第9章「真のトニック」
6月に入ると、茉莉の生活は充実していた。
新しい方法でのトニック作りは軌道に乗り、多くの学生から感謝されていた。橋本教授の研究にも貢献し、将来のカウンセラーとしての道筋も見えてきていた。
でも、時折感じる不思議な感覚は、日に日に強くなっていた。
別の世界の存在を感じる瞬間が、頻繁に起こるようになった。図書館で勉強中に突然別の光景が見えたり、街を歩いている時に平行して歩いている自分を感じたり。
「もうすぐ何かが起こる」
そんな確信があった。
そんな時、茉莉のもとに特別な相談が舞い込んだ。
大学の外部から来た、中年の女性だった。
「田所と申します。実は、息子のことでご相談があります」
田所さんは丁寧な口調で話し始めた。
「息子は高校3年生なのですが、最近引きこもりがちで、学校にも行かなくなってしまいました」
茉莉は驚いた。今まで相談を受けていたのは大学生ばかりで、外部からの相談は初めてだった。
「どのようにして、私のことを?」
「息子の友人のお母さんから聞きました。大学で、とても親身になって学生の相談に乗ってくれる方がいると」
田所さんは藁にもすがる思いで来たようだった。
「息子は元々内向的な子でしたが、高校に入ってからいじめに遭うようになって」
茉莉は静かに話を聞いた。
「最初は頑張って通っていたのですが、だんだん疲れてしまって。今では部屋から出てこなくなりました」
「ご家族で話し合ったりは?」
「何度も試しましたが、息子は心を閉ざしてしまって。カウンセリングも勧めましたが、拒否されてしまいました」
田所さんは涙ぐんでいた。
茉莉は迷った。これまでは大学生の相談しか受けていない。高校生の、しかも引きこもりの問題は、自分の手に負えるだろうか。
でも、母親の必死な様子を見ると、断ることができなかった。
「分かりました。でも、私にできることは限られています」
「どんなことでも構いません。お願いします」
茉莉は田所さんから詳しい話を聞いた。息子の翔太くんは17歳。中学時代は普通に学校に通っていたが、高校に入ってから同級生にからかわれるようになった。最初は些細なことだったが、だんだんエスカレートして、今では完全に学校に行けなくなっている。
「翔太くんは、どんなことに興味があるんですか?」
「読書が好きで、特にファンタジー小説をよく読んでいました。最近は、それすらもやめてしまいましたが」
「何か得意なことは?」
「絵を描くのが上手でした。将来はイラストレーターになりたいと言っていたこともあります」
茉莉は翔太くんの人物像を想像しようとした。内向的で創造性があり、でも傷つきやすい。そんな少年が、学校という集団の中で苦しんでいる。
「まず、翔太くんが心を開いてくれるような環境を作ることが大切ですね」
茉莉は田所さんと一緒に、アプローチ方法を考えた。
直接的なカウンセリングではなく、翔太くんの興味のあることから入る。本や絵の話から始めて、少しずつ信頼関係を築く。
「私が直接お会いすることは可能でしょうか?」
「息子が同意してくれるかどうか...」
「最初は、お母さんを通じてお手紙を渡してみませんか?翔太くんの好きな本の話などから始めて」
茉莉は翔太くんへの手紙を書くことにした。いきなり相談に乗るという形ではなく、本好きの大学生として、お勧めの本を紹介するという形で。
『翔太くんへ お母さんから、翔太くんがファンタジー小説がお好きだと聞きました。私も大の本好きで、特にファンタジーが大好きです。 最近読んで面白かった本があるので、良かったら感想を聞かせてもらえませんか?』
茉莉は手紙と一緒に、最近読んで感動したファンタジー小説を田所さんに託した。
そして、もう一つ。翔太くんのための特別なトニックも作った。
心を開く勇気、人を信じる力、そして自分の価値を信じる気持ちを込めて。
「これは、心を落ち着かせるお茶です。翔太くんが飲みたがったら、どうぞ」
「ありがとうございます」
田所さんは感謝して帰っていった。
一週間後、予想外の展開があった。
翔太くん本人から、手紙が届いたのだ。
『茉莉さんへ 本を読ませていただきました。とても面白くて、久しぶりに夢中になって読みました。 僕も昔は、こういう冒険物語を読んで、自分も主人公みたいになれたらいいなと思っていました。でも、現実は厳しくて、僕には無理だということが分かりました。 でも、この本を読んで、少しだけ昔の気持ちを思い出しました。 お茶もありがとうございました。とても美味しくて、飲むと心が落ち着きます。』
茉莉は嬉しくなった。翔太くんが心を開いてくれたようだ。
茉莉は返事を書いた。
『翔太くんへ お返事ありがとうございます。本を気に入ってもらえて嬉しいです。 翔太くんは「現実は厳しい」と書いていましたが、私は冒険は現実にもあると思います。 例えば、新しい人と出会うこと、新しいことを学ぶこと、自分の好きなことを見つけること。 翔太くんがイラストを描くのがお好きだと聞きました。それも立派な冒険だと思います。 良かったら、翔太くんの描いた絵を見せてもらえませんか?』
これを機に、茉莉と翔太くんの間で手紙のやり取りが始まった。
最初は本の話、絵の話から始まったが、だんだん翔太くんは自分の気持ちを書いてくれるようになった。
『学校では、僕は変わった子だと思われています。みんなが興味のあることに、僕は興味が持てなくて。逆に僕が好きなことは、みんなには理解してもらえなくて。 だから、いつも一人でした。それでも我慢していたのですが、だんだん無視されるようになって、最後にはからかわれるようになりました。 僕は弱い人間なので、それに耐えられませんでした。』
茉莉は翔太くんの苦しみを深く理解した。集団に馴染めない辛さ、理解されない孤独感、そして自分を責めてしまう気持ち。
茉莉は丁寧に返事を書いた。
『翔太くんへ 翔太くんは弱い人間ではありません。感受性が豊かで、優しい心を持った人だと思います。 みんなと同じである必要はありません。翔太くんには翔太くんの良さがあります。 私も学生時代は、一人でいることが多かったです。でも、一人の時間は無駄ではありませんでした。その時間があったから、本当に大切なことを見つけることができました。 翔太くんにも、きっと翔太くんにしかできないことがあります。それを見つけるまで、一緒に探してみませんか?』
手紙のやり取りを続ける中で、茉莉は翔太くんが少しずつ変化していることを感じた。
最初は絶望的だった内容が、だんだん希望を含むようになってきた。
『茉莉さんの手紙を読むと、元気が出ます。茉莉さんみたいに、人の気持ちを理解してくれる人がいるということが嬉しいです。 お茶も毎日飲んでいます。飲むと、茉莉さんが近くにいてくれるような気がします。』
そして、ある日、翔太くんから特別な提案があった。
『茉莉さんと実際にお会いしてみたいです。今まで人と会うのが怖かったのですが、茉莉さんとなら話せる気がします。』
茉莉は田所さんと相談して、翔太くんと直接会うことにした。
場所は田所家のリビング。翔太くんが安心できる環境で。
当日、茉莉が田所家を訪ねると、翔太くんは最初は恥ずかしそうにしていたが、本の話から始めると次第に打ち解けてくれた。
「茉莉さんって、思っていたより若いんですね」
「翔太くんも、手紙で想像していた通りの優しそうな人ですね」
二人は自然に会話できた。
翔太くんは茉莉に、自分が描いた絵を見せてくれた。ファンタジーの世界を描いた美しい絵だった。
「すごく上手ですね。プロのイラストレーターみたいです」
「本当ですか?」
翔太くんは嬉しそうだった。
「はい。翔太くんには、確実に才能があります」
その日から、茉莉は定期的に翔太くんと会うようになった。絵の技術について話したり、将来の夢について語ったり。
翔太くんは少しずつ自信を取り戻していった。そして、家族との関係も改善していった。
「息子が笑うようになりました」
田所さんは涙を流して感謝してくれた。
「茉莉さんのおかげです」
でも、茉莉は分かっていた。翔太くんを救ったのは、翔太くん自身の力だ。茉莉はただ、その力に気づく手伝いをしただけ。
翔太くんとの関わりを通じて、茉莉は大切なことを学んだ。
真の支援とは、相手の中にある力を信じ、それが発揮されるまで根気強く寄り添うことだ。
魔法のような即効性はないかもしれない。でも、その人自身の力で得た成長は、決して失われることがない。
「茉莉さんって、本当にカウンセラーに向いてますね」
橋本教授が言った。
「翔太くんのケースは、素晴らしい成果でした」
確かに、翔太くんはその後、通信制高校に転校し、イラストの専門学校への進学を目指すまでになっていた。
でも、茉莉にとって最も大切だったのは、翔太くんが自分の価値を信じられるようになったことだった。
「私は、ただきっかけを作っただけです。頑張ったのは翔太くん自身です」
「そうおっしゃいますが、そのきっかけを作ることこそが、支援者の最も重要な役割なんです」
橋本教授の言葉に、茉莉は自分の将来がより明確に見えた気がした。
カウンセラーになって、多くの人の「きっかけ」を作る仕事がしたい。
そんな夜、茉莉は再び不思議な体験をした。
今度は夢ではなく、現実だった。
夜中にふと目が覚めると、部屋の中に淡い光があった。そして、その光の中に、三人の女性の姿が見えた。
一人は自分、一人は以前から見ている人、そして三人目は最近夢に出てくる人。
でも今度は、とてもはっきりと見えた。
「ついに、時が来たのね」
三人目の女性が言った。
「時?」
茉莉が聞くと、三人が微笑んだ。
「私たちが一つになる時」
「三つの世界が統合される時」
「そして、本当の自分に戻る時」
茉莉は恐れと期待の入り混じった気持ちになった。
「大丈夫。あなたは準備ができている」
一人目の女性が言った。
「私たちも、ようやく準備が整った」
二人目の女性が続けた。
「明日、全てが始まる」
三人目の女性が最後に言った。
そして、光は消えた。
茉莉は一人でベッドに座っていた。でも、確かに今の光景は現実だった。
「明日、何が起こるんだろう」
茉莉は不安だったが、同時に期待もあった。
ようやく、長い間感じていた謎が解ける時が来るのだ。
その夜、茉莉は眠れなかった。
でも、レシピノートを開くと、最後のページに新しい文字があった。
『最後のトニック』
そんなタイトルで、特別なレシピが書かれていた。
『これは、真実を見るためのトニックです。すべてを受け入れる覚悟ができた時に、飲んでください』
茉莉は震えた。
ついに、その時が来たのだ。
窓の外を見ると、美しい満月が浮かんでいた。
明日は、きっと特別な日になる。
茉莉は、そんな確信を抱いて、朝を待った。
翔太くんとの出会いを通じて学んだこと、それは本当の支援とは何かということだった。
相手をコントロールするのではなく、相手の力を信じて寄り添うこと。
そして、すべての人には必ず価値があり、可能性があるということ。
茉莉は明日への準備を整えながら、心の中で誓った。
どんなことが起ころうとも、この学びを忘れない。
一人一人の尊厳を大切にし、その人らしさを支えていく。
それが、茉莉の使命なのだから。




