第51話 闇の森――死者の誘い
無数の闇の触手が地面を裂き、噴き上がった。黒い槍の群れのように、それらは一行へと襲いかかる。
――死人が出る。
そう確信した瞬間、視界が爆発したような熱に染まった。ネオネスの前方に、巨大な炎の壁が出現していた。真紅の障壁が闇の触手を焼き払い、進路を塞ぐ。触れた先から闇が焼け、黒煙のようなものを散らしながら消えていった。
焦げた臭いが鼻を刺す。それはただ木や土が焼ける臭いではない。腐った肉を無理やり炙ったような、吐き気を催す嫌な臭いだ。焦土の匂いと腐臭が入り混じり、レンドルは思わず喉の奥を引きつらせた。
「下がるな! 隊列を崩すな!」
ファルダの鋭い声が飛ぶ。エルフたちは即座に散らず、後衛を包むように位置を変えた。弓を持つ者が半歩下がり、剣や槍を持つ者が前へ出る。治癒魔法を使える者は中央に集められ、その周囲を他のエルフが護っていた。
炎の壁を前に、ネオネスの全身に銀色の薄膜が浮かび上がる。ネオネスはその場から一歩も動かず、ただ口だけが動いている。低く速い言葉が続く。だが、レンドルには何を言っているのか分からなかった。
炎の壁の奥から、銀狼の顔が覗く。ゆったりと突き進んでくる。
「母さんの時と同じだ。炎の壁を突き進んできた」
青き月の輝く湖面で、銀狼と母エルザは戦った。あの時と同じ炎の壁を、銀狼はいとも介していない。
バルザードがネオネスと銀狼を順に指さした。
「全身の銀膜が見えるか。防御魔法だ。魔法を通すには、あれを砕く必要がある」
「どうやって」
「物理的な攻撃で破るか、あの膜以上の魔力で無理やり通すかだ」
「でも今は魔法が撃てない」
「ネオネス以外は無理だ。銀狼の冷気の呪縛が強すぎる」
直後、地面が波打つ。生き物の背のように大地がうねり、盛り上がり、また沈む。レンドルの脳裏に、断腱のアドラスが見せた悪夢のような光景が蘇った。
「アドラスの棘の魔法と同じ波紋だ。規模が違う」
対する銀狼は、その場で前足を高く上げ、大地を踏み抜いた。轟音が耳を貫き、大地を奔る魔力の光が見えた。地中から無数の土の棘が噴き上がり、銀狼の頭上よりはるか高く舞い上がる。しかし、銀狼の周囲だけ棘が現れていない。そこだけ土の魔法を拒んでいるかのようだった。
空高くまで飛んだ棘が、次の瞬間には雨のように落ちてくる。
「伏せろ!」
ラドウィンの怒鳴り声と同時に、エルフたちが身を屈めた。レンドルも反射的に肩をすくめる。棘が地面に突き刺さるたび、土と枯葉が跳ね上がり、濡れた森の土の臭いが一気に広がった。
直後、炎の壁そのものを削るようにして、火球が次々と銀狼に叩き込まれる。その間にも、ネオネスの周囲には無数の氷槍が形成されていく。狙いを定めたかのように射出された槍群に対し、銀狼は横に跳び、そのまま森の闇へと滑り込んだ。
「そんなことができるのか!」
思わず呟きが漏れる。発現した炎の壁を媒介に、火球を撃つ魔法など見たことがなかった。闇の森の樹は燃えにくいと聞いたことがあったが、あの火球でさえ焦がす程度なのか。もし森が燃えて、冷気の呪縛が解けるなら、それもありかもしれないと邪な考えがよぎったが、同時に自分たちまで燃えてしまうなと、レンドルは心の中で自嘲した。
再び大地が盛り上がる。土塊が集まり、猿神に迫るほどの土人形がネオネスの横に立ち上がった。巨像は迷いなく銀狼の消えた闇へと向かっていく。
その時だった。森の奥から低い唸り声が重なり、腐臭が一気に濃くなった。双頭猿の群れが姿を現す。どれも、先ほどまで見てきた骸だと分かるほどに損傷していた。森の守護者たちは今、意志のないまま銀狼の闇の手によって前進を続けていた。
次の瞬間、森の奥から無数の土の礫が飛び、土人形がネオネスの盾になる。それを合図に銀狼が突っ込んできた。銀の残像が一直線に走る。土人形の振り下ろされた巨拳を紙一重でかわし、銀狼がその胴体を攻撃しようと踏み込んだ、その瞬間だった。
ドンッ、と空気が破裂する音が響いた。銀狼の巨体が横へ弾き飛ばされる。一方、土人形の胴体は二つに斬られ、崩れ落ちた。
バルザードが「いくぞ」と声をかけ、前衛の戦士たちが骸となった双頭猿を切り捨てていく。銀狼が吹き飛んだこの一瞬を逃さず、確実に敵の戦力を削ぎ落とす。
バルザードたちはすぐさま中央に戻り、再び前衛の壁を築く。
銀狼はしなやかに着地した。
そして再び歩み寄り、静かに足を止めた。
「銀狼に魔法が当たった……?」
「誘導だ」
バルザードの低い声が横から返る。
「アステリオが土人形を攻撃した瞬間に、風魔法を当てた」
唾を飲み込んだ。氷槍、土棘、火球……あれほどの手数をもってしても当たらなかった魔法を、今この場で当たるように調整したというのか。しかも味方が攻撃する時間を作るための「吹き飛ばし」だ。土人形を放置できないからこそ攻撃してくる。その習性すら利用し、ネオネスはあの一瞬を狙い撃ったのだ。
「エルフの魔法使いの到達点――最高評議会の七人。その全員を同時に相手にして、勝った男だ」
「ネオネスが、その人だと」
「そうだ。公式には認められていないがな。ネオネス以上の魔法使いを俺は知らん。――賢者だと、俺はそう思っている」
「ジークが言っていた――私が勝手に呼んでいるだけ、ってそういうことか」
ネオネスと銀狼の間には、絶妙な間合いがあった。遠ければ魔法は当たらない。近ければバルザードたち前衛が銀狼を攻撃する。だが、そもそも銀狼が近づくことさえできない。これが賢者の戦いか。
銀狼の碧眼が細まる。
『凄まじい魔法の発現速度だ。……貴様、本当に人か?』
その問いに、ネオネスは答えない。ただ銀の膜を纏ったまま静止している。
「バルザード、英雄譚に賢者は――ネオネスの名は出てこない。剣聖バルザードと共にいるのは名もなき雷の魔法使いだ」
気付けば、そんな言葉が口をついていた。
「雷の魔法を扱えるエルフは、長い歴史にもない。研究はあったが誰もできなかった。雷の神レイナダのみの領域だと。そしていつしか禁忌になった」
「――だが、雷の魔法で天竜を落としたのは事実だ。唯一の雷魔法の使い手がネオネスだ。あいつが歴史を終わらせた」
天竜が雷に撃たれ、空から落ちた――英雄譚の一章。レンドルも幼い頃、何度も聞いた話だった。
「天穹の神銀アルシェリオスを地に落とし、竜に称えられしはネオネス……」
「本当の話だったんだな」
「ネオネス本人が詩や本で広まるのを拒んでな。自分は英雄にはなれない。契約上できないと」
「契約……雷の神と?」
「さてな。本人がそれ以上話さないからな」
前方では、銀狼から伸びた闇の手が、頭を一つ失った猿神トリケルの死体へと繋がっていた。ぎちぎちと音を立て、死したはずの亜神が槍を手に立ち上がる。その瞳に光はなく、ただ深い闇が沈んでいた。
バルザードが指示を出す。エインズとシャリアス、数名のエルフの戦士が猿神の前へと走る。戦力が二手に分かれた状況。後衛の魔法戦士は、銀狼の冷気の呪縛によって魔法が撃てない。そして、バルザードがネオネスに歩み寄る。防御魔法を破る気なのだろう。
猿神の体に延びた闇の手に青色の光が見えた。その光が銀狼の体に取り込まれていく。
「レンドル! 猿神の星素を銀狼が取り込んでるわ!」
カルドラの叫び声。レンドルが振り向いたその直後、背後から双頭猿の一体が跳んだ。レンドルは踏み込み、それを剣で切り落とした。
囲まれている。一体どれほどの数がいるのか。もしここで殺されてしまえば、自分も、みんなも、あの猿たちの仲間になる。まるで死者に誘われているような、不気味な寒気が背筋を走った。
銀狼の体が銀色に輝く。
その周囲を、青い光がまとわりつくように奔った。
「カルドラ、銀狼の周りの青い光は――」
「魂と肉体を強く結びつければ、それだけで強靭な肉体になるの。魔法の威力も上がる。魔力に耐えられる肉体を作るのは星素の密度。……多分、私以上の星素の扱い。流れる魔力に、体に纏った星素が反応している。信じられないわ」
ネオネスの右手が、わずかに持ち上がる。
その指先に、青白い火花がほんの一瞬だけ散った。
同時に、銀狼の体にも一瞬、強く稲光が走った。
ネオネスの指先から雷撃が放たれる。
――同時に、銀狼も動いていた。
銀狼の体からも雷撃が放たれた。
二人の雷が正面から衝突した。
白い閃光が視界を焼く。
次の瞬間、空気そのものが裂ける轟音が爆ぜた。
天が鳴くような雷鳴が、レンドルの全身を突き抜ける。
「馬鹿な! 雷の魔法だと!!」
バルザードやエルフたちが叫び声を上げる。雷の魔法を使えるのがネオネスだけだと、たった今聞いたばかりだ。
それなのに――銀狼も同じように雷撃を放ったのだ。
前衛に並んだエルフとバルザードが巻き添えを食らわないように、少し距離を取った。
どよめきが沸く。ネオネスと銀狼の雷撃が終わる。
『お前が蜥蜴を空から落とした魔法だ』
銀狼が静かに言った。
『あの時、俺は見ていた』
碧眼が細まる。
『真似るなど――たやすいことよ』
亜神は戦いから学ぶと、知性があると、森に入った直後に聞いた。
レンドルは振り向き、後ろのラドウィンに問いかけた。
「魔法も戦いから学ぶ、そんなことがあるのか」
ラドウィンの顔は驚愕のまま固まっていた。
ずっと見ているわけにはいかない。次にどんな攻撃が来るのか分からない。
レンドルはすぐさま前を向いた。
「アステリオが異常すぎる」
背後からラドウィンの声が聞こえる。
その声には、まだ驚愕が残っていた。
ふと、銀狼が何かを嗅ぐような仕草を見せた。まるで何かを探しているように。そして何かに気が付いたように、森の奥へ首を向けた。火球が撃ち込まれた森とは別の方角。銀狼はネオネスを一瞥した後、深い森へと飛び込んだ。
ネオネスは銀狼が向かった先を凝視しているが、森は静まり返っていた。彼の周囲には、不測の事態に備え、すでにいくつもの氷槍が生成されている。
「なんだ、いなくなったぞ」
誰かが呟いた瞬間――
双頭猿の群れが森から溢れ出し、一斉にエルフたちへ襲いかかった。同時に、死せる猿神が巨大な槍を携え、地響きを立てて突撃してきた。




