第52話 闇の森――星に願いを
猿神トリケルの突進に目を奪われた刹那、ネオネスが氷槍を正確に撃ち込み、猿神は押し倒された。だが、息を吐く間もなく周囲から双頭猿の骸が溢れ出す。エルフたちは治癒魔法使いを中央に据え、円形の隊列を組んで迫りくる「死者の誘い」を打ち倒す。
「隊列を乱すな! 勇気を持て! 傷を負えば私が治し戦線へ送り戻す!」
ファルダの声が響くたび、エルフたちの連携はより強固なものとなった。言葉の神に祝福されているというのは本当なのだろう。その言葉がエルフたちの勇気を奮い立たせる。彼らはその支援を頼りに死地に踏み止まっていた。
レンドルも確実に、正面から襲い掛かってきた双頭猿の首を落とす。すぐさま右横から飛びかかってきた猿を正面に据える。振り下ろされる槍の軌道を見極め、空振らせた瞬間のすれ違いざまに首を落とした。
骸と成り果てても、その凶悪な筋力は失われていない。倒れてもなお、骸は刃の欠けた槍を離そうとはしなかった。
倒した猿たちを踏み台にさせないよう、二列目のエルフたちが数人がかりで森へ放り投げる。だが、何人ものエルフが槍に刺され、あるいは噛みつかれて戦列が崩れかける。すぐさま二列目と入れ替わり、治療に入る。一列目の隙間を抜けてくる猿を、二列目が食い止める。三列目は負傷者自身が壁となる。そこが生命線だった。
ネオネスの唇が呪文を刻んだ。地響きと共に、逆茂木のように鋭く尖った土の杭が地面から突き出し、魂の朽ちた猿神トリケルの進路を塞いだ。何度も突進の勢いのまま激突せんとした巨躯が、寸前で止まる。振り回された巨大な槍が、ネオネスの鼻先で虚しく空を切った。
その時、レンドルは正面に現れた双頭猿を見て愕然とした。さっき刃こぼれした槍を持っていた、首のない双頭猿が向かってきている。
「おかしいぞ! さっき首を落とした双頭猿が、また向かってきている!」
すぐ横で長剣を振るうラドウィンが、レンドルに同意した。
「くそっ、いつまでも減らないわけだ」
全方位の闇から、声なき口で叫ぶ双頭猿の骸たちが津波のように押し寄せてきた。死を忘れた骸の奔流に、防衛陣地がじりじりと削られていく。
「戦列が崩れてきているぞ!」
怒号が上がる。
劣勢に傾きかけたとき、バルザードの鋭い咆哮が戦場を切り裂いた。
「シャリアス!! 数が多すぎる、祝福を!」
「シャリアスを護れ!!」
エインズの声に応じ、数名のエルフが盾となる。数秒の後、シャリアスの体からまばゆい光の糸が噴き出し、エルフたち、そしてレンドルとカルドラへと繋がった。
「これは!? 加護の時と同じ感覚だ」
「レンドル、受け入れろ、拒むな!」
エインズの叫びに意識を委ねると、全身に力がみなぎる。以前から身体強化魔法を使っていたレンドルには分かった。これは外から身体強化を与えられているのだ。
直後、どさっ、という重い音と共に、祝福をかけたシャリアスがその場に崩れ落ちた。エインズが慌ててその体を支える。
「五分だ! 五分で戦局を変えるぞ!」
ラドウィンが叫ぶ。凄まじい効果の代償か、シャリアスはぐったりとしている。
長くは保たない。その五分が勝負なのだと、レンドルは心を震わせた。
ネオネスが猿神の動きを止めつつ、双頭猿に風の魔法を当てて何体も吹き飛ばす。そして大声で指示を出した。
「手足を落として機動力を奪え! 闇の手は俺が燃やす!」
そうか、銀狼が操る「闇の手」を骸から引き剥がさない限り、奴らは動き続ける。ならば手足さえ落とせば時間は稼げる。その間にネオネスが炎で闇魔法を打ち消せばいいのだ。この混戦にあって瞬時に戦況を判断する賢者の冴えに、レンドルは驚嘆した。
レンドルは凄まじい勢いで地を駆け、猿神たちの足や手を次々と切り捨てていく。ラドウィンが感嘆の声を上げ、エルフたちがそれに続く。
「ネオネス! 今だ!」
バルザードの叫びの直後、ネオネスの体から凄まじい熱波が放たれた。一瞬にして銀炎が渦巻き、全方位の双頭猿を呑み込んだ。銀炎に触れた骸が、数秒で灰へと崩れ去っていく。
まだ動いている猿たちを、カルドラは見事な体捌きで躱し、レイピアで足を切り裂いた。その時、別の双頭猿が槍を投げた。レンドルは長剣の腹で槍先を流し、そのまま槍を投げた猿の首を落とし、さらに足を斬り払った。
「助かったわ、レンドル」
背中越しから、息の乱れた声が聞こえる。振り向くと、汗に濡れたカルドラの瞳が至近距離でレンドルの顔を見つめていた。
「すごいな、戦えているよカルドラ」
「多少はね。でも、もう手も重い……限界が近いのね。……怖いの」
「俺が背中にいる。槍も全部落とすよ」
自分にも言い聞かせながら、カルドラにはっきりと聞こえるように言う。
「呼吸をしっかりして、大丈夫だ」
「……その言葉……あなたの眼が、私を照らしてくれた戦士と同じなの」
「同じ……?」
思わぬ言葉にレンドルは戸惑った。カルドラの言葉は、熱に浮かされているようでもあった。
「長い牢屋の暗闇から救ってくれた、星の民の戦士に」
「……それは、どういう」
カルドラの表情がさらに悲痛なものへと変わった。
「その戦士は、ガイナール王に殺されてしまった。私が星の民の姫の居場所を伝えて――そして」
言いかけた瞬間、カルドラに双頭猿が飛びかかってきた。レンドルは彼女と踊るように位置を入れ替え、その骸を斬り伏せる。
レンドルは衝撃を受けていた。
怖いと言いながら、彼女はここにいる。
そうだ、無茶をしないように監視すると言っていた。
彼女はジークの魅了を解く「役目」のために呼ばれた。
それだけじゃなかった。本当に俺を死なせたくないのだ。
彼女を助けた、その戦士を二度と失わないために、ここに立っている。
「すまない、カルドラ。君をこんな危険な目に合わせていたのは、俺自身だった」
レンドルの言葉に、カルドラは「ちがうの」と、首を振った。
「……紅蓮の眼が、あの時と本当に同じ」
カルドラの瞳に青き月が映り、その光が揺れ、涙が頬を流れた。
今も美しいその眼差しは、その戦士を思い出しているのだろうか。
――同じと言った。
もしかして、俺に向けられているのか。
「……ばかよね」
かすれるような小さな声が、カルドラの唇から漏れた。
でもなぜか、自分に向けられた言葉のようには思えなかった。
「ちがうの」と言ったカルドラの言葉の意味が、レンドルには分からなかった。
レンドルはカルドラから目を離すことができなかった。
その戦士のことを――。
聞き返したかった。
だが、声に出せなかった。
その涙だけが、胸の奥に残った。
バルザードが猿神の槍を受け流す音に、レンドルは首を向けた。
ネオネスが後方へ下がる。その表情は凄まじい苦痛に歪んでいた。
倒れそうになるネオネスにすぐさま駆け寄り、レンドルは体を支えた。
「さっきの魔法ですか」
「……そうだ」
うめくような声で、ネオネスは答えた。
カルドラもネオネスのそばに来ていた。ネオネスの頬を両手で押さえ、ネオネスの目をじっと見つめた。
「さっきの魔法、星素をどれほど流したの」
レンドルは戦慄した。以前、銀狼と戦った時に自分の中に宿ったあの銀炎。それをネオネスは広範囲に放った。知らずに魔力を流した、あれは星素を使った魔法だったのだ。
カルドラは巻物を取り出した。あれは星紋契約の時の巻物だ。
ーー我が契約、ここに解き放たん
ーー星よ、彼の者を助けよ
ーー我が魔力の結びにて彼の魔力を繋げ
ーー星の理よ、その身に宿れ
カルドラの唇から、言葉が流れるように紡がれていく。
巻物に刻まれた紋章が滲むように青く光り、光の粒が舞い上がった。
その光ーー星素がネオネスの体に溶け込んでいった。
星素を閉じ込めることも、取り出すこともできるのか……。
「今アステリオが戻ってきたら……」
誰かが、言葉を漏らした。
いや、銀狼がこの場に居ないことが不自然だった。
「戻って来る感じがしないほど早かった。銀狼は俺たちをほったらかして森へ入った。……どうしてだ」
魔法の援護を失ったバルザードが猿神を相手に苦戦を強いられている。
ファルダが治療をしながら答える。
「匂いを嗅いでいたわね」
少しの沈黙のあと、続けてファルダの口が動く。
「何かに気が付いた感じだった?」
その言葉を聞いた瞬間に、なぜかカルドラを見た。
凍り付いた表情をした彼女は、答えを知っていると確信した。
「ジークを見つけたからだ」
レンドルは銀狼が向かった森をにらみ、剣の柄を強く握った。
「俺への見せしめに殺すか、俺を殺すため人質にするつもりか……」
ネオネスが、せき込みながらも呟いた。
レンドルは振り返った。
そこにあったのは、一目で分かるカルドラの不安そうな、それでいて悲しみを持った表情だった。
――あぁそうか、俺はきっと飛び出してしまいそうだったんだな。
レンドルは自然と顔を崩した。
ただ、真剣さ失わない。
レンドルは苦笑して言った。
「俺が飛び出していくんじゃないかって顔をしている」
カルドラは口を開けて何かを言いたそうだった。
レンドルはその手を取る。震えていた。無理もない、こんな戦いはレンドルも初めてなのだ。
死人が誰も出ていないのが不思議なくらいだった。
一万年の時を経た今も、カルドラは星の民の戦士に感謝の念を抱き、それをレンドルに重ねている。
そして、おそらく彼女はその戦士に、敬意だけじゃない感情を向けていた。
だから、その口から言葉が漏れる前に、遮るように強く言った。
「大丈夫。この震えはすぐ止まる。……猿神を倒してくるよ」
カルドラにだけ分かるように、他の誰にも分からないように、レンドルは本当の言葉を濁した。
今度はカルドラは首を振らなかった。レンドルが気が付いたことに、カルドラも気が付いたのだろう。
カルドラの瞳が細まり、そして下を向いた。
レンドルはその場から数歩離れ、ロングソードを正面にゆったりと構える。
レンドルは息を大きく吸い、ゆっくりと吐いた。
周囲の音が消えた。
レンドルの体から魔力が溢れ銀色に流れた。
そして、青い光の粒を纏った瞬間――レンドルの全身が銀炎を纏った。
銀炎の魔力が剣に集まっていく。刀身が赤く、そして銀色の炎で燃えている。
紅蓮に燃えるその姿を、カルドラの瞳は見ていた。
「バルザード!!」
風のような速さでバルザードの横をすり抜け、猿神の懐へ潜り込んだ。
一閃――右足を断ち、流れるように垂直に斬って右腕を落とした。
巨躯が崩れ落ちる。レンドルは刀身を右手で掴んで強引に引き寄せ、左手で首に突きを放ち、そのまま押し切った。
直後、猿神の最後の頭を、バルザードがすかさず落とした。
レンドルは振り返り、カルドラに向けて剣を高く上げた。
「カルドラ! もう大丈夫だ!」
そう言うと、猿神の体の横を通り抜け、森へ向かった。
レンドルの姿はすぐに闇の森へ消えた。
「なんだ今の剣は……それにネオネスの魔法の炎のようだった」
ラドウィンが呟いた。
戻ってきたバルザードが、楽しげに笑う。
「骸とはいえ、亜神をこれほどたやすく屠るとは」
バルザードは乱れた呼吸を整えた。
ネオネスが立ち上がり、カルドラに向かって言った。
「今のは、星の民の魔法なのか」
「……そうね。そう思ってもらっていいわ」
「すごいな……。助かった、ありがとう」
ネオネスはバルザードと共に森の奥を睨んだ。
「少し楽になってきた。レンドルと銀狼を追うぞ」
「だが、追いかけるにしても、あの速さだ。どう探すか」
「それなら大丈夫だ。レンドルなら『銀狼!』と叫びながら居場所を教えてくれる」
「なにそれ」
ファルダが笑った。
一行は銀炎を纏って消えた少年の後を追う準備を始めた。
カルドラは両手を組み、胸に当てた。
バルザードがカルドラの肩に手を置く。
「レンドルは、星の民の戦士……巡りなのか」
カルドラは小さく頷いた。




