第2章「最初のトニック」
美咲の件があってから、茉莉はトニックのことが気になって仕方がなかった。本当に効果があったのだろうか。それとも、ただの偶然だったのだろうか。
大学の心理学の授業で、プラセボ効果について学んだことがあった。薬だと思って偽の薬を飲んでも、実際に症状が改善することがある。トニックも、そういうものなのかもしれない。
でも、美咲の変化は確かに印象的だった。あれほど落ち込んでいたのに、トニックを飲んだ後は見違えるように前向きになっていた。
「もう一度、試してみようかな」
そう思っていた時、大学でちょうど良い機会があった。
同じ心理学科の田中さんという女性が、最近体調を崩していた。授業中もしんどそうで、顔色が悪かった。茉莉はいつも田中さんを心配していたが、それほど親しくないので、声をかけるのをためらっていた。
でも今日、田中さんが授業の後、一人で机に突っ伏しているのを見て、茉莉は思い切って声をかけた。
「田中さん、大丈夫ですか?」
「あ、茉莉さん。ありがとうございます。ちょっと体調が悪くて」
田中さんは申し訳なさそうに顔を上げた。確かに顔色が悪く、疲れているように見えた。
「何か、お手伝いできることがあれば」
「いえいえ、お気遣いなく。きっと、最近忙しすぎたんだと思います」
田中さんは遠慮がちに答えた。
茉莉は迷った。トニックのことを話すべきだろうか。でも、変に思われるかもしれない。
「あの、もしよろしければ、これを」
結局、茉莉は小さな容器に入れたトニックを取り出した。
「これは何ですか?」
「お茶の一種なんです。リラックス効果があって、疲れた時に飲むと良いと聞いて」
茉莉は美咲の時と同じように説明した。
「わざわざ、ありがとうございます」
田中さんは困惑しているようだったが、茉莉の気持ちを無下にするわけにもいかず、受け取ってくれた。
「お茶みたいで美味しいですね」
田中さんがトニックを口にすると、少し驚いたような表情を見せた。
「とても上品な味ですね。なんだか、心が落ち着きます」
「良かったです」
茉莉は安堵した。
それから数時間後、茉莉が図書館で勉強していると、田中さんがやってきた。
「茉莉さん、さっきはありがとうございました」
田中さんの顔色は、午前中とは見違えるほど良くなっていた。
「体調はいかがですか?」
「不思議なんです。あのお茶を飲んだ後、急に元気になって。まるで霧が晴れたみたいに、頭がすっきりして」
「それは良かったです」
茉莉は内心驚いていた。これで二回連続だった。偶然にしては、できすぎている。
「どこで手に入れたんですか?そのお茶」
「商店街の古道具屋で、レシピを見つけて」
「レシピ?手作りなんですか?」
「はい」
田中さんは感心したように言った。
「茉莉さんって、本当に優しいですね。人のことをいつも考えていて」
「そんなことないです」
茉莉は謙遜したが、内心では嬉しかった。人の役に立てているという実感があった。
その日の夕方、アルバイト先の書店で、店長の田島さんにトニックのことを話した。
「へえ、面白いじゃない。実際に効果があったの?」
「二人とも、飲んだ後に元気になったんです。でも、偶然かもしれませんが」
「偶然でも何でも、人が元気になったんでしょ?それって素晴らしいことじゃない」
田島さんは茉莉の肩を叩いた。
「茉莉ちゃんの優しさが、そのお茶に込められてるんだよ。だから効果があるんじゃないかな」
田島さんの言葉に、茉莉は少し自信を持った。
翌週、茉莉のトニックは大学内で話題になり始めていた。
田中さんが友人に話し、その友人がまた別の人に話し、という具合に、口コミで広まっていった。もちろん、「魔法の薬」なんて大げさな話ではなく、「茉莉さんが作ってくれる美味しいお茶で、飲むと元気になる」程度の話だった。
それでも、茉莉のところには「疲れた時に飲むお茶を分けてもらえませんか」という依頼が、ちらほら来るようになった。
最初は戸惑ったが、断る理由もなかった。材料費程度をもらって、必要な人に分けることにした。
そして、不思議なことに、トニックを飲んだ人たちには、小さな良いことが起こった。
恋愛相談をしていた先輩は、意中の人と偶然再会することができた。就職活動で悩んでいた同級生は、思いがけない企業から声をかけられた。家族関係で悩んでいた友人は、久しぶりに母親から優しい電話をもらった。
どれも小さなことだったが、確実に起こっていた。
茉莉は毎回、心を込めてトニックを作った。レシピノートの言葉を思い出しながら、「この人が幸せになりますように」という純粋な気持ちで調合した。
材料の準備も、いつしか茉莉の日課になっていた。茉莉花茶は、お茶専門店の店主と顔なじみになるほど頻繁に買うようになった。蜂蜜は、いくつかの種類を試して、最も優しい甘さのものを選んだ。月の水は、雨の夜には必ずベランダに容器を置くようになった。
そして何より、茉莉自身が変わっていった。
以前は一人でいることが多かった茉莉だったが、トニックを通じて多くの人と関わるようになった。相談を受ける機会も増え、人の話を聞くことの大切さを実感していた。
「茉莉ちゃん、最近明るくなったね」
田島さんが言った。
「そうですか?」
「うん。前は遠慮がちだったけど、最近は自分から話しかけることも多くなった。きっと、人の役に立てているという実感があるからだと思うよ」
確かに、茉莉は以前より自信を持てるようになっていた。自分にも人の役に立てることがある、という確信があった。
でも同時に、少し不安も感じていた。
トニックの効果が本当だとすれば、それはなぜなのだろう。ただのお茶に、そんな力があるのだろうか。それとも、本当に不思議な力があるのだろうか。
ある日、茉莉は改めてレシピノートを読み返した。
『奇跡とは起こすものではなく、気づくものなのです』
この言葉の意味を、茉莉は考えていた。
もしかすると、トニック自体に魔法の力があるのではなく、トニックを通じて人々が自分の中にある力に気づいているのかもしれない。
美咲は元々、問題を解決する力を持っていた。ただ、落ち込んでいて、その力を発揮できなかっただけ。田中さんも、体調不良の原因はストレスで、リラックスすれば自然に回復する状態だったのかもしれない。
「私は、きっかけを作っているだけなのかな」
そう思うと、少し気が楽になった。自分が奇跡を起こしているのではなく、相手の中にある力を引き出すお手伝いをしているだけ。
それなら、自分にもできることかもしれない。
11月に入り、大学祭の季節になった。
茉莉は心理学科の出し物の手伝いをしていたが、いつものように裏方の作業が多かった。ポスター作り、資料の準備、会場の設営。目立つ作業ではないが、茉莉には合っていた。
そんな時、同じ学科の山田くんが困った顔でやってきた。
「茉莉さん、例のお茶、分けてもらえませんか?」
山田くんは普段はクールな印象だったが、今日は焦っているように見えた。
「どうしたんですか?」
「実は、明日の大学祭で発表があるんです。でも、人前で話すのがすごく苦手で、今から緊張して」
山田くんは研究発表をすることになっていたが、あがり症で、いつも人前では頭が真っ白になってしまうという。
「分かりました。少しお待ちください」
茉莉は山田くんのためにトニックを作った。いつものように心を込めて、「山田くんが落ち着いて発表できますように」と願いながら。
「ありがとうございます。今日の夜に飲んでみます」
山田くんは感謝して帰っていった。
翌日の大学祭当日、茉莉は山田くんの発表を見に行った。心理学科の研究発表は、それほど大きな会場ではなかったが、学生や教授、一般の来場者も含めて50人ほどが集まっていた。
山田くんの順番になった。茉莉は少し緊張して見守った。
最初はやはり緊張しているようだったが、話し始めると次第に落ち着いてきた。声も明瞭で、内容も分かりやすかった。普段の山田くんからは想像できないほど、堂々としていた。
発表が終わると、会場から拍手が起こった。質疑応答でも、山田くんは的確に答えていた。
「すごかったですね」
発表後、茉莉は山田くんに声をかけた。
「ありがとうございます。あのお茶のおかげです」
山田くんは興奮していた。
「飲んだ後、不思議と落ち着けたんです。『きっと大丈夫』って思えて。それで、今朝も少し飲んでから会場に来ました」
「良かったです」
茉莉は嬉しかった。山田くんの努力が報われたのを見ることができて。
しかし、その時、思いがけない出来事が起こった。
山田くんの発表を聞いていた心理学科の教授が、茉莉のところにやってきたのだ。
「君が、例のお茶を作っている学生さんか?」
教授は興味深そうに茉莉を見た。
「はい」
「なかなか興味深い現象だね。学生たちの間で評判になっているのは聞いていたが、今日の山田くんの発表を見て確信した」
「確信、ですか?」
「山田くんは普段、人前で話すのが極度に苦手なんだ。それが今日は見違えるほど堂々としていた。何か特別なことがあったのかと思っていたが、君のお茶だったのか」
教授は研究者らしい興味を示していた。
「あの、それは...」
茉莉は戸惑った。教授に説明するとなると、レシピノートのことも話さなければならないかもしれない。
「心配しなくても良い。否定するつもりはない。むしろ、興味深い現象だと思っている」
教授は優しく微笑んだ。
「心理学には、暗示や自己効力感という概念がある。君のお茶が、そういった心理的効果を引き出している可能性がある。もちろん、科学的な検証は必要だが」
「科学的な検証?」
「そう。どういうメカニズムで効果を発揮しているのか、調べてみたいんだ。協力してもらえるかな?」
茉莉は迷った。トニックを科学的に調べるというのは、少し違う気がした。でも、教授の興味は純粋に学術的なもののようだった。
「少し考えさせてください」
「もちろん。急がなくても良い。でも、君がやっていることは、とても価値のあることだと思う」
教授はそう言って去っていった。
茉莉は複雑な気持ちだった。トニックの効果が認められるのは嬉しいが、科学的に分析されるのは何か違う気がした。
トニックの力は、分析できるようなものではない気がしていた。作り手の純粋な願い、というのは、数値化できるものではないから。
でも同時に、より多くの人に効果を認めてもらえれば、もっと多くの人の役に立てるかもしれない、とも思った。
茉莉は悩んでいた。




