第39話 神聖帝国ヴォルテニアの血の契約
夜営地の喧騒から少し離れた荷馬車。
焚き火の残火が、ときおり小さく爆ぜる音が夜に残っていた。
レンドルは足を止め、息をひとつ整える。
天幕の中で聞いた言葉が、まだ耳の奥に残っている。
――祖母も、曾祖母も……ヴォルテニアに居ます。
カルドラの震えた声。
それを口にしたときの表情を、レンドルは思い出してしまう。
希望。
あの言葉には確かに、希望があった。
だが同時に、レンドルの胸の底では、別のものが沈んでいた。
ラクア。ブルード。暗殺。
――死んだはずの自分が聞いた会話。
火種は、もう燃えている。
荷馬車に近づくと、御者台に腰を下ろしていたギスカールが顔を上げた。
包帯の巻かれた腕で鍋を寄せ、火を起こし直している。
「……随分と、話し込んでたようだな。今スープを温め直す」
柄杓で鍋をかき混ぜるたび、湯気がふわりと立ち上がり、香草と塩の匂いが夜気に溶けた。
レンドルは荷台へ這い上がり、向かいに腰を下ろす。
「遅くなって済まない」
「気にするな。今日はもう遅い。飲んで寝るとしよう」
木椀が差し出される。
レンドルは受け取ったが、口をつけずに膝の上に置いた。
ギスカールの視線が、椀とレンドルの顔を行き来する。
言いたいことがある顔だ、と見抜いている。
「……食べながらでいい、ギスカール。
シャルフ隊長との勝負の報酬の話だ」
ギスカールの手が止まる。
次の瞬間、口の端がわずかに上がった。
「報酬か……そいつはうれしい話だ」
理解の提示。
「しかしな、お前に金がないことくらい、俺が一番知ってる。
依頼もまだ受けてない新米の冒険者だ」
口の端がわずかに上がる。
「水袋代はまだ貸しだ」
肩をすくめる。
レンドルは、息を吐いた。
笑うほどではない。だが、硬直していた胸がわずかに緩む。
「……金になる話かは分からない」
その声音に、ギスカールの目が細くなった。
火の明かりが瞳に映る。
笑いは残っているが、軽くはない。
鍋をかき混ぜる手は止まらない。
だが、意識は完全にレンドルへ向いている。
椀にスープを注ぎながら、ただ待つ。
ギスカールは椀を二つ並べ、スープを注いだ。
湯気が椀の縁から立つ。熱が、指先に伝わる。
「……バルザードに関わる話、なのか」
「サンガード皇国のことだ」
焚き火が爆ぜる音が、一段大きく聞こえた。
ギスカールは黙って椀を押しやった。
「なんだか聞くのが怖いぜ……まずは飲め。冷える」
レンドルは熱いスープを喉へ流し込む。
――俺は、まだ生きている。
死んだときの感触が、まだ体の奥に冷たく残っている。
それでも、腹に流れた熱が、生きていると教えてくれた。
椀を置いた。
「話す前に」
レンドルはまっすぐ言う。
「……ギスカール。助かった。ありがとう」
ギスカールは火を見つめたまま、何も言わない。
助からなかった、ギオルドのことがある。
言葉を選んでいる沈黙。
だから、レンドルは続けた。
「俺が……死んで倒れていたことは、話したよな」
「……聞いたな」
「そのとき、ラクアとブルード侯爵が話していた」
ギスカールの視線が動く。
「ブルード……ウィンダス侯爵のことか」
「そうだ」
レンドルは一度、目を閉じた。
動かない身体。
耳だけが拾っていた声。
「グリフォート団長たちが氷漬けにされたとき、ブルードは暗殺に加わるふりをして離れた」
言いながら、胸の奥が重くなる。
ブルード。
教練場で学ぶ相手として、尊敬していた。
――ブルードはいったい何者なのだろう。
なんでラクアとつながっている。
レンドルは続きを吐き出す。
「最初から、暗殺のことをラクアに伝えていた」
ギスカールが低く息を吐いた。
「……内通者」
それだけ言い、火に小枝を放り込む。
レンドルは言葉を切り、要点だけを並べた。
「二人は、こう言っていた」
記憶を掘り起こし、順に置いていく。
「ラクアが言った。『暗殺を止めたほうがよかったのでは』」
言葉を口にした瞬間、背筋が冷える。
「『事前にバレている』」
――漏らしたのは、ブルード侯爵。
「ブルードが言った。『皇太子には手を出すな。約束を守れ』」
ギスカールの指が、顎から頬へ滑って止まる。
「そしてラクアが言った。『ヴォルテニア王の正統後継者だからな』」
レンドルは椀を強く握り込んでいた。
指先に力が入り、節が白く浮き上がっている。
気づいて、ゆっくりと力を抜いた。
「俺が死ねば、この話も消える」
視線を上げる。
「これが報酬だ。扱うかどうかは任せる」
ギスカールは、すぐには口を開かなかった。
一口飲み、火を見つめる。
「……なるほどな」
レンドルは続ける。
「この会話が何を意味するのか。俺には分からない」
ギスカールは顎に手を当てたまま、視線を落とす。
「……話しながら整理する」
火に枝をくべる。
小さな炎が、ふっと息を吹き返す。
「ラクアについては、詳しくは知らん」
「ブルードは、サンルードの従者だった。
建国時からサンブラントに仕えた。
頭も切れるし、腕も立つ。
加護持ちだ。
当然ヴォルテニアの出だ」
「……あぁ」
レンドルはそこで、胸に引っかかっていた疑問を口にした。
「そもそも、なんでサンルードやブルードはこの大陸に来たんだ」
ギスカールは苦笑した。
若いな、とでも言いたげな顔だ。
「剣は凄腕だが、歴史を知らん奴は足元を掬われる」
レンドルは視線を落とす。
「……母さんが死んで、一年は何もできなかった」
言い訳に聞こえるのが嫌で、そこで言葉を止める。
だが事実だった。
あの一年は、剣だけを振っていた。
何も入ってこなかった。
そういえば――銀髪のエルフ、ジークにも同じことを言われた。
あのときも、何も言い返せなかった。
「……そうか。なら、簡単に話す」
火に枝をくべ、影を濃くする。
「昔、ヴォルテニアに一人のエルフが流れ着いた。始まりの開拓団の一人が難破して保護された」
「その礼として、当時の王に言った。――ダイナレスト大陸には世界樹があり、万病に効く果実がなる」
「それを聞いた王は、まず確かめるために船団を組んだ。奪うためではない」
ギスカールは、火を見つめたまま続ける。
「少なくとも、最初はな」
その一言が、妙に刺さる。
「最初はな。ちゃんと交渉して、果実を分けてもらった。
当時のエルフは、比較的融和的だった」
「だが魔物に苦戦した。もっと人手が要る」
火が揺れる。
「そこで王位継承権を持つ者も渡ってきた。
加護持ちじゃないと候補者にはなれない、そういう仕組みだ」
「継承権って、年齢順じゃないのか」
「有能と認められた奴が王になる。要職にも就ける、そういう国だ」
レンドルは目を細めた。
「ギスカール、くわしいな」
ギスカールは鼻で笑う。
「俺もヴォルテニアに数年いたからな。移民船団で、この大陸に渡ってきた」
「……そうだったのか」
ギスカールは話を戻す。
「だから継承権持ちは成果を求める。功績が欲しい」
「……サンルードも、その一人だった」
「そうなるな」
レンドルは黙る。
点が線になる感覚。
「ブルードは『皇太子には手を出すな』と言ったんだな」
「あぁ」
「それは約束じゃない。契約だ」
「契約……なんのだ?」
「王家の契約だ。血筋ごと縛る」
火を指す。
「成人になるまで王位継承者の候補に、手を出せなくする仕組みがある。
破れば雷の裁きだ」
「本人だけ……じゃない?」
「関わった者も巻き込まれる、と聞く」
焚き火が、ぱちりと爆ぜる。
「ラクアがそれを知っているなら、王家に近い存在かもしれないな」
レンドルは喉が渇くのを感じた。
「『正統後継者だからな』……ラクア自身がそうだから守る、って意味なんじゃ」
「皇太子を指してる言葉じゃない可能性か」
ギスカールはゆっくり頷く。
「筋は通る」
レンドルは続ける。
「そういえば、皇太子はラクアの子だと、グリフォート団長は言っていた」
ギスカールの動きが止まった。
火を見ていた目が、ゆっくりとレンドルへ向く。
「……なんだ、それは」
低い声だった。
ギスカールの眉間にしわが寄った。
焚き火が、ぱちりと爆ぜる。
王家の争いが、この大陸に流れ込んでいる。
その渦の縁に、レンドルは立っている。
青き月が、幌の隙間から静かに覗いていた。




