第5章「深まる不安」
新しい年が始まった。
茉莉は心機一転、トニックに頼らない人助けを始めていた。
困っている同級生がいれば話を聞き、悩んでいる友人がいれば一緒に解決策を考える。特別な力に頼らず、ただ一人の人間として、できることをする。
最初は戸惑いもあった。トニックなしで本当に人の役に立てるのだろうか、という不安があった。でも、やってみると意外に多くのことができることが分かった。
「茉莉ちゃん、最近また雰囲気変わったわね」
親友の美咲が言った。
「どんな風に?」
「前は『すごい人』って感じだったけど、今は『頼れる友達』って感じ。私はこっちの方が好きよ」
美咲の言葉に、茉莉は安堵した。
確かに、以前のような劇的な結果は起こらなくなった。でも、人との関わりは以前より深くなった気がした。相手の話をじっくり聞き、一緒に考え、時には一緒に悩む。そんな関係の方が、茉莉には自然だった。
大学の授業でも、茉莉は積極的に発言するようになっていた。心理学の知識を活かして、クラスメイトの相談に乗ることも多くなった。
「茉莉さんって、カウンセラーに向いてるかもしれませんね」
心理学科の教授が言った。
「本当ですか?」
「人の話を聞く姿勢、共感する能力、問題を整理する力。どれもカウンセラーに必要な資質です」
教授の言葉に、茉莉は将来への新しい可能性を感じた。
アルバイト先の書店でも、茉莉の働きぶりは評価されていた。
「茉莉ちゃん、お客さんからの評判がいいのよ」
店長の田島さんが言った。
「本の相談をすると、いつも的確なアドバイスをしてくれるって。『あの優しい店員さんに相談したい』って指名する人もいるくらい」
茉莉は嬉しかった。特別な力がなくても、自分なりに人の役に立てているという実感があった。
でも、全てが順調だったわけではない。
2月に入った頃、茉莉は妙な体験をするようになった。
夜、一人でアパートにいる時、誰かに見られているような感覚があった。振り返っても誰もいない。でも、確かに視線を感じる。
最初は気のせいだと思っていた。でも、その感覚は次第に強くなっていった。
そして、夢の中では明確に「もう一人の自分」を見るようになった。
自分とよく似ているが、少し違う。髪型も服装も微妙に異なる。そして、その人はいつも心配そうな表情で茉莉を見ていた。
「頑張ってるのは分かるけど、でも...」
夢の中で、その人がそんなことを言っているような気がした。
茉莉は困惑した。これは一体何なのだろう。
同じ頃、レシピノートにも変化があった。
あれほど頻繁に現れていた「強化レシピ」の文字が、完全に消えていた。代わりに、元々書かれていた優しいレシピだけが残っていた。
でも、時々、ノートの端に薄い文字が現れることがあった。
「気をつけて」
「一人で背負わないで」
そんな短いメッセージが、まるで誰かからの伝言のように現れた。
茉莉は不安になった。これらのメッセージは一体何を意味しているのだろう。
ある日、大学の図書館で勉強していると、見知らぬ学生が茉莉のところにやってきた。
「あの、茉莉さんですよね?」
「はい」
「実は、お願いがあるんです」
その学生は経済学部の1年生で、最近大きな失恋をしたという。
「茉莉さんの作るお茶のことを聞いたんです。元カレとよりを戻したくて」
茉莉は困った。もうトニックは作っていないと説明したが、学生は諦めなかった。
「お金はいくらでも払います。お願いします」
「本当に、もう作っていないんです」
茉莉は丁寧に断ったが、学生は納得しなかった。
「ケチらないで教えてくださいよ。困ってるんです」
その学生の態度は、次第に脅迫的になった。
「みんな、茉莉さんのお茶で幸せになってるじゃないですか。私だけ仲間はずれですか?」
茉莉は怖くなった。こんな風に詰め寄られたのは初めてだった。
幸い、図書館の職員が気づいて注意してくれたため、その場は収まった。でも、茉莉はショックを受けた。
トニックをやめてから数ヶ月が経つというのに、まだこんな風に求められることがあるなんて。
その日の夜、茉莉は一人でアパートにいた時、また奇妙な体験をした。
ベランダから外を見ていると、向かいのマンションの窓に、自分とよく似た人影が見えた気がした。
でも、よく見ると何もなかった。
「疲れてるのかな」
茉莉はそう思った。
でも、その日の夢は鮮明だった。
夢の中で、茉莉は見知らぬ場所にいた。自分のアパートとよく似ているが、微妙に違う。家具の配置が違い、窓から見える景色も違う。
そして、そこにもう一人の自分がいた。
「大変そうね」
その人が言った。
「あなたも?」
茉莉は夢の中で答えた。
「ええ。でも、きっと大丈夫よ。私たちは一人じゃないから」
「私たち?」
「そう。私たちは...」
その時、茉莉は目が覚めた。
心臓がドキドキしていた。あの夢は一体何だったのだろう。
3月に入ると、茉莉の周りで奇妙な現象が起こり始めた。
大学内で、茉莉の「元お茶仲間」たちに異変が起きていたのだ。
佐藤さんは、恋人との関係が破綻していた。相手の男性が、まるで夢から覚めたように急に冷たくなったという。
「あんなに好きだって言ってくれてたのに、急に『君のことはよく分からない』って」
佐藤さんは泣いていた。
山田くんの場合は、発表で得た自信が急速に失われていた。
「あの時は確かに堂々と話せたんです。でも、それ以降は元のあがり症に戻ってしまって」
就職が決まっていた先輩は、内定を辞退していた。
「やっぱり自分には合わない気がして。実力以上の評価だったと思うんです」
一人、また一人と、トニックの効果が「逆戻り」しているように見えた。
茉莉は混乱した。これは一体何を意味しているのだろう。
花想庵の店主に相談してみることにした。
「やはり、そうなりましたか」
店主は予想していたような反応だった。
「トニックの効果は、永続的なものではありません。特に、相手の本来の意志に反する変化は、時間とともに元に戻ろうとします」
「元に戻る?」
「はい。人の心には、本来の状態に戻ろうとする力があります。無理やり変えられたものは、必ず反動が来る」
店主の説明で、茉莉は理解した。
強化されたトニックによって起こった変化は、一時的なものだったのだ。そして今、その反動が起きている。
「みんな、苦しんでいます。私のせいで」
茉莉は自分を責めた。
「あなたのせいではありません。あなたも、ノートの不完全さの被害者です」
「でも、私がもっと慎重だったら」
「茉莉さん」
店主は茉莉の手を優しく握った。
「あなたは、純粋に人の幸せを願っていました。その気持ちに間違いはありません。問題は、方法だったのです」
「これから、どうしたらいいんでしょうか?」
「今度は、正しい方法で支えてあげることです。トニックではなく、あなた自身の力で」
店主の言葉に、茉莉は頷いた。
翌日から、茉莉は「逆戻り」で苦しんでいる人たちのところを訪ねて回った。
佐藤さんには、失恋の辛さに寄り添った。トニックのことは説明せず、ただ話を聞いた。
「恋愛って、相手があることだから難しいですよね」
「そうなんです。自分だけではどうにもならなくて」
「でも、佐藤さんには佐藤さんの魅力があります。きっと、本当に佐藤さんを理解してくれる人に出会えますよ」
山田くんには、発表スキルの練習に付き合った。
「あの時できたんだから、また必ずできます。今度は、自分の力だけで」
「でも、緊張すると頭が真っ白になって」
「それは誰にでもあることです。練習を重ねれば、必ず慣れます」
一人一人に、時間をかけて向き合った。トニックのような劇的な効果はなかったが、確実に相手の心に寄り添うことができた。
そして、茉莉は気づいた。
本当の人助けとは、相手の問題を魔法のように解決することではない。相手が自分の力で立ち上がれるよう、そばにいて支えることなのだ。
時間はかかるかもしれない。劇的な変化はないかもしれない。でも、その人自身の力で得た成長は、決して失われることがない。
「私、やっと分かった気がします」
茉莉は一人呟いた。
でも、その夜、また不思議な夢を見た。
今度は、自分を含めて三人の女性が登場した。一人は自分、もう一人は以前から夢に出てくる人、そして三人目は初めて見る人だった。
三人目の女性は、年上に見えた。落ち着いていて、どこか神秘的な雰囲気があった。
「もうすぐ、時が来る」
その女性が言った。
「時?」
茉莉が聞くと、三人の女性が微笑んだ。
「大丈夫。あなたは正しい道を歩んでいる」
茉莉は目が覚めた後も、その夢のことが気になって仕方がなかった。




