第47話 闇の森――亜神の宴
森に入った途端、空気が変わった。湿り気を含んだ冷気が肌にまとわりつく。鼻の奥に、粘りつくような臭いが刺さった。
――死の臭いだ。
光の精霊を森の奥へ向かわせると、やがて沼の入り口が浮かび上がった。そして淡い光の先に、次々と骸が現れる。
先頭を行くエルフの女性ファルダが、一体の死骸を指差した。
「森の悪食――トロールね。折れた槍が何本も刺さっている。薬草も果実もたくさん食べるから、お仕置きされたのね」
カルドラが小首を傾げる。
「森の食いしん坊さんは、欲張りだものね」
「お仕置きって、だれがするんだ」
レンドルが聞き返すと、ファルダは男勝りな口調で応えた。
「双頭猿よ。群れで行動する。人間の武器を真似て、槍を好んで使う。もし襲われたら、手持ちの槍を差し出せば見逃してくれる……なんて笑い話があるわ」
レンドルは自分たちの装備を見回した。剣、斧、そして弓を携えたカルドラ。
「……槍はないな」
自分でも驚くほど声が硬い。視界を埋め尽くす魔物の死骸に、レンドルの表情は強張っていた。
「私たちは救出作戦に来ているんだから。無理に戦う必要はないわ」
カルドラが微笑む。だが、バルザードはその横顔を静かに覗き込んだ。
「カルドラ、大丈夫か」
「……ええ。ちょっと驚いただけ」
そのやり取りを見て、レンドルははっとする。
カルドラはいつの間にか、自分のすぐ隣――袖が触れ合うほどの距離に立っていた。不安を押し隠した気配と、自分自身の強張った顔。
頭の隅で、錆びた盾と子羊亭の娘、ミーナの声が響いた。
――『冒険者なんだから、疲れていても元気のいい顔をしないと』
レンドルは深く息を吐き、意識的に肩の力を抜いた。頬の筋肉を緩める。不安を飲み込み、仲間の盾となる男の顔を作る。
「カルドラ。俺たちがそばにいる」
カルドラが一瞬目を見開く。
「ありがとう、レンドル。……気づくのがちょっと遅い」
睨むような視線。しかしすぐに、口元が緩む。その微笑みで、場の空気はわずかに落ち着いた。
ラドウィンが森の奥を警戒しながら付け加える。
「双頭猿は縄張りに忠実だ。一定の距離まで離れれば深追いはしてこない。だが、向かってくる相手には容赦がない。まともにやり合えば、何本もの槍で串刺しだ」
次の死骸が視界に入る。
「薬草集めもほどほどにするのが、この森の掟というわけだ」
「こっちは双頭猿が潰されている。苔が浮き、頭が砕けているな」
「沼蜥蜴ね。苔の下は硬い鱗。巨体で押し潰されたようね」
エルフたちが冷静に情報を拾い上げる。
その奥にある異常な傷跡に、レンドルは目を止めた。
「双頭猿も沼蜥蜴も、切られた跡がある」
沼蜥蜴の鉄板のような鱗も、猿の太い骨も、等しく一文字に両断されている。
バルザードが断面を一目見て、押し殺した声で言う。
「月闇のアステリオーー銀狼だ」
レンドルが息を飲む。
「魔力の扱いが非常に巧みな魔物だ。肩の突起は極めて鋭利だ。剣術のように武器を流す技も使う。幾重にも戦いを重ね、そのたびに生き残ってきた」
低く続ける。
「亜神は戦いから学ぶ」
「俺も戦ったことがある。……あいつは一体、何者なんですか?」
「俺たちがこの大陸に降り立ち、この森を開拓し始めたころだ。森の狼の群れを率い、何年も戦いが続いた。今は数を減らし、ほとんど見なくなったが、あの群れの頂にいたのが銀狼だ」
「初めて戦ったときから、すでに加護持ちの魔物だった。この地の北方にはガイナール帝国の遺跡があるだろう。ガイナール人が星溜まりとなり、狼がそれに触れた――その可能性を見ている」
バルザードが周囲を見回す。鋭い眼光でさえ、闇の森に飲み込まれそうだ。
「――おかしい。これだけ双頭猿が殺されているなら、猿神が出てこないはずがない」
「猿神?」
ラドウィンが応じる。
「双頭猿の長、猿神のトリケル。三つ頭の猿だ。こいつも加護持ち――亜神だ。片手で巨大な岩を投げる怪力だ。柱のような槍を正確に突いてくる。……昔は槍を振り回して樹々にぶつけていた。その隙に逃げた冒険者もいたらしい。だが今は違う。銀狼と同じく、戦いから学ぶ。一瞬の油断が、そのまま死につながる」
そして、群れの魔物である双頭猿が百を下らない数で転がっている。そのほとんどが、鋭利に切断されている。
その時だった。森の空気が爆ぜ、咆哮が闇を裂いた。
「――隠れろ!」
ラドウィンの合図で、一行は茂みに散った。
しばらくの沈黙。自分の呼吸だけが耳に残る。
やがて、金属音と魔力のゆがみが空気を震わせながら近づいてきた。
茂みを割って現れたのは、三つの頭を持つ猿神。その槍は怒りに震えている。対峙するは古の狼――銀狼。
『いぬが!! よくも仲間を殺してくれたな!』
『森は家族が眠る場所だ。墓荒らしの猿など、手向けにもならぬ!』
闇の触手が伸びる。槍が振り抜かれ、衝撃波が森をなぎ倒す。
その直後、エルフたちのすぐ目と鼻の先、苔むした岩と思っていた塊が音もなく跳ねる。
「なっ……目の前にいたのか!」
景色と完全に同化していた沼蜥蜴。巨体が銀狼へと叩きつけられ、巨樹が何本も折れる。
『オオカミ……サル……タベル……』
「――こいつも亜神か!」
沼の水が波となって猿神へ襲いかかる。
槍が突き立つ。苔が剥がれ落ちる。だが、鉄板のような鱗が受け流す。
丸太のような尾が唸る。
猿神はそれを片手で押さえ込み、両拳を振り上げた。
ドォォォン!!
衝撃が腹を打つ。
「命がいくらあっても足りん。洞窟へ行くぞ」
バルザードの断固とした声。一行は静かに戦場を迂回した。
背後で轟く咆哮と、腹に響く打撃音が、闇の森全体を揺らし続けていた。
その隣にいるカルドラの心音が聞こえそうなほど、レンドルの胸は激しく鳴っていた。




