第53話 紅蓮の瞳に映る銀狼――「私も、戦う」
「ジーク!!」
レンドルは闇の森を奔った。
視界を遮る幾重もの枝葉が、鞭のように頬を打つ。足元をすくわんと這いずる巨大な根。だが、今のレンドルに迷いは微塵もなかった。
なぜか分かるのだ。この闇の向こう、その最深部でジークが待っている。自分が辿り着かなければならない魂の場所が、そこにあるのだと。
「ジーク!!」
喉が張り裂けんばかりにその名を叫び、森を突き進む。
天高く浮かんでいたはずの青き月が、厚い雲に飲み込まれていく。森が沈み、光を奪われた世界にさらなる深淵が落ちた。
突如、暗闇のあちこちで黄色く光る双眸が浮き上がった。
「ガァッ!」
影が飛びかかる。灰色の毛並み――石狼だ。小柄だが、その体躯は打ち捨てられた岩石のように硬い。並の剣士であれば、一撃でその刃を折られるだろう。
だが、今のレンドルの剣には「銀炎」が宿っている。
暗闇の中、ロングソードに纏わりつく魔力が灯りとなり、死の領域を照らし出す。襲いかかる石狼の牙を紙一重でかわし、横一閃。紅く、そして銀に燃える刀身が、硬質な肉を抵抗なく断ち切った。斬り裂かれた断面には、銀炎の残火が残像のように揺らめいている。
二体、三体。四方から迫る影を、踊るような足捌きで斬り伏せる。
レンドルは止まらない。背後で崩れ落ちる骸を顧みることなく、闇を駆け抜けた。
「ジーク!!」
三度、その名を叫んだ瞬間――
ドンッ。
遠くで地響きのような衝撃音が鼓膜を叩いた。肌を刺すような魔力の波動。レンドルは一瞬だけ立ち止まり、その音の源へ鋭い視線を向ける。
反射的に体が動いた。全力でその方向へ踏み込む。
雲の切れ間から、ふたたび青き月の光が差し込んだ。木々が唐突に途切れ、視界が開ける。
レンドルの眼に飛び込んできたのは――無惨に引き裂かれたラクロアンの外套だった。
銀狼の刃が閃く。それを纏っていた兵士の喉が瞬時に裂け、地面へと崩れ落ちる。さらに地面からは蠢く「闇の手」が這い出し、残された護衛たちを絡め取り、呑み込もうとしていた。
その絶望のさなか、銀髪の少女の声が響いた。
「氷よ、壁となれ!」
レンドルは地を全力で蹴った。次の瞬間、地面から鋭い氷壁が突き上がり、這いずる闇の手を物理的に遮断する。次々と衝突する闇の手が氷を削り取っていく音を背に、レンドルはさらに前へと進む。
その気配に気づいたか、銀狼の碧眼が鋭く細められた。刀身の赤い輝きが熱源となり、銀狼の瞳に映り込む。一直線に迫る紅い刀身。だが――届く直前、銀狼の巨躯が霧のように影へ溶けた。
「うしろ!!」
鋭い声が響く。レンドルは思考よりも先に体を回転させ、水平に剣を振り抜いた。
ガキン!!
激しい火花が弾け、銀狼の刃と衝突する。腕を伝う凄まじい衝撃を受け流し、レンドルは即座に距離を取った。
「ジーク! 無事か!」
伸びてくる闇の手を、銀炎を帯びたロングソードで焼き切りながら、彼女の名を呼ぶ。
『赤髪……! またお前か!』
銀狼の憎悪に満ちた声が森を震わせる。だが、レンドルの視線はその怪物ではなく、その向こう側にあった。
「うそっ……レンドルなの!?」
レンドルの眼が、銀髪の少女を捉えた。青き月の光を受けたその髪は、銀にも、透き通るような青にも見えた。夜空から零れ落ちた光の束のようだった。
レンドルは一歩前に出る。ジークをその背に庇うように立ち、銀狼から視線を逸らさない。呼吸は荒い。肺が焼けるようだ。それでも、剣先は微動だにしなかった。
「銀狼! ネオネスに夢中で、俺に気が付かなかったのか」
「お父さん!? レンドル、ここにお父さんがいるの!?」
ジークの声は震えていたが、それは恐怖ではなく驚き――そして希望に満ちていた。
「いる」
レンドルは大きく息を吸い込み、はっきりと言った。
「賢者も剣聖も、ユグの森のエルフたちも来ている」
きっと彼女は泣き崩れるだろう。レンドルはそう予感した。だが――違った。
「レンドルが生きてる……どうして。あの時、私のせいで……奪ってしまったのに……」
それは、絶望の底で彼女が独り抱き続けていた罪という名の呪縛だった。
銀狼が低く唸りを上げる。その強靭な体に一瞬、不気味な青い光が走った。
レンドルは小さく、しかし不敵に笑った。
「どうしてかな」
そして告げる。
「多分、まだ死ぬなってことなんだろ、俺たち」
その瞬間、視界のすべてが白く染まった。
レンドルは咄嗟に剣を正中線に突き出し、魂を込めて念じた。
――剣よ、護れ!
体中の力が抜けるような、奇妙な感覚。
雷光。
銀狼から放たれた凄まじい雷撃が、レンドルを呑み込まんと襲う。刹那、耳を裂くような爆音が炸裂した。だが、雷は霧散しなかった。銀狼の放った雷撃のすべてが、磁石に引き寄せられるように刀身へと吸い込まれていく。激しい火花を散らしながら、紅い剣が雷の魔力を完全に飲み込んだ。
『なんだと!』
初めて、銀狼の声に驚愕の色が混じった。
「お前も星素に意思を込めた、だから雷を真似ることができた」
『それがどうした』
「さあな。なんだっていい」
燃え上がるような紅蓮の瞳が、怪物を見据える。
「彼女にお前の刃は届かない」
息はまだ荒い。どれほど走ったのか、距離の感覚すら定かではない。胸の奥が焼ける。左腕が微かに震えている。それでも、退くわけにはいかない。
「銀狼! 母さんを殺した、あの時のようにはいかない!」
母エルザを失ったあの夜。剣さえ抜けず、ただ震えていたあの自分とは違う。今のレンドルに震えはない。あるのは、ただ静かに燃え盛る怒りと、折れることのない決意だけだった。
銀狼が牙を剥き出しにする。
『ならば、その首を落とす――猿と踊れ』
俺が殺されれば、双頭猿のように死者となってジークを襲うことになる。そんな結末、死んでも認めない。ネオネスやバルザードたちが駆けつけるまで、ジークをーー護る。
「必ずみんな来る。それまで、あの時と同じように戦うんだ」
一度だけ振り返り、ジークを見た。銀の瞳に、強い光が宿っていた。
ジークは震える声で、しかしはっきりと言葉を紡いだ。
「私も、戦う」
その光が、レンドルの紅蓮の眼に映り込み、さらなる力となった。
銀狼の前足が力任せに大地を踏み抜く。土と石が激しく跳ね上がった。その土煙の隙間を縫って――レンドルの放った短剣が、空を裂いて飛んでいた。
『グァッ!』
銀狼から苦痛の呻きが漏れる。魔法の短剣が、その左目に深々と突き立っていた。
直後、レンドルの姿が消えた。地面を蹴った衝撃で土が弾け、一気に銀狼の懐へと踏み込む。
レンドルの突き。銀狼はそれを本能で察知し、体をひねって刃で流そうと構える。だが――突きは途中で消えた。腕を引く。剣を握り直す。
「おおおおッ!!」
鋼鉄の柄頭が、銀狼の残された右目へと叩き込まれた。
声にならない咆哮が、闇の森全体を震わせる。レンドルはその勢いのまま剣を振り上げ、首を断つべく垂直に振り下ろした。同時に銀狼が体を回転させる。巨大な尻尾が横薙ぎの衝撃となって振り抜かれた。
振り下ろした剣は、わずかに銀狼の首を斬ったに留まった。次の瞬間、レンドルの体は強靭な尻尾に打たれ、木の葉のように弾き飛ばされた。
ジークが間髪入れず氷の槍を放つ。数本の槍が銀狼の体に突き刺さり、その猛攻を阻む。
『あ……赤髪ィッ!!』
銀色の毛並みが、闇の色と交互に不気味に明滅を繰り返している。両目からは液体が流れていた。血なのか、闇が漏れているのか判別はつかない。
尻尾の衝撃で、レンドルの視界が激しく揺れる。
「レンドル! 無事なの!?」
凄まじい威力だった。無防備な体勢で受けた一撃は重く、左の肋骨がきしむ。ひびか、折れたか。全身に激痛が奔る。
「……っ! 魔法で……足を……狙って……」
ジークがすぐさま詠唱を完了させる。銀狼の両足が氷の結晶に包まれ、大地に固定された。ラクア暗殺の夜、サンガードの騎士たちを凍りつかせたあの束縛の魔法だ。
『グアアアッ!』
銀狼の体の明滅は、防御魔法が限界を迎えている証だった。
声を発するだけで全身が軋む。だが今が好機だ。時間が経てば、銀狼は全てを学んでしまう。さらに――倒れたラクロアンの騎士たちが、闇の手で死者として起き上がれば、取り返しのつかない事態になる。
何としても自分たちの居場所を知らせるために。ネオネスたちへと届くように。
「空に、光を反射する……氷の板を……!」
レンドルが言い終えるよりも早く、ジークの魔法が完成していた。中空に巨大な氷の板が出現する。それが月の光を拾って反射し、暗闇の戦場を眩しく照らし出した。
銀狼が体を低く構える。先ほど潰したはずの右目はすでに不気味な再生を始めており、怒りに満ちた碧眼が二人を射抜く。
瞬きする間に、銀狼が今にも飛びかかろうとしていた。
森の奥から、闇を焼き払うような光が迫っていた。いくつもの巨大な火球が、爆音を立てて銀狼へと降り注いだ。




