第33話 断腱のアドラス
夕刻だった。
森はすでに光を失い始めている。
日は沈みきってはいないが、木々の影が幾重にも重なり、視界は急速に悪くなっていた。
「……嫌な予感がする」
ルテウスが、ぽつりと呟いた。
「冒険者の勘ってやつだな」
ギスカールが、肩をすくめる。
「アドラス、俺たちの前に現れるんじゃないか」
「剣聖が、自分たちで始末をすると言っていたからな。大丈夫だろ」
そう答えたのは、レンドルだった。
「これだけ長い隊列だ。
もし戦うことになったら……」
ルテウスが、視線を荷馬車の列へ向ける。
「ルルオルフが戦うだろう。
俺は戦わない。荷馬車を守る」
レンドルは、即座に言った。
「あの黄金騎士の弟子か」
ギスカールが、低く言う。
「加護持ちだし、強いと思う。
もし来たら、バルザードが来るまで、
槍を投げたり、短剣を投げたりして時間を稼ごう」
「あ、剣聖にもらった短剣、腰に差したのか。
魔法の短剣だろ」
ギオルドが、レンドルの腰を見て言った。
「魔力操作の練習用だよ。
魔力を込めると、狙ったところに勝手に飛んでいく」
「すごいな……相当、値が張るぞ」
ルテウスが、感心したように言った。
そのときだった。
先鋒から、切迫した声が飛んできた。
「――倒木だ!
この先、道が塞がれている!」
狩人の報告を受け、隊列が止まる。
湿った土の匂いが、鼻を突いた。
それに混じって――血と、獣脂が焦げたような、嫌な臭い。
「……嫌な予感、というか」
ルテウスが鼻を押さえる。
「泥臭くて、嫌なにおいだな」
商人たちが馬車から降り、倒木の様子を確かめに前へ出ていた。
レンドルたちの馬車からもギスカールが下り、その輪に加わる。
誰かが、ためらいがちに言った。
「……引き返したほうがいいんじゃないか?」
だが、近くまで集まってきていた商隊のリーダーたちは、揃って首を振った。
「いや――ここでだ」
低く、はっきりとした声だった。
「こういう状況になったら、アドラスと戦う手はずだ」
その言葉が終わる前に、
騎士や兵士たちへ指示が飛ぶ。
前に出る者。
盾を構える者。
後方で間合いを取る者。
隊長シャルフ一人の指示ではない。
それぞれ戦術指揮を任された騎士たちが、自分の持ち場で声を張り、
隊列は一瞬で、戦闘の形へと変わっていった。
「中央は固めろ。
後方は退路を確保だ」
「弓兵、木立を警戒しろ!」
次の瞬間だった。
中央部隊の左右から、同時に攻撃が走った。
「挟み撃ちだ!」
「土魔法の使い手がいる!」
地面が盛り上がり、土塊が弾ける。
それに反応し、バルザードが動いた。
術者の気配へ向かい、迷いなく森の奥へ消える。
「後方、下がれ!
道を作れ!」
後方隊が下がり、
中央が防衛線を張る。
先鋒隊が左右に展開し、盗賊たちを押し返す。
その混乱の中――
倒木の向こうから、一人の男が姿を現した。
灰色の外套。
使い込まれた革鎧。
鎧の隙間からのぞく、日に焼けた肌。
剣は実用一点張りで、飾り気がない。
ぬかるんだ地面を、まるで気にも留めずに歩いてくる。
「……さっさと済ませるか」
独り言のような声だった。
だが、その口調には緊張も警戒もない。
「待て!」
声を張り上げたのは、ルルオルフだった。
「貴様がアドラスだな!
俺は黄金騎士の弟子、ルルオルフ・オルビルだ!」
ルルオルフは槍の石突きを地に打ちつけ、胸を張って叫ぶ。
「貴様を屠る名だ。覚えておけ!」
男は、しばらく黙っていた。
それから、口元を歪める。
「俺を殺すのに、
お前の名前を覚えていろ、か」
一歩、近づく。
「くっくっ……」
喉を鳴らし、心底おかしそうに笑った。
「本当に、人族はおもしろいな」
「なっ……俺を愚弄する気か!」
「いやいや、すまんすまん」
男は、軽く手を振る。
「えっと……ルル……なんだっけ。
わざわざ名乗るってことは、強いのか?」
「貴様より強いぞ」
「そうかそうか」
男は、気楽な調子で剣を抜いた。
「俺は、アドラス・アズ=シルヴァン。
ほら、名乗ったぞ」
剣先を地に向ける。
「魔法は使わん。
人族の遊びに、付き合ってやる。来い」
「いい度胸だ」
ルルオルフは口元を歪めた。
「……昨日の死神とは、大違いだな」
アドラスの視線が、こちら――レンドルを捉えた。
次の瞬間――
魔力が一気に膨れ上がる。
ルルオルフは地を蹴った。
獣の咆哮のような雄叫びを上げて。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
パン!と空気を切り裂く突きを繰り出す。
アドラスは喉元に迫った突きをかわすと、
ぬかるみの深い場所へと素早く移動した。
アドラスの表情が、一瞬だけ強張った。
少し距離があったおかげで、かろうじて避けられたのだ。
「危なかった――凄い突きだ」
「ふん、遊びで済むはずがなかろうに。
いくぞ」
そして大きく円を描く薙ぎ払い。
小さなステップだが、相手の逃げ道を確実に追い込む動き。
交わす方向に踏み込み、連続した突き。
ルルオルフの槍が唸る。
それを剣で捌き、体術でかわす。
アドラスもまた、相当の使い手だと、誰もが悟った。
だが――
――ガキン。
ルルオルフの右脚に、凄まじい衝撃が走る。
「……ぐはっ!」
視界が揺れ、前のめりに倒れ、顔面を地面に打ち付けた。
起き上がろうとしても、脚が動かない。
ぬかるみに仕掛けられていた狩猟用の罠。
鋼の歯が、腱を正確に断ち切っていた。
アドラスは、楽しげに言った。
「俺が、なんて呼ばれてるか知っているか?」
動けないルルオルフを見下ろす。
「断腱のアドラスだ」
剣を構えたまま、肩をすくめる。
「どうやって腱を切ってるか――
もう、自分で分かっただろ?」
ルルオルフの目に、
アドラスの瞳が、銀色に揺れるのが映った。
魔力が集まっている。
――嘘だった。
アドラスは、最初からそのつもりで、
魔法を唱え始めていた。




