第12章「新たな始まり」
統合から一ヶ月が経った7月のある日、茉莉は特別な報告を受けた。
橋本教授から、研究成果についての報告だった。
「茉莉さんの支援方法について、学会で発表する機会をいただきました」
教授は興奮していた。
「学生による学生のための心理的支援システム。そして、文化的な要素を取り入れた独自のアプローチ。とても注目されています」
茉莉は複雑な気持ちだった。
「トニックのことも含めて、ですか?」
「はい。もちろん、科学的に説明できる範囲で、ですが」
橋本教授は資料を見せてくれた。
「茉莉さんの『特製ハーブティー』による心理的効果。プラセボ効果、儀式的効果、そして何より、茉莉さんの真摯な姿勢による信頼関係の構築。これらが組み合わさって、高い効果を発揮している」
茉莉は微笑んだ。確かに、科学的に説明すれば、そういうことになるだろう。
でも、茉莉には分かっていた。トニックの真の力は、科学では測れない部分にあることを。
作り手の純粋な願い、相手への無条件の受容、そして可能性への信頼。
これらは数値化できないが、確実に相手に伝わる。
「発表の機会をいただけるのは光栄です」
茉莉は答えた。
「でも、私のアプローチの核心は、技法ではなく心構えにあります」
「心構え?」
「はい。相手のすべてを受け入れ、相手の力を信じること。そして、自分も含めて、誰もが多様な可能性を持っていることを認めること」
橋本教授は感心していた。
「それこそが、真のカウンセリングの神髄ですね」
その日の午後、茉莉は久しぶりに花想庵を訪ねた。
統合以来、店主とは会っていなかった。
「お久しぶりです」
店主は温かく迎えてくれた。
「統合は成功したようですね」
「はい。おかげさまで」
茉莉は店主に、最近の活動について報告した。
「素晴らしいことです。あなたは本当の意味で、人を支援できるようになりました」
「まだまだ学ぶことがたくさんあります」
「それで良いのです。完璧である必要はありません」
店主は微笑んだ。
「ところで、レシピノートの調子はいかがですか?」
茉莉はノートを取り出した。
「最近は、新しいレシピが現れることはなくなりました」
「それは良いことです。もう、ノートに頼る必要がないということですから」
確かに、茉莉は最近、ノートのレシピを見なくてもトニックを作れるようになっていた。
材料の配合も、心構えも、自然に身についていた。
「でも、時々新しいメッセージが現れます」
茉莉はノートの最新のページを見せた。
『あなたの旅は続く。新しい出会いを大切に』
『すべての人が、あなたのような支援者を必要としている』
『でも、一人で背負う必要はない。仲間を見つけ、共に歩もう』
店主は頷いていた。
「良いアドバイスですね。茉莉さんの次の段階への指針でしょう」
「次の段階?」
「はい。茉莉さんはもう、個人的な問題を解決しました。次は、より多くの人を支援する段階です」
店主の言葉に、茉莉は将来への展望を感じた。
カウンセラーになって、多くの人の相談に乗る。
でも、一人でできることには限界がある。
仲間を見つけて、一緒に活動する。
そんな未来が見えてきた。
8月に入ると、茉莉は新しい活動を始めた。
大学内で、学生による相談サークルを立ち上げたのだ。
「ピア・サポート・サークル」
専門的なカウンセラーではない学生同士が、お互いに支え合うためのサークル。
茉莉の呼びかけに、多くの学生が参加してくれた。
心理学科の学生だけでなく、様々な学部の学生が集まった。
「みんなで、お互いを支援し合いましょう」
茉莉は第1回のミーティングで挨拶した。
「専門的な技法は必要ありません。大切なのは、相手の話を聞き、相手を受け入れる気持ちです」
サークルの活動は、すぐに軌道に乗った。
週に1回のミーティングで、参加者同士が悩みを相談し合う。
月に1回の勉強会で、基本的な傾聴スキルを学ぶ。
そして、必要に応じて個別の相談も行う。
茉莉は指導的な立場にいたが、決して上から目線にならないよう気をつけていた。
自分も一人のメンバーとして、時には相談される側にもなった。
「茉莉さんって、相談者としても素晴らしいですね」
サークルのメンバーの一人が言った。
「自分の弱さも素直に話してくれるから、私たちも安心して相談できます」
茉莉は統合の経験により、自分の多面性を受け入れていた。
強い部分も弱い部分も、すべて自分の一部として認めている。
だから、相手にも同じように、すべてを受け入れることができた。
サークルの活動が評判になると、他大学からも見学者が来るようになった。
「このような活動を、私たちの大学でも始めたいのですが」
そんな依頼も増えてきた。
茉莉は喜んで協力した。
ノウハウを共有し、立ち上げの支援を行い、定期的な交流会も開催した。
「一つの大学だけでなく、広がっていくのは素晴らしいことですね」
橋本教授も感心していた。
「茉莉さんの活動は、もはや個人のレベルを超えていますね」
確かに、茉莉の活動は当初の予想を大きく超えて広がっていた。
でも、茉莉は決して慢心しなかった。
一人一人との関わりを大切にし、常に学び続ける姿勢を保っていた。
そんなある日、茉莉のもとに懐かしい人からの連絡があった。
佐藤さんからだった。
かつて、偽トニックの被害者の一人だった佐藤さん。恋愛関係の問題で苦しんでいた彼女だった。
「茉莉さん、お久しぶりです」
佐藤さんは明るい表情で茉莉を訪ねてきた。
「佐藤さん、お元気でしたか?」
「はい。実は、お礼を言いたくて」
佐藤さんの話によると、あの後、彼女は恋愛関係を一度リセットして、自分自身と向き合う時間を持ったという。
「最初は辛かったです。でも、茉莉さんが『本当の自分を見つめ直してみて』と言ってくれたおかげで」
佐藤さんは、その後半年間、恋愛よりも自分の成長に集中した。
読書をし、新しい趣味を見つけ、友人関係を深めた。
「そうしたら、自然に素敵な人との出会いがあったんです」
佐藤さんは幸せそうに話した。
「今度は、無理やりではなく、自然な形で恋愛関係に発展しました」
「それは良かったです」
茉莉は心から嬉しく思った。
「茉莉さんのおかげで、本当の恋愛を知ることができました」
佐藤さんの言葉に、茉莉は深い満足感を覚えた。
偽トニックで一時的に得た関係ではなく、佐藤さん自身の魅力で築いた真の関係。
これこそが、本当の幸せなのだ。
9月になると、茉莉は大学4年生として、就職活動を本格的に始めた。
進路は明確だった。臨床心理士になって、多くの人の支援をしたい。
大学院への進学を決め、橋本教授の指導の下で研究計画を立てた。
「学生によるピア・サポートシステムの効果について研究したいと思います」
「素晴らしいテーマですね」
橋本教授は賛成してくれた。
「茉莉さんの実践経験と理論的考察を組み合わせれば、きっと価値のある研究になるでしょう」
研究計画を立てる中で、茉莉は改めて自分の経験を振り返った。
トニックとの出会い、失敗と学習、統合の体験、そして現在の活動。
すべてが、今の自分を形作る大切な要素だった。
「失敗も、成功も、すべて意味があったんですね」
茉莉は一人呟いた。
そんな時、茉莉は特別な体験をした。
大学の図書館で研究していると、ふと懐かしい香りがした。
茉莉花の香りだった。
振り返ると、窓際の席に小さな花瓶があり、白い茉莉花が生けられていた。
「誰が置いたんだろう」
茉莉が近づくと、花瓶の横に小さなメモがあった。
『茉莉さんへ いつもありがとうございます。 あなたのおかげで、多くの人が救われています。 これからも、あなたらしく歩んでください。 ピア・サポート・サークル一同』
茉莉は涙が出そうになった。
サークルのメンバーたちが、こっそりと感謝の気持ちを表してくれたのだ。
茉莉花の香りに包まれながら、茉莉は深い感動を覚えた。
自分一人では何もできなかった。
でも、多くの人との出会いと支え合いによって、ここまで来ることができた。
トニックは、その最初のきっかけに過ぎなかった。
本当の力は、人と人とのつながりの中にあったのだ。
その夜、茉莉は久しぶりにレシピノートを開いた。
最後のページに、新しいメッセージがあった。
『旅は続く。でも、もう一人ではない』
『あなたの周りには、同じ志を持つ仲間がいる』
『そして、あなたの心の中には、私たちがいる』
『新しい章の始まり。素晴らしい未来が待っている』
茉莉は微笑んだ。
確かに、心の中に莉花と茉莉花の存在を感じることができた。
一人の時も、孤独ではない。
多くの人に支えられ、多くの人を支えている。
そんな豊かな人生を歩んでいる。
窓の外を見ると、美しい満月が浮かんでいた。
茉莉は月に向かって、小さく手を振った。
「ありがとう。みんな、ありがとう」
明日からも、新しい挑戦が始まる。
大学院での研究、より多くの人への支援、そして自分自身の成長。
でも、もう怖くない。
一人ではないから。
心の中には、莉花の勇気と茉莉花の知恵がある。
周りには、信頼できる仲間たちがいる。
そして何より、すべての人が持っている美しい可能性を信じることができる。
茉莉は希望に満ちた心で、明日への扉を開いた。
新しい物語の始まりだった。




