な音がした。
剣が軽くなる。
視界の中で、折れた剣先が宙を舞っていた。
ゆっくりと、信じられないほどゆっくりと回転しながら。
その一瞬、銀狼の氷がエルフたちへ叩き込まれる。
視界の端で、銀狼は影に沈んだ。
起き上がろうとしていたジークの影が、揺れる。
そこから、青い目をした黒い塊が躍り出た。
「やめろ――ッ!!」
声は届かなかった。
噛みつく音がした。
銀狼はジークを咥えたまま、闇の深い森へと跳躍し、消えた。
カルドラが膝をつき、肩を押さえている。
「カルドラ……!」
駆け寄り、膝をつく。
斬られたローブの間から、押さえた手の隙間を伝って血が流れている。
だが、深くはなさそうだ。
銀狼の刃を断ち切ったから――致命傷にはならなかった。
「大丈夫……レンドルが、護ってくれたから……肩を、少し切られただけ……」
ファルダが駆けつけ、鋭い声を飛ばす。
「エインズ、シャリアス! 冷気の呪縛が弱まったわ。みんなを治療するのよ!」
見渡せば、エルフたちは皆、倒れているか、傷を負っていた。
「カルドラは私が見るわ」
「ファルダ、カルドラの治療が終わったら、俺も頼む……」
斬られた腕を押さえながら、バルザードがこちらに来ていた。
応急処置の止血は済んでいるが、その顔は苦悶に満ちている。
俺は――何もできないのか。
剣を振るうことしかできない俺の、その剣は折れた。
「レンドル!」
バルザードの怒鳴り声に、はっとする。
「ジークはどうした」
「……」
答えられない。
代わりに、ファルダがはっきりと言った。
「銀狼に攫われた」
その瞳に宿っていたのは、痛みだけではない。
孫娘を救いに行けない自分への、どうしようもない怒りだった。
ラドウィンが、焦燥を隠せないネオネスに問う。
「ネオネス……俺たちはどうしたらいい」
「ああ、見ていた……行かなければ……仲間を見捨てることなど……」
ネオネスは立ち上がろうとする。
だが、数歩で膝から崩れ落ちた。
今の彼らには、もう追う力がない。明らかだった。
今、動ける者は――俺しかいない。
「バルザード……その剣を、俺に託してくれ」
沈黙。
バルザードはレンドルを見据え、やがて頷いた。
右手で愛剣を抜き放ち、その重みをレンドルへと託す。
「すまない……ジークを頼む」
「助ける」
短く、はっきりと答えた。
「……必ず戻れ」
それはジークへの言葉でもあった。
レンドルが動き出した、その時。
足元に、何かが落ちている。
砕け、断ち切られた牙が、地面に静かに横たわっている。
その中に――ひとつ、異質なものがあった。
青き月を映す、黒い刃。
銀狼の刃の欠片だ。
レンドルはそれを拾い上げた。
冷たい。重い。
布で包み、懐に収める。
少し長いが――短剣の代わりにはなる。
「レンドル、それをどうするつもりだ」
「魔法の短剣を失ってしまった。その代わりに、と思って」
「投擲にするのか。それなら、俺のものも持っていけ。腰ベルトごとだ」
レンドルが頷いた、その横で、ファルダが立ち上がろうとするカルドラを抑えていた。
「ちょっと、カルドラ! 動かないで!」
制止を振り切り、カルドラの白い手がレンドルの頬に触れる。
冷たいはずの手が、熱を帯びていた。
星素が、指先から流れ込んでくる。
「――星よ、星の民の戦士を守って」
「そんなことをしたら、君の体が」
「……行かせたくない」
震えていた。声も、指先も。
「……でも、あなたしか、救える人がいないの」
レンドルは何も言えなかった。
カルドラの口が、もう一度開く。
今度は、震えながらも顔を上げて。
「あの時と同じ、でも、何もできなかった私とは、違う……」
その言葉の意味を、レンドルはすべて理解できたわけではなかった。
だが、その瞳の奥にある深さだけは分かった。
一万年分の何かが、そこにあった。
レンドルはバルザードの剣を握り直し、顔を上げる。
それに合わせるように、カルドラも顔を上げた。
その瞳は、まるで星のように輝いていた。
「……生きて」
小さく、確かに、その声が届いた。
悲しみも、恐怖も、祈りも、すべてが混ざり合って、涙になっていた。
「……行くよ、カルドラ」
レンドルは振り返る。
「レンドル、血の痕跡がある、追える」
ラドウィンの右目が塞がっていた。
「ラドウィン、その眼……それに指が」
「大丈夫だ、見えないわけじゃない」
抑えている右手は包帯が巻かれているが、血がにじんでいる。
「俺も行く、痕跡を辿れるのは俺だけだ。ファルダ、止めても無駄だからな」
ファルダは目を細めた。
レンドルは頷いた。
「ありがとう、頼む」
そういって、ラドウィンと視線を合わせた。
護った。
だが、護れなかった。
胸の奥で、カルドラの言葉が燃えている。
懐の中で、銀狼の刃の欠片が重い。
それでも。
止まらない。
闇の奥へ。




