第23話 水袋の対価、買われた長剣
どれほど歩いたのか、レンドルには分からなかった。
要塞を離れるころには、霧のような湿り気だけが空気に残っていた。
街道へ出ると、舗装された石の隙間に水たまりができている。
轍の跡が幾筋も並び、遠くの森は、濡れた葉の匂いを吐き出していた。
しばらく歩いたところで、前方から馬車が来るのが見えた。
幌付きの荷馬車が一台。
馬は二頭。
御者台の男は雨避けの帽子を深くかぶり、手綱を操りながら、歌とも独り言ともつかない声を漏らしている。
馬車が近づくにつれ、男はレンドルの姿に気づいたらしく、手綱を引いて速度を落とした。
御者台から声がかかり、荷台の中から、整えた髭の男が顔を出す。
さらにもう一人、短槍を携えた男が、音もなく御者台に立った。
「おい、あんた……大丈夫か?」
髭の男は商人だった。
声には警戒よりも、まず驚きが混じっている。
鎧は泥まみれで、剣を携え、傷だらけの男が街道に立っていれば、誰でも同じ反応をする。
レンドルは口を開いたが、言葉が出なかった。
喉が乾き、舌がうまく動かない。
商人は馬車から半身を乗り出す。
「その格好……兵士か。
要塞の方から来たのか。
いや、待て、まだあっちは……」
言葉を切り、商人は周囲を見回した。
追っ手がいるのではないか――そんな目だった。
だが街道は静かだ。
風に揺れる枝の音と、馬の鼻息だけが響いている。
「……俺は、ルベリアへ向かうところだ。
商いでな」
商人はレンドルの剣に視線を落としたが、口調を荒げなかった。
そこには、諦めに似た疲労が滲んでいた。
「ルベリアに……?」
レンドルの声は掠れていた。
久しぶりに聞く、自分の声のように感じられた。
「そうだ。
今は――あっちの方が安全だ」
ため息のように、商人は言った。
「サンガードで内戦が起きた。
俺もギリギリで抜けてきた口だ。
王都の門が閉まった、なんて話まで出てる」
レンドルの指が、無意識に剣の柄を握り直した。
「柄から手を放せ」
短槍の男が、レンドルを制するようにすぐさま構えた。
「ギスカールの旦那、下がってな」
低い声が割って入る。
短槍を携えた男が、構えたまま地面に降り立った。
視線は鋭く、今にも突き出せる距離を保っている。
「そいつはサンガードの騎士だ。
構わない方がいい」
「内戦……」
呟くように言ったレンドルに、商人が応える。
「誰が誰を討ってるかなんて、俺には分からん。
だが、上の連中が揉め始めたら、下が無事で済むわけがない」
商人は口の端を歪めた。
「だから逃げる。
俺は商人だ。
戦は買わない」
商人は一度、レンドルの胸元を見た。
「……その紋章。
ブレイズ家のものだな」
レンドルの視線が上がる。
「昔、魔物に襲われたとき、ブレイズ家の騎士に助けられた。
顔は忘れん。
髪色は違うが、間違いなく似ている。
……あんた、息子か? 親父の名前は?」
「ファレン・ブレイズは、俺の父だ」
レンドルは短く息を整えた。
「俺はレンドル。
サンガードの、兵士だ。
正直に言えば――水を分けてほしい」
短槍の男が一瞬だけ商人を見る。
商人は深く頷いた。
次の瞬間、水袋が投げられた。
受け取り、レンドルはぐいと飲んだ。
冷たい水が喉を通り、ようやく呼吸が戻る。
「コルタナ要塞で戦った後、ラクロアンと戦闘があった。
王都へ戻りたくて……なぜ内戦が――」
短槍の男が、情報交換とばかりに口を開いた。
「それだけじゃない。
ラクロアンでも戦が起きた」
レンドルの胸の奥が、冷たくなる。
「ラクロアンでも? ついさっきまで……」
「小国が割れた。
いや、割らされたのかもな。
ヴォルテニアの大船団が到着した」
その言葉は、雨の残り香よりも重く落ちた。
――ヴォルテニア。
母の故郷。
太陽の神ベギラダを信仰する、海の向こうの神聖帝国。
聖人サンルードを送り出した国。
船団を動かす力を持つ強国。
その戦争の匂いが、海を渡ってきた。
商人は、声を少し落として続ける。
「俺たちは、水都アクアラグナから来た。
――商人仲間からの情報だ。
連中はもう、ルベリアへ向かっている」
「分かっているのは、ラクロアンの小国が手引きしたらしいってことだ。
港を開け、道を教えた。
金か、約束か、脅しか……どれでもいい。
結果は同じだ。
あの辺りは、もう火が点いてる」
レンドルは、何も言えなかった。
商人は顎で街道の先を示す。
「だから今は、ルベリアが安全だ。
今のところ、戦はあっちじゃ起きてない。
人も多い、兵もいる、城壁もある」
一拍置いて、言い切る。
「……生き延びたいなら、そこだ」
慰めではなかった。
優しさでもない。
ただの現実だった。
馬が小さく嘶いた。
レンドルは街道の先を見た。
霧の向こうに、地平がある。
あの先に国境があり、ルベリアがある。
自分が倒した敵がいた国。
自分が殺した者たちが眠る国。
「……レンドル、乗るか?」
商人は急かさない。
押しつけもしない。
ただ荷台の端を、軽く叩いた。
レンドルは一度、剣の刃を見た。
雨粒が刃の上で光っている。
青い光ではない。
母の光でもない。
ただの、空の光だ。
最後の祝福は、もう終わった。
それでも、足は動く。
「待て」
短槍の男が言った。
「剣は振れるんだな。
血だらけだが、傷はどうなっている」
「襲われれば、戦う」
「お前がいた要塞の後だ。
要塞から引き返して、弔いもしていないと聞く。
夜を彷徨う死者が生まれてもおかしくない。
道中に魔物が出れば、逃げ場はないぞ」
レンドルは黙って頷き、柄を軽く叩き、荷台に手をかけた。
鎧がきしみ、泥が落ちる。
体を引き上げると、乾ききらない木材と、荷の布の匂いが鼻をかすめた。
生き物の匂いだ。
商人が合図を送り、御者が手綱を引く。
馬車はゆっくりと動き出した。
「俺はギスカールだ。
御者は弟のギオルド。
そっちの槍持ちは、護衛のルテウス」
「乗せてもらって助かった。
水代の分は働く」
車輪が水たまりを割り、街道に細い筋を引いた。
レンドルは荷台の縁に腰を下ろし、背中を幌に預ける。
雨は、まだ空の奥で降り続けているのかもしれない。
だが街道は、確かに先へ伸びていた。
ルベリアへ。
安全だと言われた場所へ。
――ただ、生きるために。
レンドルは目を閉じた。
抱きしめる腕はない。
代わりに、剣の重さが膝の上にある。
それだけが、今の自分に残された現実だった。




