第8話 記憶の中の青き月
今日は、いろんなことがありすぎた。
待つように言われ、腰を下ろした途端、力が抜ける。
「レンドル、青き月よ、とてもきれいよ」
俺の母――エルザ母さんは、いつも穏やかな声で語りかけてくれた。
話すとき、必ず俺の目を見ていた。
――いつもここからだ。
俺は月が気になって、空を見上げた。
「木で隠れてるから、よく見えないよ」
エルフの夜の森は、とても静かだった。
焚き火の残り香と、湿った土の匂い。
枝葉の隙間から、淡い青い光が差し込んでいる。
「ねえ、母さん。
さっきの歌……いつも歌ってくれるよね」
「星巡りの詩ね」
「昔のエルフの歌なんだよね、どういう意味なの?」
母さんは、少しだけ微笑んだ。
時折頬をなでる風が心地よく、炎も嬉しそうに揺らいでいた。
「青き月のお話」
「あそこにある月ことだよね」
母さんはうなずいて、俺と一緒に空を見上げていた。
優しい風がきれいな赤髪を揺らして、俺の好きな長い耳が見えるんだ。
「そうよ、月から生まれて、また月へ帰る、命が巡る、そういうおはなし」
そういって俺のほうを見て、また微笑んでいた。
俺は、しばらく黙って月を見ていた。
――なぜか
もっと青い月をみたくなったんだ。
「……青き月、みたい」
ぽつりと、そう言って。
「行ってくる」
「レンドル――!」
俺は、振り返らずに駆け出した。
少し広い場所を覚えていたんだ。
「待って! レンドル!」
エルザは慌てて後を追った。
目の前に、もう一つの青い月が地面で揺らいでいる。
夜の森を抜けると、小さな池が開けた場所にあった。
その瞬間――
「あれは古の……銀狼っ……!」
青い月光の下、
巨大な影が、すでにそこにいた。
闇と同じ色の体毛なのに、ぼんやり銀色に揺らぎ流れているように見える。
青い月の光が当たって、神話にあるミスリルのようだった。
次の瞬間、
鋭い衝撃が、エルザの身体を貫いた。
「……っ!」
左脇腹から、おびただしい血が流れ落ちる。
それでも、魔法の炎の壁を前に展開した。
だが銀狼は、のそり、のそりと、それを突き破って進んでくる。
「……この炎を越えてくるなんて」
「レンドル、剣を取りなさい!」
――これは、ただの記憶じゃない
流れる光景は鮮明で、音も、匂いも、あの時のまま残っている。
「こいつからは、逃げられない!」
――俺は剣を抜こうとした。
「エルフの女……
躱されたのは、久しぶりだ」
低く、濁った声が腹をたたくように響く。
――でも、目の前に立つ魔物を見た瞬間、足が凍りついた。
「……本当に、喋るのね。驚きだわ」
――母が教えてくれたように、銀狼は知性ある魔物だった。
「まあいい。噛みきる」
――動かない。
「か、母さん……抜けないよ……」
――剣の柄を握っても、腕が震えて力が入らず、膝がくずれてへたり込んだ。
「……仕方ないわ」
次の瞬間、炎の柱がいくつも立ち上がり、銀狼を襲った。
それは攻撃ではない。
危険を知らせる合図であり、牽制だった。
「銀狼……このまま去ってほしいのよ」
「その傷では長くない。
先に、子供をいただこう」
「……っ! させない!」
子どもへ飛びかかると見せかけて、音もなく銀狼はエルザの横を一瞬で駆け抜けた。
銀狼の右肩には、刃のよう見える突起が生えていて、それが閃光のように輝きエルザを襲った。
エルザはさらに傷を負い、血を流した。
その時だった。
無数の弓矢と、魔法の槍が、銀狼めがけて飛来した。
騒ぎにいち早く反応した、魔法戦士たち。
十名ほどが、すでに戦線に加わっていた。
「……エルザ……」
――誰かが、母の名を呼んだ。
「か、母さん……血が……」
「いいの、レンドル……おいで」
母は、血を流しながら、俺を見ていた。
「長くは……もたないの」
息をするたび、胸が小さく上下する。
それでも、その目は俺から離れなかった。
また、微笑んだ。
「思い描いていた未来も……
覚えてきたことも……
全部、見えるの」
指先が、わずかに震えた。
「でも……もういられないの」
「ごめんね……」
「泣かないで、レンドル」
「僕が……月を見たいって、言ったから……」
「……これは、運命だったの」
「でも、あなたが……生きていたら
その先は、変えられる」
母は、最後まで目を逸らさなかった。
「生きるには……戦うしか、ないの」
「……立って、レンドル」
血に濡れた手が、かすかに動く。
「あなたの未来を……」
声が、細くなる。
「私は……」
そこで、言葉が途切れた。
俺は、ゆっくりと目を開けた。
涙が、冷たく頬を伝った後だった。




