韮沢隆治の話⑨
「けれど、もう一つ、強烈なインパクトを与えられるものがある」
響壱は続けた。
「スピードだ。お前もわかっているだろうが、球速なんて、実際はそれほど重要じゃない。いくら速いボールを投げられたって、打たれたら意味がないんだからな。それに、速いだけで、ストライクが入らない奴が、プロですら多いけども、これも困りものだ。しかし、野球に詳しくなくても、すごいとわかるからだろうな。世間、特にマスコミは、そいつが大好きだ。おそらく百五十キロ以上を出せば、間違いなく騒いでくれるから、プロのスカウトにも情報が確実に伝わって、しっかり観てもらえるだろう」
そこで彼は一拍間を置いた。
「それでだ。幼い頃、左投げに変えるように勧めた俺が、こんなこと言うのはどうかと思うけれども、利き腕なんだし、もし右のほうが速い球を投げられるなら、そっちに戻したらどうだ? もちろんどうするかはお前が決めればいいが、そのことを言いたくて今日は来たんだ」
響壱は、自分のために左投げに変えさせた真実は口にしなかった。それは、やはり打ち明けづらかったのもあるけれども、今そのことを話して隆治に余計な負の感情を起こすべきではないというほうが大きかったのだった。
「そっか……。うーん……」
隆治はどうするか悩んだ。
確かに、今もボールを投げるのに、よりしっくりくるのは利き腕の右であり、球速だけだったら左以上に出せる予感があった。とはいえ、右ではまともにピッチングをした経験は皆無に近いくらいなのだ。実戦は少なくても、ずっと練習はしてきた左は完成度が高いのである。
「まあ、今すぐに結論を出す必要はないんだ。じっくり考えろよ」
そう言い残して、響壱は自分の住まいに帰っていった。
何日もの間、考えを巡らせ、隆治は決めた。
右投げでいく——と。
努力すれば、やはり右のほうが速いボールを投げられる感じがするし、左ではいくら頑張っても、肝心の圭吾を打ち取れる領域までは届かない気がしたのだ。
ただし、右投げでは左打ちの圭吾に対して不利なのに加え、すでに精一杯やっている今よりも練習に励まなければならない。
しかし、もう迷いはなかった。
「そうか。わかった。応援するから、頑張れよ」
電話で報告すると、響壱はそう言い、それまでも、働き始めたばかりで多くはないのに、給料の一部を親に渡していたが、その金額を増やし、隆治のアルバイトの時間を減らせるようにした。本人に伝えたように応援の気持ちとともに、左投げに変えさせた過去の罪滅ぼしもあった。
そうして、時間が経過し、隆治の高校三年生の七月、たった一度、それもトーナメントなので本当に一回負ければ終わりの、夏の大会を迎えたのだった。
「……」
一回戦、マウンドに上がった隆治は、試合前の投球練習の最中に、手にしているボールをしげしげと見つめた。
様子がおかしいと思い、キャッチャーのコが彼のもとにやってきた。
「どうした? 韮沢」
「いや、やっとここに来たなって、感慨に浸っちゃってさ」
「確かに、お前、本当によく頑張ったよ。練習に、バイトに、勉強だってちゃんとやってたもんな」
もちろん隆治にとっての「やっとここに来た」とは、キャッチャーの部員が口にした、高校での努力だけをさすのではない。中学では一度も試合でピッチングをすることができずに終わり、少年野球チーム時代は利き腕ではない左投げだったので、右手を使って公式戦で投げるのは初めてなのである。彼の実力は本物だけれども、懸念材料があるとすれば、その実戦経験の乏しさといえる。
「ちゃんと受け取ってやるから、思いきり投げろよ」
「うん。ありがとう」
キャッチャーがホームベースのところに戻っていき、プレーを開始する時刻となって、相手の一番打者がバッターボックスに入った。
キャッチャーからのサインはストレート。隆治はうなずいた。
脚を上げ、第一球を——
投げた。