第1章「古道具屋の午後」
大学の図書館は、いつものように静かだった。
茉莉は窓際の席で心理学の教科書を開いているが、集中できずにいる。周りからは友人たちの楽しそうな話し声が聞こえてくる。今度の週末の予定、気になる先輩の話、おすすめのカフェの情報。どれも茉莉には縁のない話ばかりだった。
「また一人で過ごしてる...」
小さくため息をつく。別に寂しいわけではない。一人の時間は嫌いではないし、むしろ人とのやり取りで疲れてしまうことの方が多い。でも時々、こうして周りの賑やかな声を聞いていると、自分だけが世界から取り残されているような気持ちになる。
「私って、人と関わるのが下手なのかな」
ふと、そんな考えが頭をよぎる。高校時代の親友、美咲はいつも言っていた。「茉莉は優しすぎるのよ。もっと自分のことを考えなさい」と。でも、自分のことを考えるって、一体どういうことなのだろう。
教科書のページをめくりながら、茉莉は今日読んだ箇所を思い出していた。「共感的理解」について書かれた章だった。相手の立場に立って物事を考えること。相手の気持ちに寄り添うこと。それは茉莉が自然にやっていることだったが、教科書ではそれを「カウンセラーに必要な能力」として説明していた。
「私にも、何かできることがあるのかな」
そう思いながら、茉莉は時計を見た。午後4時。今日のアルバイトは夕方からだった。書店での仕事は茉莉に合っていた。お客さんとの会話は必要最小限で済むし、本の整理や在庫管理は黙々とできる作業だった。何より、新しい本との出会いがある。
荷物をまとめて図書館を出ると、秋の爽やかな風が頬を撫でていった。大学から駅までの道のりには、古い商店街がある。いつもは真っ直ぐ駅に向かうのだが、今日は何となく商店街を歩いてみたくなった。
商店街は昔ながらの店が軒を連ねている。八百屋、魚屋、小さな食堂、駄菓子屋。どの店も温かみがあって、茉莉はこういう雰囲気が好きだった。人々がゆっくりと買い物を楽しんでいる様子を見ていると、心が穏やかになる。
そんな時、角の少し奥まった場所に、見慣れない店があることに気づいた。
「花想庵」
古い木の看板に、美しい文字で店名が書かれている。外観は町屋風で、格子戸の向こうに温かい光が見えた。古道具屋のようだった。
茉莉は古いものが好きだった。現代的なものも良いけれど、古いものには人の手の温もりや、時間の重みが感じられる。今まで気づかなかったのが不思議なくらい、素敵な佇まいの店だった。
「入ってみようかな」
少し迷ったが、好奇心が勝った。格子戸を開けると、小さな鈴の音が響いた。
「いらっしゃいませ」
店の奥から、上品な声が聞こえた。現れたのは60代くらいの女性だった。和装で、白髪を綺麗にまとめている。穏やかな表情だが、どこか鋭い眼差しを持っていた。
「古道具をご覧になりますか?」
「はい、少し見せていただければ」
茉莉は礼儀正しく答えた。店内は思ったより広く、様々な古道具が並んでいる。古い食器、家具、書籍、装飾品。どれも丁寧に手入れされていて、大切に扱われていることが分かった。
「学生さんですね」
店主が優しく微笑みかけた。
「はい、近くの大学に通っています」
「心理学を勉強されているのでしょう?」
茉莉は驚いた。どうして分かったのだろう。
「あの、どうして...?」
「なんとなく、そんな雰囲気を感じました。人の心に関心がおありなのでしょうね」
店主の言葉は不思議に的を射ていた。茉莉は確かに人の心に興味があった。どうして人はそう考えるのか、どうすれば相手の気持ちを理解できるのか、そんなことをいつも考えていた。
「実は、あなたにお見せしたいものがあります」
店主は奥の棚に向かった。そして、一冊の古い本を取り出した。
「これです」
手渡されたのは、美しい装丁の手書きノートだった。表紙には金の装飾が施され、中央に押し花が埋め込まれている。白い小さな花だった。
「茉莉花調合帖」
表紙にそう書かれていた。
「まつりか...」
茉莉は自分の名前と同じ響きに、不思議な縁を感じた。
「茉莉花は、ジャスミンのことです。とても香りの良い、美しい花ですね」
店主が説明した。
「このノートには、とても興味深いレシピが書かれています。あなたになら、きっと理解していただけると思います」
茉莉は恐る恐るノートを開いた。最初のページには、流れるような美しい文字で序文が書かれていた。
『心の奥の願いを叶える、優しい奇跡のレシピ』
その下に、小さく続いていた。
『真の幸せとは、与えることから始まる。このトニックは、作り手の純粋な願いによって、小さな奇跡をもたらすでしょう。しかし忘れてはならない。奇跡とは起こすものではなく、気づくものなのです』
茉莉の心臓が早鐘を打った。何か特別なものに出会った予感がした。
ページをめくると、詳細なレシピが書かれていた。材料は意外にもシンプルだった。
『茉莉花茶、蜂蜜、月の水、そして作り手の純粋な願い』
茉莉花茶は知っていた。ジャスミン茶のことだろう。蜂蜜も分かる。でも「月の水」とは何だろう。
下の方に、小さく説明が書かれていた。
『月の水とは、満月の夜に集めた雨水のこと。しかし真に大切なのは、水そのものではなく、それを集める時の心の在り方である』
茉莉はもう少しページをめくってみた。調合方法、使用法、効果について詳しく書かれている。どのページも丁寧で美しい文字で埋められていた。
しかし、最後の方のページが破り取られていることに気づいた。きれいに切り取られているのではなく、無理やり破られたような跡があった。
「あの、最後のページが...」
「ああ、それは残念ながら、以前からそうなのです。大切なことが書かれていたのかもしれませんが、今となっては分かりません」
店主は少し困ったような表情を見せた。
「でも、基本的なレシピは完全に残っています。あなたになら、きっと正しく使っていただけると思います」
「私に、ですか?」
茉莉は戸惑った。自分は特別な人間ではない。ただの大学生で、人見知りで、これといって得意なこともない。
「はい。このノートはあなたを選んだのです」
店主の言葉は、不思議な確信に満ちていた。
「選んだ、って...」
「古いものには、魂が宿るものです。このノートも、長い間、適切な持ち主を待っていたのでしょう。そして今日、あなたがここにいらっしゃった」
茉莉はノートを見つめた。確かに、手に取った瞬間から、何か温かいものを感じていた。まるで、ずっと前から知っているもののような、不思議な懐かしさがあった。
「お値段は...」
「3000円です」
意外に安かった。古書店で見るような古い本でも、もっと高いものが多い。これほど美しく、丁寧に作られたノートが3000円というのは、むしろ安すぎるくらいだった。
茉莉は財布を確認した。今日もらったアルバイト代の一部があった。
「いただきます」
「ありがとうございます。きっと、素晴らしいことが起こりますよ」
店主は温かく微笑んだ。
「あの、もしこのレシピを試してみて、分からないことがあったら、相談に来てもいいでしょうか?」
「もちろんです。いつでもお待ちしています」
茉莉はノートを大切に抱えて店を出た。夕方の商店街は、さっきよりも賑やかになっていた。でも茉莉の心は、ノートのことでいっぱいだった。
アルバイト先の書店に向かいながら、茉莉は今日の出来事を振り返っていた。まるで導かれるように古道具屋に入り、不思議なノートと出会った。偶然にしては、できすぎている気がした。
「茉莉花調合帖か...」
自分の名前と響きが似ているのも、何かの縁かもしれない。
書店に着くと、店長の田島さんが温かく迎えてくれた。
「茉莉ちゃん、今日は少し遅かったね」
「すみません、途中で古道具屋に寄ってしまって」
「古道具屋?珍しいね。何か良いものでも見つけた?」
茉莉は少し迷ったが、ノートのことを話すことにした。田島さんは茉莉の良き理解者で、いつも温かく見守ってくれていた。
「へえ、面白そうじゃない。茉莉ちゃんらしい買い物だね」
田島さんは興味深そうに言った。
「らしい、ですか?」
「うん。茉莉ちゃんはいつも、人のために何かしたいって思ってるでしょ?そういう子が、そういうノートに出会うのって、偶然じゃないと思うな」
田島さんの言葉に、茉莉は少し驚いた。自分では意識していなかったが、確かに人の役に立ちたいという気持ちは常にあった。
その日の仕事中、茉莉の頭の中はノートのことでいっぱいだった。本の整理をしながら、レシピのことを考えていた。茉莉花茶、蜂蜜、月の水、そして純粋な願い。
「純粋な願いって、何だろう」
仕事が終わって家に帰ると、茉莉は早速ノートを開いた。アパートの小さなダイニングテーブルに座り、一ページずつ丁寧に読んでいく。
レシピは思っていたより詳細だった。茉莉花茶の選び方、蜂蜜の種類、月の水の集め方。そして、最も重要な「作り手の純粋な願い」について。
『真の願いとは、自分のためのものではなく、他者の幸せを純粋に望むことである。見返りを求めず、結果にとらわれず、ただ相手の笑顔を思い浮かべること。その時、奇跡は起こる』
茉莉は胸が温かくなるのを感じた。これは、自分がずっと求めていたものかもしれない。人の役に立つ方法、相手を幸せにする方法。
でも同時に、少し不安もあった。本当にこんなことが可能なのだろうか。そもそも、これは現実的なレシピなのだろうか。
「でも、やってみなければ分からない」
茉莉は決心した。明日、材料を揃えてみよう。
次の日は土曜日だった。茉莉は早起きして、材料を買いに出かけた。
茉莉花茶は、駅前のお茶専門店で見つけた。店主に説明してもらうと、ジャスミンの花で香りづけしたお茶で、リラックス効果があるという。香りを嗅いでみると、確かに上品で優雅な香りがした。
蜂蜜は、商店街の小さな食材店で購入した。国産の、優しい甘さのものを選んだ。
問題は「月の水」だった。満月の夜に集めた雨水。次の満月まで待つのかと思ったが、ノートをよく読むと、別の方法も書かれていた。
『真に大切なのは、水そのものではなく、それを集める時の心の在り方である。清らかな気持ちで、夜空を見上げながら集めた水であれば、月の光を受けた水と同じ力を持つ』
茉莉は安堵した。昨夜、少し雨が降っていた。ベランダに置いていた植木鉢の受け皿に、雨水が溜まっていた。夜中に外を見上げた時の、清々しい気持ちを思い出しながら、その水を大切に容器に移した。
材料が揃ったので、早速調合してみることにした。
ノートの指示に従って、まず茉莉花茶を丁寧に淹れた。普段よりも時間をかけて、心を込めて。お湯の温度、蒸らし時間、すべてを丁寧に。
茶葉の香りが部屋に広がった。とても優雅で、気持ちが落ち着く香りだった。
次に、蜂蜜を加えた。ノートには「甘さは控えめに、自然な甘さを大切に」と書かれていた。茉莉は蜂蜜をゆっくりと溶かしながら、飲む人の幸せを願った。
最後に、月の水を数滴加えた。その瞬間、茶の色が微かに変わった気がした。透明感が増したような、光を含んだような。
「作り手の純粋な願い」
茉莉は目を閉じて、心を込めた。誰かの役に立ちたい。困っている人がいたら、少しでも楽になってもらいたい。見返りは求めない。ただ、相手が笑顔になってくれれば、それで十分。
そんな気持ちを込めて、最後にそっとかき混ぜた。
完成したトニックは、透明で美しい液体だった。茉莉花の香りがして、とても上品だった。
「でも、本当に効果があるのかな」
茉莉は少し疑問に思った。見た目はただのお茶のようだった。
ちょうどその時、携帯電話が鳴った。親友の美咲からだった。
「茉莉、今度の火曜日、空いてる?」
「火曜日?大学があるけど、午後からなら」
「実は、バイト先で困ったことがあって、相談に乗ってもらいたいの」
美咲はいつも明るく積極的で、茉莉とは正反対の性格だった。そんな美咲が相談事があるというのは珍しかった。
「もちろん、いいよ。どうしたの?」
「電話だと長くなりそうだから、会った時に話すね。カフェでも行きましょう」
電話を切った後、茉莉はトニックを見つめた。美咲が困っている。何か力になれることがあるだろうか。
「そうだ」
茉莉はトニックの一部を小さな容器に移した。美咲に持参してみよう。もちろん、変な飲み物だと思われるかもしれない。でも、美咲なら茉莉の気持ちを理解してくれるだろう。
火曜日の午後、茉莉は美咲と約束のカフェで会った。美咲はいつものように明るく振る舞っていたが、どこか元気がないように見えた。
「実は、バイト先の先輩とトラブルがあって」
美咲が説明したところによると、アルバイト先のカフェで、同じシフトの先輩との関係がうまくいっていないという。美咲の明るい性格を「調子に乗っている」と誤解され、冷たく当たられているらしい。
「私、何か悪いことしたのかな。でも、思い当たることがないの」
美咲は珍しく弱気だった。いつもの元気な美咲しか知らない茉莉には、こんな美咲を見るのは初めてだった。
「美咲は何も悪くないよ。きっと、その先輩の方も何か事情があるんじゃないかな」
茉莉は美咲を慰めた。そして、意を決してトニックを取り出した。
「実は、これを持ってきたの」
小さな瓶に入った透明な液体を見せた。
「何これ?」
「お茶の一種なんだけど、リラックス効果があるって聞いて。良かったら飲んでみない?」
茉莉は正直に、古道具屋でノートを買ったこと、レシピに従って作ったことを説明した。もちろん、「奇跡を起こす」なんて部分は伏せて、「心を落ち着かせる効果がある」程度に留めた。
「茉莉らしいね」
美咲は微笑んだ。
「いつも人のことを考えてる。ありがとう、飲んでみる」
美咲がトニックを口にした瞬間、表情が変わった。
「美味しい!すごく上品な味。なんだか、心が軽くなった気がする」
「本当?」
「うん。茉莉が心を込めて作ってくれたからかな。ありがとう」
美咲はトニックを飲み終えると、不思議と元気を取り戻したように見えた。
「なんだか、勇気が出てきた。明日、その先輩と話してみる。誤解があるなら、解いた方がいいよね」
「そうだね。美咲の気持ちが伝われば、きっと分かってもらえるよ」
その日の夜、美咲からメールが来た。
「茉莉、ありがとう!先輩と話せたよ。実は先輩も新人の頃にいじめられた経験があって、私を見てると昔の自分を思い出して辛くなってたんだって。今度一緒にお茶しようって誘ってくれた!」
茉莉は驚いた。トニックの効果だろうか。それとも、単なる偶然だろうか。
でも、美咲が元気になったことは確かだった。それだけで、茉莉は嬉しかった。




