第50話 闇の森――復讐の刻
合流したエルフたちを引き連れ、一行は闇の森を戻っていた。
咆哮は聞こえない。もう亜神たちの戦いは終わったのだろうか。
赤錆の沼の近くまで辿り着いたところで、バルザードが一度隊列を組み直させた。
固まって移動したいが、どうしても歩調がばらつき、列が間延びしてしまう。早く森を抜けたいのは山々だが、感覚的にはすでに深夜。休憩なしで進めるほど、一行の体力は残っていなかった。
「ちょっと待って。赤錆の沼へ続く、この大量の血の跡……」
ふと、周りを警戒していたファルダが皆の足を止めた。
沼の縁を見ると、あの巨躯を誇った沼蜥蜴の鱗が、無残に切断されているのが見つかった。
「トカゲさん、逃げたのかしら。あんなに硬そうな鱗なのに」
カルドラが不安げに呟く。ネオネスがその破片を銀瞳で見下ろした。
「アステリオの肩にある刃は、とてつもなく斬れる。おそらくそれだ」
「ミスリルでできているんじゃないか、そう思うほどだな」
バルザードの言葉に、ネオネスはふとファルダを振り返った。
「ファルダ、久しぶりに名前を付けてくれよ。その蜥蜴にな」
「そうね……赤錆の巨岩セラケモス、なんてどうかしら」
「よし、それだ」
亜神たちの争いを直接その目で見たバルザードが、重々しく頷いた。巨躯の主を「巨岩」と呼ぶ名を、気に入ったようだった。
その様子を見ていたレンドルが、ふと疑問を口にした。
「……もしかして、ファルダさんがアステリオたちの名付けを?」
ネオネスはファルダをちらりと見て、にやりと口元を歪めた。
「ファルダは言葉の神シーランに祝福されているんだ。評議員ですら、彼女が話し出せば口を紡ぐ。嫌われている奴がもう一人いたってことだな」
「ちょっと、どういうことよ」
聞き咎めたファルダが眉を吊り上げる。
「他にも彼女が名付けたものは多いんだ。天穹の神銀アルシェリオス。腐毒の蛇蛛エヴァン……」
「蛇蜘蛛は自分で名乗ってるじゃない」
「――英雄譚にでてくる天竜だ」
レンドルは、伝説と現実が交差する感覚に身震いした。
だが、その感慨を打ち消すようにして、ラドウィンが鼻を鳴らした。
「楽しくおしゃべりしてる場合じゃないぜ。匂いが変わった」
「猿か、狼か、……蜥蜴か?」
「……死の匂いが濃い」
「狼だな」
「今日は青い月が近いわ。大きく見える。……強く燃えるかもしれない」
カルドラが見上げた空には、不気味なほど巨大な月が森を照らし出していた。
「バルザードは戦える者を前に、ファルダ、後方をまとめてくれ」
二人はすぐに戦うための指示を出す。治癒魔法が使えるファルダを護らねば、戦闘は継続できない。カルドラもそうだ。レンドルは彼女らと一緒に静かに後方に下がろうとした。
「アステリオの闇魔法が厄介になるな」
ネオネスは、独り言のように呟いた。その声は優しいが、耳にすっと入る響きだった。
何度も戦ってきた。そう言っているのは確かだった。
「以前、俺はジークとともに銀狼と戦って、闇の手のようなもので攻撃された。それから、銀狼が分身して襲い掛かってきた。それが闇魔法ですか」
レンドルが足を止めネオネスに声をかけると、ネオネスは静かに答えた。
「そう、レンドルが見たのがそれだ。銀狼は、氷、土、風、そして――闇魔法を使う。他にも、影から影へ渡る移動術。そして加護か祝福か、それとも魔法か――死者を呼び動かす」
確かに夜を彷徨う骸はいる。生きているものを襲う異形。それを銀狼が生み出すとは信じられなかった。一体、どうやって?
「死ぬなよ、レンドル。お前も敵になる」
ラドウィンの警告が響く。
「だめだな、気が付いてる。こっちに向かってる」
ネオネスは「俺がいるからな、そうなるよな」と自嘲気味に笑った。
「ネオネスさん、銀狼と何があったんですか。……ジークも、あいつに追われていた」
その問いに、ネオネスの銀瞳が鋭さを増した。
「俺は奴の番を殺し、俺の妻ゼイナは殺された。……互いに復讐相手なのさ。どちらかが死ぬまで、それは続く」
レンドルはネオネスの落ち着いた声の中に、悲しみと怒りを感じた。自分の母親エルザも銀狼に殺された。同じだった。
「あいつはジークを……。コルタナ要塞で彼女と会ったとき、銀狼が現れて『その女をよこせ』と言っていた」
「ジークの魔力はゼイナに似ている。魔力の匂いを感じ取って執着したんだろう」
ネオネスはレンドルの話を聞き即座に断じた。その声には静かな怒りが滲んでいた。
「ゼイナが最後に放った氷槍は、今も凍てつく炎のように焼いているはずだ」
ふいに、あたりの空気が異様なほど冷たくなってきた。
青き月を背に、闇の森の向こうからゆっくりと這い寄る巨影が見える。何か巨大なものを地面に引きずっている。土を削り、草をなぎ倒す、鈍く重い不快な音。森はそれを避けるかのように見えた。
青き月の逆光に灼かれた影は、輪郭さえ曖昧で、ただ不気味な威圧感だけを撒き散らしていた。
やがて距離が縮まる。
森の闇から這い出た影が、青い月を受けて地面へ長く伸びた。
それは、一行のすぐ近くで止まった。
――銀狼、月闇のアステリオだ。
引きずられていたのは、先ほどまで森を震わせていた猿神の巨躯だった。三つある猿神の首の一つを、銀狼はくわえていた。
どれほどの時間が経ったのだろう。永遠のようにも、一瞬のようにも感じられた。その恐るべき姿からは片時も目が離せない。
――今なら、この距離なら、先手を打ってエルフたちが魔法を仕掛けられる。
レンドルがそう身構えた瞬間だった。ネオネスの隣に立つバルザードが、忌々しげに声を絞り出した。
「銀狼の領域だと魔力の練りが悪い。ネオネスの魔法が頼りだ」
まるで魔法が封じられているような言い方だった。何かある――そう思いレンドルは体の魔力を高めた。胸の奥で、魔力が熱を持つ。
――何もない。
ネオネスが一瞬こちらを見て、すぐさま銀狼に目を向けた。
「レンドルの魔力は炎の属性だからな。銀狼の冷気から影響を受けにくい」
銀狼の碧眼が冷酷な憎悪を湛え、ネオネスを捉える。
くわえた首にさらに力を込め、大きく首を振った。
――ばきり。
骨の砕ける嫌な音が、静まり返った森に冷たく響き渡った。
三つの頭のうち一つが引きちぎられ、ネオネスの足元へ放り投げられる。
『どこに逃げ回っていた、われらが森の侵略者――ネオネス、探したぞ』
地響きのような唸り声が脳内に直接響く。
「久しいな。サンガードにいたんだ」
『お前の娘も逃げ回るのが上手い』
「その氷の烙印のお陰だな」
ネオネスがはっきりと言い返すと、アステリオの碧眼が揺らいだ。深淵のような青を放つその瞳を見ると、全身が凍てつくようだ。そして一瞬だけバルザードに視線が動いた後、銀狼の口から冷気が漏れる。
『その猿の首ではだめだ。お前の首を墓標にそえねば――』
アステリオの言葉が途切れると同時に、足元の影が不自然に波打つ。
『――報われぬ』
刹那、無数の闇の触手が地面から噴き出し、エルフたちを襲った。




