第10章「最後の試練」
翌日の朝、茉莉は大学で異常な事態に巻き込まれた。
キャンパス内で、複数の学生が同時に奇妙な体験をしていたのだ。
「茉莉さん!大変です!」
心理学科の同級生が慌てて茉莉のところに駆け込んできた。
「どうしたんですか?」
「学内で変なことが起こってるんです。建物が二重に見えたり、知らない人が歩いてたり」
茉莉の心臓がドキッとした。
「二重に見える?」
「はい。同じ場所に、違う建物が重なって見えるんです。それに、図書館には自分とそっくりな人がいるって言う学生もいて」
茉莉は急いで図書館に向かった。
図書館に着くと、確かに異常な光景があった。
いつもの図書館の風景に、微妙に違う図書館の風景が重なって見える。本の配置が違い、窓から見える景色も違う。
そして、茉莉と同じような年齢の女性が、茉莉とよく似た場所に座って勉強していた。
茉莉は息を呑んだ。
あれは、夢で見ていた「もう一人の自分」だった。
女性は茉莉に気づくと、驚いたような表情を見せた。そして、立ち上がって茉莉の方に歩いてきた。
でも、途中で姿が消えた。
茉莉は混乱した。これは一体何なのだろう。
その時、携帯電話が鳴った。橋本教授からだった。
「茉莉さん、すぐに研究室に来てください。緊急事態です」
橋本教授の研究室に向かうと、教授は深刻な表情で茉莉を迎えた。
「茉莉さん、学内で報告されている現象について、何か心当たりはありませんか?」
「現象?」
「複数の学生が、『別の世界』のような光景を目撃しています。そして、その多くが茉莉さんに関連している」
橋本教授は資料を見せてくれた。
学生たちからの報告書が山積みになっていた。
「茉莉さんと似た人を見た」「茉莉さんがいる場所に別の茉莉さんがいた」「茉莉さんの作ったお茶を飲んだ後に変な光景が見えた」
どれも、茉莉に関連する報告だった。
「教授、実は私も...」
茉莉は最近の体験を正直に話した。夢の中の人影、窓の向こうの自分、そして今朝の図書館での体験。
橋本教授は興味深そうに聞いていた。
「興味深いですね。集団幻覚にしては、あまりにも一貫性がある」
「集団幻覚?」
「複数の人が同時に似たような幻覚を見る現象です。でも、通常は暗示や心理的な要因で説明できるものですが...」
橋本教授は首を振った。
「今回の現象は、それだけでは説明できません」
その時、研究室のドアがノックされた。
「失礼します」
入ってきたのは、見知らぬ女性だった。
茉莉と同じくらいの年齢で、体格も似ている。でも、髪型や服装が違い、全体的にもっと活発な印象だった。
「あの、こちらに茉莉さんという方がいらっしゃると聞いたのですが」
女性は少し息を切らしていた。
「私が茉莉です」
茉莉が答えると、女性は驚いたような、でも安堵したような表情を見せた。
「私、莉花と申します。実は、緊急にお話ししたいことがあります」
莉花という名前に、茉莉は既視感を覚えた。どこかで聞いたことがあるような。
「実は、今、私の世界でも同じような現象が起こっているんです」
「あなたの世界?」
「はい。私も茉莉さんと同じように、不思議なお茶...トニックを作っていました。でも、私の世界では大変なことになってしまって」
莉花の説明は、茉莉には理解しがたいものだった。
別の世界、パラレルワールド、そして三つの世界の境界が曖昧になっているという話。
でも、莉花の話を聞いているうちに、茉莉は夢で見ていた光景を思い出した。
三人の女性。一人は自分、一人は莉花、そして三人目は...
「茉莉花という人もいるはずです」
茉莉が言うと、莉花は驚いた。
「知ってるんですか?」
「夢で見たことがあります」
橋本教授は困惑していたが、とりあえず莉花の話を聞くことにした。
莉花が説明したところによると、彼女の世界では茉莉花トニックが大暴走を起こし、街全体が混乱に陥っているという。
「物理法則がおかしくなってるんです。重力が効かなくなったり、時間の流れが変わったり」
「それは...」
茉莉は信じがたい話だった。
「でも、原因は分かってるんです。三つの世界の境界が不安定になってる」
「三つの世界?」
「はい。茉莉さんの世界、私の世界、そして茉莉花さんの世界。本来は別々だったのが、何かの影響で混じり合ってしまっている」
莉花の説明は、茉莉にはSF小説のように聞こえた。
でも、今朝の図書館での体験を思い出すと、あながち嘘ではないような気もした。
「その『茉莉花』という人に会うことはできるんですか?」
「それが、彼女から連絡があったんです。今日の夕方、三人で会うことになっています」
莉花は茉莉を見つめた。
「茉莉さんも一緒に来てもらえませんか?」
茉莉は迷った。あまりにも非現実的な話だった。
でも、最近の不思議な体験を考えると、無視することもできなかった。
「分かりました。行ってみます」
橋本教授は心配そうだった。
「茉莉さん、一人で行くのは危険かもしれません」
「大丈夫です。何かあったら連絡します」
茉莉は教授を安心させて、莉花と一緒に大学を出た。
莉花が案内したのは、商店街の奥にある古道具屋だった。
「花想庵」
茉莉が見慣れた看板があった。
「あ、私もこの店知ってます」
「そうなんですか?茉莉花さんとの待ち合わせ場所って聞いたんですが」
二人が店に入ると、いつもの店主が迎えてくれた。
「お待ちしていました」
店主は二人を奥の部屋に案内した。
そこには、もう一人女性が座っていた。
茉莉と莉花より少し年上に見える、落ち着いた印象の女性だった。美しく、どこか神秘的な雰囲気があった。
「初めまして。茉莉花です」
その女性は立ち上がって、二人に挨拶した。
茉莉は驚いた。確かに、夢で見ていた三人目の女性だった。
「あなたが茉莉花さん」
「はい。そして、あなたが茉莉さんですね」
茉莉花は優しく微笑んだ。
「莉花さんからは、お話を聞いています」
三人が向き合って座ると、不思議な感覚があった。
鏡を見ているような、でも微妙に違う。同じ魂の、異なる表現を見ているような。
「まず、状況を整理しましょう」
茉莉花が話し始めた。
「私たちは、本来一つだった存在が、三つの異なる世界に分かれたものです」
「一つだった存在?」
茉莉が聞くと、茉莉花は頷いた。
「はい。ある重要な選択の時に、異なる可能性が別々の世界として実現したのです」
「どんな選択だったんですか?」
莉花が質問した。
茉莉花は少し悲しそうな表情になった。
「大切な友人を救えなかった時です」
茉莉の心臓がドキッとした。そんな記憶があるような、ないような。
「私たちが小学生の頃、親友がいじめに遭っていました。でも、私は怖くて助けることができなかった」
茉莉花の言葉に、茉莉は記憶の奥底から何かが蘇ってくるのを感じた。
「その友人の名前は...」
「ジャスミンちゃん」
茉莉花が答えると、茉莉の目に涙が浮かんだ。
思い出した。
小学5年生の時、転校してきた女の子。おとなしくて、いつも一人でいた。茉莉は仲良くなりたかったが、クラスの一部の子たちがジャスミンちゃんをからかうようになった。
茉莉は助けたかった。でも、怖くて何もできなかった。
そして、ジャスミンちゃんは再び転校していった。
「私も覚えています」
莉花が言った。
「あの時、私も何もできなかった」
「私たちは、その後悔を抱えたまま大きくなりました」
茉莉花が続けた。
「そして、ある時、『もしあの時違う行動を取っていたら』という強い願いが、現実を分岐させたのです」
茉莉は理解した。
茉莉の世界では、人を助けたいという気持ちが強くなった。でも、慎重すぎて積極的になれない。
莉花の世界では、正義感が強くなった。でも、一人で問題を解決しようとしがち。
茉莉花の世界では、すべてを統合しようとする意志が生まれた。でも、完璧を求めすぎて苦しんでいる。
「今、三つの世界が不安定になっているのは、統合の時が来たからです」
茉莉花が説明した。
「私たちが成長し、それぞれの課題を乗り越えた今、再び一つになる時が来たのです」
「一つになるって、どういうことですか?」
茉莉が不安そうに聞いた。
「私たちの個性がなくなってしまうんですか?」
「いえ、そうではありません」
茉莉花は首を振った。
「すべての経験、すべての学び、すべての個性を統合した、より完全な存在になるのです」
「でも、それは簡単なことではありません」
店主が口を開いた。
「統合には、勇気が必要です。自分のすべてを受け入れ、他者のすべてを受け入れる勇気が」
三人は黙り込んだ。
「私、怖いです」
茉莉が正直に言った。
「今の自分じゃなくなってしまうのが」
「私も同じです」
莉花が続いた。
「でも、このままだと三つの世界すべてが不安定になってしまう」
茉莉花が深刻な表情で言った。
「私の世界では、時空の歪みがひどくなっています。物理法則が破綻して、多くの人が混乱しています」
「私の世界でも、トニック関連の問題が再発しています」
莉花が報告した。
「そして、茉莉さんの世界でも、今朝のような現象が起こり始めている」
茉莉は考えた。
自分たちの個人的な問題だけではない。多くの人に影響が及んでいる。
「分かりました」
茉莉は決意した。
「やってみます」
「本当ですか?」
莉花が嬉しそうに言った。
「はい。みんなのためにも、そして私たち自身のためにも」
茉莉花も微笑んだ。
「では、準備をしましょう」
統合の儀式は、その夜に行われることになった。
場所は花想庵の中庭。小さな庭園に、美しい茉莉花が植えられていた。
「この花が、私たちの象徴です」
店主が説明した。
「茉莉花は、異なる要素が一つになって美しい香りを放つ花です」
三人は庭園に座り、それぞれが特別なトニックを作ることになった。
茉莉は「最後のトニック」のレシピに従って、丁寧に調合した。
これまでの全ての経験、全ての学びを込めて。人を助けたいという純粋な気持ち、失敗から学んだ謙虚さ、そして他者を信じる心を。
莉花も同じように、自分なりのトニックを作っていた。
正義感と行動力、でも協力することの大切さも学んだ。一人では限界があるが、みんなで力を合わせれば大きなことができる。
茉莉花は、最も複雑なトニックを作っていた。
統合への意志、完璧主義からの解放、そして真の自己受容。すべてを背負う必要はない、でも逃げる必要もない。
三人のトニックが完成すると、店主が特別な器を取り出した。
「これは、『統合の杯』です。三つのトニックを一つにするためのものです」
三人のトニックを杯に注ぐと、美しい光が立ち上った。
金色で、茉莉花の香りがした。
「さあ、一緒に飲みましょう」
茉莉花が言った。
三人は手を繋いで、杯を口にした。
その瞬間、世界が変わった。
茉莉の意識は急速に拡大していった。
自分の記憶だけでなく、莉花の記憶、茉莉花の記憶も流れ込んできた。
体育大学での生活、陸上部での活動、正義感に燃えて問題に立ち向かう日々。
大学院での研究、複雑な世界での苦悩、すべてを統合しようとする意志。
三つの人生が、一つになっていく。
最初は混乱したが、だんだん調和していった。
茉莉の優しさ、莉花の強さ、茉莉花の知恵。
すべてが一つの存在の中で融合していく。
そして、茉莉は理解した。
これらはすべて、自分の一部だったのだ。
優しさも、強さも、知恵も。
完璧である必要はない。でも、すべてを受け入れることはできる。
光が収まると、茉莉は一人で庭園に座っていた。
でも、一人ではなかった。
心の中に、莉花の活発さがあり、茉莉花の深い洞察があった。
「茉莉さん」
店主が声をかけた。
「いかがですか?」
茉莉は微笑んだ。
「私は、私です。でも、以前よりずっと豊かな私になりました」
空を見上げると、美しい満月が浮かんでいた。
三つの世界は一つになり、新しい可能性が生まれた。
茉莉は立ち上がって、庭園の茉莉花に近づいた。
花は美しく咲いていて、素晴らしい香りを放っていた。
「ありがとう」
茉莉は花に向かって呟いた。
そして、新しい朝を迎える準備をした。




