第8章「償いの始まり」
茉莉が新しいトニック作りを決意してから、数日が経った。
今度は慎重に、段階的に進めることにした。まず、橋本教授と詳細な計画を立て、花想庵の店主からもアドバイスをもらった。
「今度のトニックは、『相手をコントロールする』ものではなく、『相手の本来の力を引き出す』ものでなければなりません」
店主のアドバイスを胸に、茉莉は改めてレシピノートを読み返した。
最初のページに書かれた言葉が、今では深く理解できた。
『真の幸せとは、与えることから始まる。このトニックは、作り手の純粋な願いによって、小さな奇跡をもたらすでしょう。しかし忘れてはならない。奇跡とは起こすものではなく、気づくものなのです』
「気づくもの」
茉莉はその言葉を何度も反芻した。
トニックは魔法の薬ではない。相手が自分の中にある力に気づくための、きっかけに過ぎない。
そして、最も大切なのは、相手の意志を尊重することだ。
茉莉は新しいレシピを考えた。
基本的な材料は同じだったが、作り方と心構えが大きく違っていた。
まず、相手の具体的な願いを聞き、その願いが本当にその人のためになるかを一緒に考える。
次に、その願いを叶えるために、相手自身ができることを整理する。
そして、トニックはその努力を支援するためのものとして位置づける。
「相手の力を信じること。結果は相手に委ねること」
茉莉は自分なりの新しいルールを作った。
最初の相談者は、心理学科の1年生、佐々木みなみ(ささき・みなみ)という女性だった。
「実は、人前で話すのがとても苦手で」
みなみは恥ずかしそうに相談してきた。
「来月、ゼミで発表があるんですが、今から緊張してしまって」
茉莉は丁寧に話を聞いた。
「どんな時に、特に緊張しますか?」
「大勢の前だと、頭が真っ白になってしまうんです」
「一対一だと大丈夫ですか?」
「はい、友達とは普通に話せます」
茉莉はみなみと一緒に、発表に対する不安を分析していった。そして、具体的な対策を考えた。
「まず、発表の練習を重ねることが大切ですね」
「はい」
「それから、聴衆を友達だと思って話すこと」
「なるほど」
「そして、完璧を求めすぎないこと。間違えても大丈夫だと思うこと」
みなみは頷いていた。
「これらの準備をした上で、もしよろしければ、心を落ち着かせるお茶をお作りします」
「お茶ですか?」
「はい。でも、これは魔法の薬ではありません。あなたの努力を支える、お守りのようなものです」
茉莉は正直に説明した。
「効果があるとすれば、それはあなた自身の力によるものです。お茶は、その力に気づくきっかけに過ぎません」
みなみは理解してくれた。
「それでもお願いします。きっと、茉莉さんが作ってくれるお茶なら、勇気をもらえると思います」
茉莉は心を込めてトニックを作った。
みなみの努力を支えたい、みなみが自分の力を信じられるようになってほしい、そんな純粋な願いを込めて。
完成したトニックは、以前のものより穏やかな印象だった。香りも優しく、見た目も自然だった。
「ありがとうございます」
みなみは大切そうにトニックを受け取った。
「発表の前に飲んでみます」
一週間後、みなみから報告があった。
「茉莉さん、発表うまくいきました!」
みなみは嬉しそうだった。
「良かったです。どんな感じでしたか?」
「最初はやっぱり緊張したんですが、お茶を飲んだら不思議と落ち着いて。それで、『今まで練習してきたから大丈夫』って思えたんです」
みなみの報告に、茉莉は嬉しくなった。
「練習の成果ですね」
「はい!でも、お茶のおかげで自信を持てました」
これが、本来のトニックの効果なのだと茉莉は思った。相手の努力を支え、自信を与える。でも、結果を出すのは相手自身の力。
その後、茉莉のもとには様々な相談が来るようになった。
就職活動で悩んでいる学生、人間関係で困っている学生、将来に不安を感じている学生。
茉莉は一人一人と丁寧に向き合った。まず話を聞き、一緒に問題を整理し、解決策を考える。そして、相手が自分で努力することを前提に、それを支援するトニックを作る。
効果は穏やかだったが、確実だった。そして何より、効果が持続した。相手が自分の力で達成したことだから、自信につながり、次の挑戦への力になった。
「茉莉さんの相談の受け方、とても勉強になります」
橋本教授が言った。
「相手の自律性を尊重しながら、適切な支援を提供する。理想的なカウンセリングの形ですね」
茉莉は照れた。
「まだまだ勉強中です」
「でも、『お茶』という独特な方法が、とても効果的に機能していますね」
橋本教授の研究データでも、茉莉の支援を受けた学生たちの満足度と効果の持続性は、非常に高かった。
「あの、橋本教授」
茉莉は以前から気になっていたことを聞いてみた。
「トニックの効果について、心理学的にはどう説明できるんでしょうか?」
「複数の要因が組み合わさっていると思います」
橋本教授は考えながら答えた。
「まず、プラセボ効果。『効果がある』と信じることで、実際に心理状態が改善される」
「はい」
「次に、儀式的効果。特別な飲み物を飲むという行為自体が、心理的な区切りを作り、新しい気持ちで取り組む意欲を生む」
「なるほど」
「そして最も重要なのは、茉莉さんの真摯な態度です。相手のことを真剣に考え、時間をかけて向き合う。その姿勢自体が、相手に安心感と信頼感を与えている」
橋本教授の説明で、茉莉は自分のやっていることを客観視できた。
「つまり、トニック自体に魔法の力があるわけではなく、私と相手の関係性の中で効果が生まれているということですね」
「その通りです。そして、それこそが真の支援だと思います」
5月の終わり頃、茉莉はある困難な相談を受けた。
経済学部の3年生、木村拓也という男性からの相談だった。
「実は、父親との関係で悩んでいるんです」
木村は重い口調で話し始めた。
「父は厳格な人で、僕の進路についていつも口出しをするんです。『経済学なんて役に立たない』『もっと実用的な勉強をしろ』って」
茉莉は静かに聞いていた。
「でも、僕は経済学が好きなんです。将来は研究者になりたいと思っているんですが、父は猛反対で」
「お父さんは、どんなお仕事をされているんですか?」
「町工場を経営しています。僕にも後を継いでほしいと思っているようですが、僕にはその気がなくて」
木村の悩みは深刻だった。父親との価値観の違い、将来への不安、家族関係の悪化。
「お父さんと、ちゃんと話し合ったことはありますか?」
「何度か試しましたが、いつも喧嘩になってしまって」
茉莉は木村と一緒に、問題を整理していった。
父親が息子に工場を継いでほしいと思う気持ち。息子が自分の道を歩みたいと思う気持ち。どちらも理解できる。
「まず、お父さんの気持ちを理解しようとすることから始めてみませんか?」
「父の気持ち?」
「はい。お父さんがなぜ工場を継いでほしいと思うのか。それは、木村さんへの愛情の表れかもしれません」
茉莉は木村と一緒に、父親の立場に立って考えてみた。
長年築いてきた事業を息子に任せたい気持ち。息子に安定した生活を送ってほしいという願い。
「確かに、父なりに僕のことを考えてくれているのかもしれませんね」
木村は少し表情が和らいだ。
「それから、木村さんの気持ちも、お父さんに伝える必要がありますね」
「でも、どうやって?」
茉莉は木村と一緒に、具体的な話し合いの方法を考えた。感情的にならずに、冷静に自分の考えを伝える方法。相手の気持ちを否定せずに、自分の気持ちを説明する方法。
「もしよろしければ、この話し合いを支援するお茶をお作りします」
「お願いします」
茉莉は木村のためのトニックを作った。
父親への理解と感謝の気持ち、自分の夢への確信、そして冷静な話し合いができるように、という願いを込めて。
数日後、木村から連絡があった。
「茉莉さん、お茶を飲んでから父と話してみました」
「どうでしたか?」
「最初はやっぱり険悪な雰囲気でしたが、今度は途中で喧嘩にならなかったんです」
木村は嬉しそうだった。
「父の気持ちを理解しようとしながら話したら、父も僕の話を聞いてくれて」
「良かったです」
「まだ完全に納得してもらえたわけではありませんが、『お前がそこまで真剣に考えているなら、少し様子を見てみよう』って言ってくれました」
木村の報告に、茉莉は深い満足感を覚えた。
これが、本当の問題解決なのだと思った。魔法のように問題が消えるのではなく、当事者同士が理解し合い、時間をかけて解決していく。
トニックは、その過程を支援する道具に過ぎない。
でも、その支援があることで、人は自分の力を信じ、困難な問題にも立ち向かえる。
茉莉は、ようやく本当のトニックの使い方を理解した気がした。
そして、その夜、茉莉は再び不思議な体験をした。
夢の中で、三人の女性が再び現れた。
「良い仕事をしているわね」
三人目の女性が言った。
「ありがとうございます」
茉莉が答えると、一人目の女性が微笑んだ。
「でも、もうすぐ本当の試練が始まるわよ」
「試練?」
「三つの世界が接触する時」
二人目の女性が説明した。
「その時、私たちは一つになる。でも、それは簡単なことではない」
「なぜですか?」
「一つになるということは、すべてを受け入れるということ。自分の良い面も悪い面も、成功も失敗も、すべて」
三人目の女性が言った。
「あなたは準備ができている。でも、私たちはまだ途中」
茉莉は目が覚めても、その言葉を忘れることができなかった。
もうすぐ、何かが起こる。
そんな予感があった。




