第46話 闇の森――千の牙、張り詰めた弦
ダルトハットの西南に広がる『闇の森』は、夜を待たずとも深い。その広大な森は、エルフたち『始まりの開拓団』が数百年かけても、奥地には到達できなかった。
この大陸の半分以上は未開の地だ。古の魔物が棲み、誰の支配も受けない。しかし冒険者にとっては財産だった。ガイナール遺跡と同じく、生活の基盤であり、一攫千金の夢でもある。植物、薬草、鉱物、結晶、そして魔物の素材――レンドルが冒険者ギルドの掲示板で見た仕事の多くは、この森に関わるものだった。
救助隊一行は、エルフのラドウィンを先頭に、人目を避けるようにして境界へと足を踏み入れようとしていた。ダルトハットの外門は、先ほど大きな音とともに閉ざされている。侵入者も帰還者も拒む鋼鉄の壁だ。
冒険者は森の外で野営することもある。夜の森から戻れない日もある。そして次に門が開くのは朝だ。
振り返ったレンドルは、胸の奥にわずかな重みを覚えた。
――救い出せたとして、戻れるのか。
青き月が照らす街道は、青白く淡い光に包まれている。松明と、エルフたちが契約した光の精霊が道を示し、闇の森の手前までは順調に進めた。街道といえど安全ではない。盗賊も魔物も闇に紛れて現れる。遠くまで光が届くということは、危険を早く察知できるということだ。だからこそ、誰一人として気を緩めなかった。
緊張の理由はただひとつ。森に溢れているという、千の魔物だ。
カルドラは背の矢筒に手をやり、静かに本数を確かめた。指先で触れた矢は多くない。彼女はそれを外すと、何も言わずにバルザードへ差し出した。
バルザードは一瞬だけ彼女の目を見る。短く頷き、矢筒を受け取った。言葉は交わさない。ただ、そのまま自分の腰へと掛ける。
カルドラは強弓を握り直し、弦に指をかけた。ゆっくりと引く。
ぴん、と澄んだ音が夜気を震わせる。弦は張り詰め、緩みはない。
「カルドラ。レンドルが話していた孫娘の、ジークのことだ」
歩みを進めながら、バルザードが重い声を響かせる。
「闇の森にいると、事情は来る途中に聞いたわ」
「そうだ、そしてラクロアンの騎士と共にいる。護衛中の馬車でレンドルから聞いた――ラクアという男に操られている件だ。ジークを救出したら、操られている原因を調べ解放したい」
カルドラの視線が、少し後ろを歩くレンドルに流れた。
「そうね。それで私が呼ばれた」
レンドルは歩幅を早めて二人に並んだ。
「カルドラが呼ばれた理由って……?」
フードの影から端正な顔がのぞく。美しい青い目は、空に浮かぶ青き月のようだった。ただ、命を危険な森にさらしてまで来た理由が、レンドルには分からない。
「バルザードとは少し話したのだけれども。
ジークはおそらく魂を惑わす力――魅了をかけられている。
聖霊プラナスの祝福を、ラクアが受けているのよ」
「……たしか、幻惑の聖霊」
「そう、幻惑の聖霊プラナス。
プラナスの話は英雄譚にも出てくるでしょう?
かつてのガイナールの王もそうだった。
村の仲間は言われた通り、自分たちで首に縄をかけた。
命令に抗えない」
レンドルが息を呑む。
カルドラは前を見据えたまま続けた。
「私は直接聞いた。
ガイナール王自身の口から。
プラナスから祝福を得た。
人を魅了する力だと。
ひどいものだった。
……自分で命を絶つような光景を、私は見た。
それほど恐ろしい力だったわ」
弦から指を離す。だが弓は下ろさない。
カルドラはレンドルの方を向く。
「あなたの加護を奪う時も、ジークは涙を流しながら断った。
でも、ラクアの命令に彼女は抗えなかったのでしょう? 私を助けてくれた戦士や姫様は、強い意思で跳ねのけたけれど……きっと難しいわ」
「……俺も逆らえなかった。
『抜け』、その言葉に、自分の意思とは無関係に剣を抜いてしまったんだ」
雨音と泥と、金属の擦れる音が脳裏を掠めた。
あの夜、剣を抜いた瞬間の自分が、いまだに気持ち悪い。
握っていたのは確かに自分の手なのに、自分が自分じゃなかった。
レンドルは、あの雨の中の絶望を反芻し、拳を握りしめた。
そんなものがジークにかけられていると思うと、思い出すだけで気持ちが落ち着かなかった。
「おそらく星素に干渉して、魂を揺さぶっているのね。
星歌でラクアの星素を分離する」
バルザードは頷き「それができるのは、カルドラだけだ」と言った。
「――そうか、それで魅了を解くのか。
カルドラはすごいな」
「成功するかは分からない、けどやってみる価値はある、ね?」
カルドラは弓を肩にかけ、手を差し出す。
バルザードが矢筒を返す。
彼女はそれを背に戻し、静かに重みを受け止めた。
「ただ、今の闇の森はとても危険な状況だ。
すまない」
「そうね、私も彼女も生きていたらの話……。
私も死ぬわけにはいかない。
でも、バルザードに恩がある。
そして、レンドル……貴方にも。
だから、護ってね。
私もジークも」
バルザードとレンドルの腕を取り、彼女は二人を交互に見た。
「ちょっと魔物が溢れているだけ。
助けに行くだけだから、戦いは出来る限り避けていきたいわ、ね?」
にこりと笑うカルドラを見て、レンドルは心の底から信頼を覚えた。
先ほどまで、胸の奥に淀んでいた気持ちが嘘のように晴れていく。
「……カルドラ、それでも千の魔物がいる森にどうして来たんだ」
「だってレンドルが死んじゃったら、紹介状はどうするの? あなたが無茶をしないように監視しに来たに決まってるじゃない」
「確かにな」
バルザードが口を押さえて笑いをこらえている。
「無茶なことなんてしないよ」
「私が知っているだけでもね。
英雄騎士と一騎打ち、ルベリアの死神に命を懸けた勝負。
アドラスの魔法に逃げながら挑発を繰り返す。
私たちと出会う前はどうだったのかな?」
「え……ちょっと……」
「私が来た理由は、そういうこと。
でもレンドルはどうして? お姉さんに言ってごらんなさい」
「……その」
「その、なーにかな?」
バルザードが横を向いて震えている。
「あ! 路銀です、船代を稼がないとサンガードに行けません」
声に出した瞬間、胸の奥がひくりと動いた。
それは半分、本音だった。
けれど残り半分は、口に出せば自分の中の何かが決定的に形を持ってしまう気がして、飲み込んだ。
――あれ、俺はなんで、ジークをこんなに気にかけているんだ。
一度しか会っていない。
ほんの短い時間、言葉を交わしただけだ。
なのに、胸の奥が、放っておけと許さない。
理由が分からない。
分からないのに、ここにいる。
「そういうことにしておいてもいいけど、絶対に一人で飛び出たりしたらだめよ」
カルドラの青い瞳が細まる。
「君は一度死んでるんだからね」
その言葉に、レンドルの頭の中で、別の声が重なった。
ギスカールの、乾いた笑い混じりの忠告。
『自分が死なないとでも思ってるんじゃないか?』
死を恐れていないわけじゃない。
怖い。
なのに、なぜ足が止まらない。
もし彼女の姿を見つけたら。
もし、手の届く場所にいたなら。
仲間の位置を。
退路を。
矢の残りを。
本当に、見ていられるだろうか。
「そんなことしません……。
魔物の中に飛び込むなんて、それこそ死にます」
「……分かっています」
小さく付け加えた声は、わずかに硬かった。
目の前には大きな樹が立ち並ぶ。
風が頬を撫でる。
カルドラの背の弓は、静かに張られたままだった。
レンドルたちは互いの顔を見た。
そして、誰からともなく歩を進める。
闇は静かに口を開け、彼らを飲み込んだ。




