第48話 闇の森――銀の瞳、紅蓮の瞳
三つ巴の咆哮が、遠い地鳴りとなって背後に遠ざかっていく。
一行は闇に紛れ、木の根が血管のように複雑に絡み合う急斜面を、縫うように進んだ。
道中、数体の双頭猿に遭遇したが、彼らはレンドルたちを襲うどころか、その姿を見た瞬間に蜘蛛の子を散らすように森の奥へと逃げ去っていった。
自分たちが強者に見えたのか、あるいは背後にいる亜神の追撃を恐れたのか。怯える魔物の背中に、レンドルはこの森の異常な食物連鎖を見た。
「……あれだけいた魔物が、殺されたか、逃げ隠れているのか」
ラドウィンが、絶えず漂う生々しい血の臭いに鼻を鳴らし、周囲を警戒しながら呟いた。その足取りは驚くほど軽快だ。
ファルダの治癒魔法が、あれほどの深手を瞬く間に塞いでしまったのだ。おそらく彼女は加護持ちだろう。高位の神官なら骨折すら治すと聞くが、それに匹敵するに違いない。返り血で汚れた革鎧を揺らし、平然と動くラドウィンの姿が、その神秘の何よりの証左だった。
「亜神たちが暴れまわっているおかげで、無駄な戦いをせずに済んだ」
バルザードがそう答え、隣を歩くカルドラに視線を向けた。
カルドラは胸に手を当て、安堵したように小さく息を吐いた。
無理もない、とレンドルは思う。戦い慣れた自分たちとは違うのだ。亜神の暴虐を目の当たりにして、彼女の細い肩はずっと強張っていた。
バルザードの落ち着いた声が、ようやく彼女の不安を解いたようだった。仲間の色ひとつ見逃さないその洞察力。ミスリル級冒険者の称号は、単なる武勇だけでなく、こうした器の大きさも含まれているに違いない。
「ここだ、着いたぞ」
ラドウィンが、崖の下に不気味に口を開けた小さな空洞の前で足を止めた。
彼は指一本を唇に当てて沈黙を促すと、まずは一人、吸い込まれるように闇の中へ様子を見に入った。
道なき闇の中、精霊の僅かな輝きだけを頼りに迷わず辿り着く。彼もまた、何かしらの加護を宿しているのだろう。
つかの間の沈黙が流れる。
遠くで巨木がへし折れる凄まじい音が響き、そのたびに森が小さく震えた。亜神たちの戦いは、未だ終わっていない。
やがて、闇の中からラドウィンが静かに姿を現した。彼は仲間にだけ通じる冒険者のハンドサインを送る。
一行は一人ずつ、音を殺して洞窟の中へと進んでいった。
レンドルが一歩踏み込むと、外の湿った熱気とは対照的な、ひんやりとした冷気が肌を刺した。
洞窟の奥から外に向かって、微かな風が流れている。奥はまた別の出口か、それとも深い地底へと繋がっているのか。
カルドラの持つ松明の炎が、岩壁に歪な巨大な影を落とす。
やがて岩陰の奥、小さな焚き火を囲んで身を潜めるエルフたちの姿が浮かび上がった。横たわって苦しげな呼吸を漏らす者は、火蜘蛛にやられたのだろう。
「――ネオネス。久しぶりだな。少し老けて見えるぞ」
バルザードの第一声に、エルフたちの先頭にいた男が、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「バルザードか。軽口が叩けるようなら、まだ足腰は丈夫そうだな」
松明の弱々しい光の下では、二人の表情を正しく読み取ることはできない。
だが、がっちりと握り合わされた手は、長い年月を経ても揺らぐことのない強固な信頼を物語っていた。
「いろいろと話したいことはあるが、まずは解毒薬だ」
「助かる。火蜘蛛に噛まれた仲間が何人かいたが、これだけあれば大丈夫だ」
ネオネスは受け取ったポーションを、手際よく仲間に渡した。
負傷者たちのもとへファルダやラドウィンが駆け寄り、手厚い治療を始める。
ネオネスとバルザードは、互いの無事を確かめるように短く言葉を交わしながら、岩場に腰を下ろした。
再会を喜んで抱き合い、あるいは安堵からすすり泣くエルフたちの声が、静かな洞窟に反響していた。
「エルフは、本当に仲間を思う気持ちが強いな」
その光景を見ていたレンドルが、隣のカルドラに囁いた。
「昔から、ずっとそうね」
「きっと、星の民もそうだったんだな」
「ええ。みんな優しくて……私は好きだったわ」
カルドラはそう答え、懐かしむように目を細めた。その瞳には、松明の火を反射する涙が滲んでいた。
バルザードの低い声が洞窟に響く。
「ネオネス。俺たちはお前たちの救助と、ジークの探索に来た」
「ジークが? ……今、この森にいるというのか」
「ああ。この冒険者から得た情報だ」
「……ジークは逃げ延びていたのか。嬉しい知らせだ」
「ラクロアンの外套を纏った者と一緒にいるようだ」
ネオネスの眉間に、深い皺が寄った。
彼は暗闇の中、灯りに揺れる大きな岩を指差した。
「……ちょうどその岩の陰に、ラクロアンの騎士がいる」
バルザードの視線を受け、レンドルは無言でカルドラから松明を受け取った。
示された岩の陰に回ると、そこには手を組んだ男が力なくもたれかかっている。足元には小型の丸盾ほどの蜘蛛が三匹、無残に転がっていた。
しばしの沈黙。エルフたちの囁きが壁に反響し、不気味に重なる。
「……死んでいるな」
レンドルの呟きに、ネオネスが沈痛な面持ちで首を振った。
「俺たちがここへ来た時には、すでに息がなかった。直後に火蜘蛛に襲われたのだ」
「火蜘蛛にやられたか。ということは、ジークはすでに洞窟を出た後か、それとも」
バルザードの問いに、ネオネスが奥の細い隙間を指差す。
「洞窟の奥はすぐに行き止まりだ。子供が通れるくらいの穴から風は出ているが、大人が通るには狭すぎる」
不気味な静寂の中、闇の奥から吹き抜ける風が妙に生暖かい。ジークがこの狭窄を通り抜けたとは考えにくいが、彼女はどこへ消えたのか。
ネオネスは目を閉じ、わずかに顔を上げた。その横顔は、遠い記憶を辿っているようにも見えた。
バルザードが外の惨状を伝える。
「外では亜神が暴れまわっている。洞窟に来る途中、銀狼と猿神を見た」
「巨大な沼蜥蜴もね。赤錆の沼の主かも、初めて見たわ」
ファルダが補足する。血の色で染まったかのような不気味な主の名に、レンドルは戦慄を覚えた。
「治癒も解毒も、間もなく終わるわ。ネオネス、すぐに出るんでしょう?」
ファルダは手を動かしたまま問いかけた。
ネオネスは静かに頷いた。
「そうしよう。銀狼がここを嗅ぎつける前にな」
「それって、猿神は……」
ラドウィンが不安げに聞き返すと、ネオネスが静かに首を振った。
「殺し合いになれば、最後に生き残るのは銀狼だ。あれは特別な存在だ」
「――やり合っている今こそが好機か」
レンドルが思わず口にすると、ネオネスが射抜くような眼差しで彼を静かに見据えた。
「その通りだ、赤髪のレンドル。サンルードの神殿以来だ」
「……お久しぶりです、ネオネスさん」
「ネオネスでいい。……黄金騎士を倒した英雄だ。街は大騒ぎだったが、その後は行方不明だとか、死んだとか――噂が飛び交っていた。生きていて何よりだ」
ネオネスはそこで一瞬、言葉を切った。こちらの表情から、何かを読み取ったようだった。
「黄金騎士を倒した後、ラクロアンのラクアに殺されました」
「……目の前にいるのはレンドルの亡霊か」
ネオネスの口元は緩んでいるが、その瞳は笑っていない。
「生き返ったんです。青い光の靄に包まれて、傷が塞がった」
「……夜を彷徨う骸には見えないな」
「死ぬ間際に、ジークとラクアに俺の加護を――奪われました」
洞窟の空気が、わずかに変質した。
ネオネスはしばらくレンドルを見つめたまま、ゆっくりと息を吐いた。
「バルザード、彼にはどこまで話している」
ネオネスの瞳は、常に銀瞳のままだった。魔力が高い者ほど、瞳にその力が滲むのだとバルザードから聞いたことがある。
アドラスとは、明らかに格が違う。
その双眸の魔力が、すべてを物語っていた。
レンドルを測るように、ネオネスの銀瞳が静かに揺らめいた。




