表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
25/38

第23話 水袋の対価、買われた長剣

 どれほど歩いたのか、レンドルには分からなかった。


 要塞を離れるころには、霧のような湿り気だけが空気に残っていた。


 街道へ出ると、舗装された石の隙間に水たまりができている。

 (わだち)の跡が幾筋も並び、遠くの森は、濡れた葉の匂いを吐き出していた。


 しばらく歩いたところで、前方から馬車が来るのが見えた。


 幌付き(ほろつき)の荷馬車が一台。

 馬は二頭。

 御者台(ぎょしゃだい)の男は雨避けの帽子を深くかぶり、手綱を操りながら、歌とも独り言ともつかない声を漏らしている。


 馬車が近づくにつれ、男はレンドルの姿に気づいたらしく、手綱を引いて速度を落とした。

 御者台から声がかかり、荷台の中から、整えた髭の男が顔を出す。

 さらにもう一人、短槍(たんそう)を携えた男が、音もなく御者台に立った。


「おい、あんた……大丈夫か?」


 髭の男は商人だった。

 声には警戒よりも、まず驚きが混じっている。


 鎧は泥まみれで、剣を携え、傷だらけの男が街道に立っていれば、誰でも同じ反応をする。


 レンドルは口を開いたが、言葉が出なかった。

 喉が乾き、舌がうまく動かない。


 商人は馬車から半身を乗り出す。


「その格好……兵士か。

 要塞の方から来たのか。

 いや、待て、まだあっちは……」


 言葉を切り、商人は周囲を見回した。

 追っ手がいるのではないか――そんな目だった。


 だが街道は静かだ。

 風に揺れる枝の音と、馬の鼻息だけが響いている。


「……俺は、ルベリアへ向かうところだ。

 商いでな」


 商人はレンドルの剣に視線を落としたが、口調を荒げなかった。

 そこには、諦めに似た疲労が滲んでいた。


「ルベリアに……?」


 レンドルの声は掠れていた。

 久しぶりに聞く、自分の声のように感じられた。


「そうだ。

 今は――あっちの方が安全だ」


 ため息のように、商人は言った。


「サンガードで内戦が起きた。

 俺もギリギリで抜けてきた口だ。

 王都の門が閉まった、なんて話まで出てる」


 レンドルの指が、無意識に剣の柄を握り直した。


「柄から手を放せ」


 短槍の男が、レンドルを制するようにすぐさま構えた。


「ギスカールの旦那、下がってな」


 低い声が割って入る。


 短槍を携えた男が、構えたまま地面に降り立った。

 視線は鋭く、今にも突き出せる距離を保っている。


「そいつはサンガードの騎士だ。

 構わない方がいい」


「内戦……」


 呟くように言ったレンドルに、商人が応える。


「誰が誰を討ってるかなんて、俺には分からん。

 だが、上の連中が揉め始めたら、下が無事で済むわけがない」


 商人は口の端を歪めた。


「だから逃げる。

 俺は商人だ。

 戦は買わない」


 商人は一度、レンドルの胸元を見た。


「……その紋章。

 ブレイズ家のものだな」


 レンドルの視線が上がる。


「昔、魔物に襲われたとき、ブレイズ家の騎士に助けられた。

 顔は忘れん。

 髪色は違うが、間違いなく似ている。

 ……あんた、息子か? 親父の名前は?」


「ファレン・ブレイズは、俺の父だ」


 レンドルは短く息を整えた。


「俺はレンドル。

 サンガードの、兵士だ。

 正直に言えば――水を分けてほしい」


 短槍の男が一瞬だけ商人を見る。

 商人は深く頷いた。


 次の瞬間、水袋が投げられた。


 受け取り、レンドルはぐいと飲んだ。

 冷たい水が喉を通り、ようやく呼吸が戻る。


「コルタナ要塞で戦った後、ラクロアンと戦闘があった。

 王都へ戻りたくて……なぜ内戦が――」


 短槍の男が、情報交換とばかりに口を開いた。


「それだけじゃない。

 ラクロアンでも戦が起きた」


 レンドルの胸の奥が、冷たくなる。


「ラクロアンでも? ついさっきまで……」


「小国が割れた。

 いや、割らされたのかもな。

 ヴォルテニアの大船団が到着した」


 その言葉は、雨の残り香よりも重く落ちた。


 ――ヴォルテニア。


 母の故郷。

 太陽の神ベギラダを信仰する、海の向こうの神聖帝国。

 聖人サンルードを送り出した国。


 船団を動かす力を持つ強国。

 その戦争の匂いが、海を渡ってきた。


 商人は、声を少し落として続ける。


「俺たちは、水都(すいと)アクアラグナから来た。

 ――商人仲間からの情報だ。

 連中はもう、ルベリアへ向かっている」


「分かっているのは、ラクロアンの小国が手引きしたらしいってことだ。

 港を開け、道を教えた。

 金か、約束か、脅しか……どれでもいい。

 結果は同じだ。

 あの辺りは、もう火が点いてる」


 レンドルは、何も言えなかった。


 商人は顎で街道の先を示す。


「だから今は、ルベリアが安全だ。

 今のところ、戦はあっちじゃ起きてない。

 人も多い、兵もいる、城壁もある」


 一拍置いて、言い切る。


「……生き延びたいなら、そこだ」


 慰めではなかった。

 優しさでもない。

 ただの現実だった。


 馬が小さく嘶いた。


 レンドルは街道の先を見た。

 霧の向こうに、地平がある。

 あの先に国境があり、ルベリアがある。


 自分が倒した敵がいた国。

 自分が殺した者たちが眠る国。


「……レンドル、乗るか?」


 商人は急かさない。

 押しつけもしない。

 ただ荷台の端を、軽く叩いた。


 レンドルは一度、剣の刃を見た。


 雨粒が刃の上で光っている。

 青い光ではない。

 母の光でもない。


 ただの、空の光だ。


 最後の祝福は、もう終わった。


 それでも、足は動く。


「待て」


 短槍の男が言った。


「剣は振れるんだな。

 血だらけだが、傷はどうなっている」


「襲われれば、戦う」


「お前がいた要塞の後だ。

 要塞から引き返して、弔いもしていないと聞く。

 夜を彷徨う死者(アンデッド)が生まれてもおかしくない。

 道中に魔物が出れば、逃げ場はないぞ」


 レンドルは黙って頷き、柄を軽く叩き、荷台に手をかけた。


 鎧がきしみ、泥が落ちる。

 体を引き上げると、乾ききらない木材と、荷の布の匂いが鼻をかすめた。

 生き物の匂いだ。


 商人が合図を送り、御者が手綱を引く。

 馬車はゆっくりと動き出した。


「俺はギスカールだ。

 御者は弟のギオルド。

 そっちの槍持ちは、護衛のルテウス」


「乗せてもらって助かった。

 水代の分は働く」


 車輪が水たまりを割り、街道に細い筋を引いた。


 レンドルは荷台の縁に腰を下ろし、背中を幌に預ける。


 雨は、まだ空の奥で降り続けているのかもしれない。


 だが街道は、確かに先へ伸びていた。


 ルベリアへ。

 安全だと言われた場所へ。

 ――ただ、生きるために。


 レンドルは目を閉じた。


 抱きしめる腕はない。

 代わりに、剣の重さが膝の上にある。


 それだけが、今の自分に残された現実だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ