第22話 最後の祝福
うっすらと、雨が降っていた。
要塞の石壁を叩く雨は細く、途切れず、世界そのものを冷やし続けているようだった。
崩れた木柵の向こうには、戦の痕がまだ生々しく残っている。
泥に沈んだ盾。折れた槍。濡れて黒ずんだ血の跡。
レンドルは、仰向けに倒れたまま、空を見ていた。
――生きている。
それを理解するまで、しばらく時間が必要だった。
胸が、上下している。
雨が頬を流れ、冷たいのに、指先にはかすかな温もりが残っている。
そして、
身体の表面に、青い光が纏わりついていた。
光は炎のように揺れない。
水のように、滴りもしない。
ただ、薄い布のように、肌と鎧の隙間にそっと沿い、呼吸と同じリズムで、静かに明滅していた。
抱きしめられている。
そう思った。
――あぁ、分かる。
懐かしい、この感覚。
体を包む温度も、胸の奥に落ち着いていく静けさも、記憶の底に沈んでいたものと同じだ。
母さんだ。
サンルードの加護は、もうない。
ラクアに奪われた。
――エルフの少女、ジークが泣きながら、謝っていた。
はっきりと覚えている。
加護はない。
だが、体の内側を流れる魔力の気配だけは、感じ取れた。
魔力操作そのものは、感覚として、まだ残されていた。
そう思った瞬間、喉の奥が、きゅっと縮んだ。
誰かの腕の重さではない。
匂いでもない。
声でもない。
けれど確かに、子どもの頃に知っていた――
「そこに居場所がある」という感覚が、胸の内側から、じわりと広がっていく。
光が、ほどけ始めた。
青い膜が、雨に溶けるように薄くなり、指の隙間からすり抜ける砂のように、体の外へと抜けていく。
追いかけることも、掴むことも、できない。
守られていた、という感覚だけが、静かに引き剥がされていった。
最後に胸元で一度だけ、青い光が強く瞬いて――
ぷつりと、途切れた。
――生き返ったわけじゃない。
命が、星が流れ落ちる前に。
きっと母が、抱き留めただけだった気がした。
さっきまで身体を包んでいた、あの青い光。
あれは、なんだったのだろう。
ジークなら、何か知っているのかもしれない。
次に会ったとき、聞いてみたい。
……いや。
もう会うこともないのに、何を考えているのか――。
――ジークの父親は、ネオネスといった。
彼女は賢者と呼んでいた。
その父親なら、知っているかもしれない。
考えても、意味はない。
雨も、もう止んでいた。
レンドルは、ゆっくりと息を吐いた。
吐いた息は白くもならない。
寒いはずなのに、震えはこない。
身体のどこかで、まだ生の熱が、踏みとどまっている。
首を持ち上げ、視線を下げる。
肩口から腰まで、切られていた。
致命傷だったはずの傷は、裂けた革鎧の下で塞がっている。
赤黒い染みと、硬く盛り上がった傷跡だけが残っていた。
指先で触れれば、痛い。
痛いが――血は、出ていない。
「……」
声にならなかった。
代わりに、腕を動かす。
重い。
鉛を詰め込まれたように鈍い。それでも肘は曲がり、掌が地面を押した。
泥と雨水が、指の間からにゅるりと逃げていく。
上体を起こすと、視界の端に、銀色の刃が見えた。
ロングソードだった。
泥の上に落ち、雨を受け、鈍く光っている。
柄には、擦れた革の跡。
レンドルは手を伸ばし、指を絡める。
冷たい。
金属の冷たさが、掌の皮膚を刺した。
それでも――
立たなければならない気がした。
杖代わりにして立ち上がろうとし、膝が崩れた。
泥が跳ね、鎧が鳴る。
もう一度、ゆっくりと体重をかけ直す。
今度は、立てた。
雨に濡れた要塞の外へ、歩き出す。
どこへ。
考えようとして、考えが滑る。
戦いの後は、いつもこうだ。
世界が薄く、音が遠い。
自分の身体だけが、現実として、そこにある。
サンガードには戻れない。
戻れば、また戦争に駆り出される。
英雄だの功績だの、そんな言葉で鎖を作り、また戦うのか。
それに――
あの場で起きたことを、誰が黙って見逃す。
ラクロアンも危険だ。
あの男がいる。
レンドルがそこに居れば、利用されるか、殺されるか。
どちらにしても、血の匂いは、さらに濃くなる。
なら、ルベリアか。
だが、ルベリアに行って、どうする。
敵国だ。
自分はサンガードの騎士だった。
勝手に踏み込めば捕まる。
捕まらなくても、食ってはいけない。
居場所など、ない。
黄金騎士を倒したとき、多くのルベリア兵に、顔を見られている。
濡れた体から、水が剣の刃を伝って滑り落ちた。
剣を刺した足元に、浅い水たまりができる。
すっと剣を抜き、鞘に収める。
レンドルは、歩いた。
――父さんのところに、戻ろう。
考えがまとまったわけではない。
ただ、生きていることを、無事であることを、伝えたかった。
足だけが、次の一歩を選んでいく。




