第6章「暴走の始まり」
4月になり、新学期が始まった。
茉莉は大学3年生になっていた。心理学の専門的な授業が増え、将来についても具体的に考える時期になった。
「カウンセラーか、心理学の研究者か」
茉莉は進路について悩んでいた。どちらも魅力的だったが、決めかねていた。
そんな時、心理学科に新しい教授が赴任してきた。
「橋本教授です。専門は応用心理学、特に心理的介入技法について研究しています」
橋本教授は40代の女性で、とても知的な印象だった。
「茉莉さんですね。以前から、あなたのことは聞いています」
授業の後、橋本教授が茉莉に声をかけた。
「私のことを?」
「ええ。学生たちの間で、とても信頼されているとか。心理的な相談をよく受けるそうですね」
「はい」
「興味深いですね。どのような方法で相談に乗っているのですか?」
茉莉は橋本教授に、自分なりの相談の聞き方を説明した。相手の気持ちに寄り添い、一緒に解決策を考える。判断を押し付けるのではなく、相手が自分で答えを見つけられるよう支援する。
「素晴らしいアプローチですね。天性のカウンセラーの資質を感じます」
橋本教授は感心していた。
「もしよろしければ、私の研究に協力していただけませんか?」
「研究ですか?」
「はい。学生による学生のための心理的支援システムの研究です。正式なカウンセラーではない学生同士だからこそできる支援の形があると思うのです」
茉莉は興味を持った。自分がやっていることが、学術的な価値を持つということだろうか。
「ただし」
橋本教授は少し真剣な表情になった。
「以前、あなたが何らかの特別な方法を使っていたという話も聞いています。それについても、正直に教えていただけませんか?」
茉莉は迷った。トニックのことを話すべきだろうか。
結局、茉莉は正直に話すことにした。古道具屋で見つけたレシピノート、不思議な効果、そして現在はやめていることまで。
橋本教授は興味深そうに聞いていた。
「なるほど。プラセボ効果の応用ですね」
「プラセボ効果?」
「偽薬効果とも言います。薬効成分がなくても、『効果がある』と信じることで実際に症状が改善する現象です」
橋本教授の説明で、茉莉は自分がやっていたことを客観的に理解できた。
「あなたの『お茶』は、化学的には普通のお茶だったかもしれません。でも、『特別な効果がある』という暗示と、あなたの真剣な気持ちが、相手に心理的な変化をもたらしたのでしょう」
「でも、現実的な変化も起こっていました」
「それも説明できます。心理状態が改善されると、行動も変わります。自信を持てば積極的になるし、リラックスすれば本来の能力を発揮できる。結果として、現実的な変化も起こるのです」
橋本教授の説明は論理的で、茉莉には納得できた。
「でも、最後の方は効果が強すぎて、問題が起こりました」
「それは、あなたの期待や願いが強くなりすぎたからでしょう。強すぎる暗示は、相手の判断力を鈍らせることがあります」
「そうだったんですね」
茉莉は理解した。トニックは魔法ではなく、心理学的な現象だったのだ。
「今のあなたのアプローチの方が、はるかに健全で効果的です。相手の自律性を尊重した、真の支援と言えるでしょう」
橋本教授の言葉に、茉莉は自信を持った。
橋本教授の研究に参加することになった茉莉は、より体系的に心理的支援について学び始めた。
カウンセリングの技法、傾聴のスキル、問題解決のアプローチ。学術的な知識を身につけることで、茉莉の相談技術は向上していった。
「茉莉さん、最近さらに相談しやすくなりましたね」
そう言ってくれる人が増えた。
茉莉は充実していた。トニックに頼らなくても、いや、トニックに頼らないからこそ、本当に人の役に立てているという実感があった。
でも、そんな平穏な日々は長くは続かなかった。
5月のある日、茉莉は大学で不審な光景を目撃した。
廊下の向こうで、見知らぬ学生が小さな瓶を他の学生に渡しているのだ。その瓶の中身は、透明で金色に光る液体だった。
茉莉の心臓が止まりそうになった。
あれは、トニックに似ている。
慌てて近づいてみると、案の定だった。
「これ、茉莉さんが作ってた『奇跡のお茶』のレシピです」
瓶を渡していた学生が説明していた。
「茉莉さんは作ってくれなくなったけど、レシピを手に入れたので、代わりに私が作りました」
茉莉は愕然とした。
レシピが流出している。しかも、不完全な形で。
「あの、ちょっと待ってください」
茉莉は割って入った。
「そのレシピ、どこで手に入れたんですか?」
「茉莉さん!」
瓶を渡していた学生は、経済学部の田村という女性だった。以前、茉莉にトニックを求めてきた人の一人だった。
「以前もらったお茶の瓶に、材料が書いてあったんです。それを参考にして作りました」
茉莉は覚えていた。確かに、瓶にラベルを貼って材料名を書いていたことがあった。でも、それは分量や詳しい作り方まで書いたものではない。
「でも、それだけでは正確なレシピは分からないはずです」
「インターネットで調べて、似たようなレシピを見つけました。ジャスミン茶と蜂蜜と雨水で作る『幸運のお茶』って」
茉莉は震え上がった。
インターネットに、似たようなレシピが流れているのか。しかも、不正確な情報で。
「田村さん、それは危険です。やめてください」
「どうして?茉莉さんだって同じものを作ってたじゃないですか」
「私の場合は、ちゃんとしたレシピがあったんです。でも、不完全な情報で作ると、危険なことが起こる可能性があります」
茉莉は必死に説明したが、田村は聞く耳を持たなかった。
「大げさですよ。ただのお茶でしょ?」
その日の夜、茉莉は慌てて花想庵を訪ねた。
「やはり、そうなりましたか」
店主は深刻な表情だった。
「不完全なレシピが流布されるのは、最も危険なことの一つです」
「どんな危険があるんですか?」
「正しい知識なしに作られたトニックは、予測不可能な効果をもたらします。作り手の無意識の願望や不安が、そのまま反映されてしまうのです」
店主の説明で、茉莉は事態の深刻さを理解した。
「止める方法はありませんか?」
「残念ながら、一度広まってしまった情報を完全に止めることは困難です。でも、正しい情報を広めることで、被害を最小限に抑えることはできるかもしれません」
「正しい情報?」
「トニックの本当の意味、正しい使い方、そして危険性について。多くの人に知ってもらうことです」
茉莉は決意した。
自分が始めたことの責任を取らなければならない。
翌日から、茉莉は「トニック対策」に奔走した。
まず、橋本教授に相談した。事情を説明すると、教授は深刻に受け止めてくれた。
「それは確かに危険ですね。心理学的に見ても、不適切な暗示は害をもたらす可能性があります」
「どうしたらいいでしょうか?」
「まず、学内での情報拡散を防ぐことです。そして、既に『偽トニック』を使用した人がいれば、適切なフォローを行うことです」
橋本教授は茉莉と一緒に、学生相談室に事情を報告した。
「不確かな情報に基づく『効果があるとされる飲み物』が学内で流通している」
という形で問題提起し、注意喚起を行うことになった。
しかし、事態は茉莉の予想以上に深刻だった。
田村が作った「偽トニック」を飲んだ学生たちに、異常な反応が現れ始めたのだ。
ある学生は、異常に攻撃的になった。些細なことで怒り出し、周りの人とトラブルを起こすようになった。
別の学生は、逆に極度に受動的になった。何に対してもやる気を失い、授業にも出てこなくなった。
また別の学生は、妄想的な行動を取るようになった。「全てが思い通りになる」と信じ込み、無謀な行動を繰り返すようになった。
どれも、茉莉が作っていた本来のトニックでは起こらなかった現象だった。
「偽トニック」には、作り手である田村の不安や欲望が無秩序に込められていたのだ。
茉莉は自分を責めた。
自分がトニックなんて作らなければ、こんなことにはならなかった。
でも、自分を責んでいても状況は改善しない。
茉莉は行動を起こした。
まず、「偽トニック」の被害者と思われる学生たちに、一人ずつ声をかけて回った。
「最近、体調や気分に変化はありませんか?」
「何か変わったものを飲んだりしませんでしたか?」
地道な聞き取り調査を行い、被害の範囲を把握しようとした。
そして、問題のある反応を示している学生については、橋本教授や学生相談室と連携して、適切なサポートを行った。
攻撃的になった学生には、怒りのコントロール方法を教えた。受動的になった学生には、小さな目標設定から始めて、やる気を回復する支援を行った。妄想的になった学生には、現実的な思考を取り戻すためのカウンセリングを行った。
どれも時間のかかる作業だったが、茉莉は諦めなかった。
「私が始めたことの責任を取らなければ」
そんな思いで、茉莉は必死に取り組んだ。
でも、作業を続ける中で、茉莉は不思議な現象に気づいた。
レシピノートに、また新しい文字が現れ始めたのだ。
今度は「強化レシピ」ではなく、「浄化レシピ」というものだった。
『偽物の効果を打ち消し、心を本来の状態に戻すためのレシピ』
そんな説明が書かれていた。
茉莉は迷った。また、ノートの力に頼るべきなのだろうか。
でも、被害者たちの苦しんでいる様子を見ると、放っておくことはできなかった。
その夜、茉莉は一人でアパートにいた時、また不思議な体験をした。
窓の外を見ると、向かいのマンションの窓に、確かに人影が見えた。
自分とよく似た人だった。でも、今度ははっきりと見えた。
その人は、茉莉に向かって手を振っていた。そして、何かを伝えようとしているようだった。
茉莉は窓を開けて、外に向かって手を振り返した。
すると、不思議なことに、その人の声が聞こえたような気がした。
「一人で抱え込まないで」
「私たちがいるから」
「もうすぐ、会えるから」
茉莉は混乱した。これは一体何なのだろう。
でも、なぜかその声は安心できるものだった。
確かに、自分は一人ではない気がした。
どこかで、同じように頑張っている人がいる。そんな確信があった。
茉莉は決意を新たにした。
明日から、「浄化レシピ」を試してみよう。でも今度は、一人ではなく、橋本教授や花想庵の店主と相談しながら、慎重に進めよう。
そして、被害者たちを必ず救おう。
それが、トニックを作った自分の責任だから。




