韮沢隆治の話⑧
翌日、隆治は、通っている高校の、野球部を訪れた。
「聞いていただきたい話があります」
そう告げて、部室に全員が揃ったところで、彼は改めて口を開いた。
「以前に、期待をかけていただいたにもかかわらず、わずかな期間で部を辞めてしまい、申し訳ありませんでした」
隆治はそのとき、「家庭の事情により活動できなくなったので退部する」と申しでて、詳しくは説明しなかった。親が経営していた会社がつぶれて生活が苦しくなったことが原因というのは、彼でなくてもしゃべりたくはないし、そこまで明確に言わなくても失礼には当たらないだろう。
けれども、隆治は今回、その家のことを洗いざらい話したうえで、以下のように述べたのだった。
「というわけで、野球をする場合ではなくなってしまい、今も状況はほとんど変わっていないのですが、離れてから、やっぱり野球をどうしてもやりたい気持ちがわいてきたんです。アルバイトをしなければならないので、毎日きちんと練習に参加することはできませんけれども、その足りないぶんは空いている時間に一人でトレーニングをして補いますので、どうかもう一度野球部に入れてください。お願いします」
そして、大きく頭を下げた。
恥を忍んですべてをさらけだし、とても礼儀正しい態度で野球への情熱を口にした彼に、部員たちは感銘を受けた。そうでなくとも、公立校で強くないこの野球部に、彼の力があることがどれくらいありがたいか。
結果——
「おう! 頑張っていこうな、韮沢!」
「お前がいれば千人力だ!」
「力があるのはわかってるから、バイトや家のことが大変なときは、無理に練習しなくていいぞ」
このように、隆治は大歓迎で受け入れてもらったのだった。
拒まれる要素が一つもなかったからではあるが、彼が人間的に一皮むけたことで、事あるごとに寄ってくる悪い運も、このときばかりは入り込む余地がなかった、と言えるかもしれない。
隆治は、野球部のメンバーたちに公言した通り、アルバイトをしながら、出られるときは部の練習に参加し、無理なときも合間の時間に一人でトレーニングを行った。
才能があるとはいえ、約一年半のブランクに加え、中学時代もピッチャーは実戦でやっていないため、相当な努力が必要だが、元々性格が真面目なのと、生まれて初めてくらいの強い欲求である圭吾との対戦という目標があるゆえに、ハードな毎日でも、途中で投げだすことも、サボって遊びに興じたりすることも、一切なかったのだった。
そんな弟の様子を両親から聞いて、響壱が電話をかけてきた。
「お前、勉強とバイトだけでも大変だろうに、また野球部に入ったんだって?」
「うん」
「しかも、時間があるときは、家でもトレーニングをしてるって聞いたけど、何かあったのか?」
「うん、実はね……」
隆治は兄に、あの、日本シリーズ第一戦のホームランを見て、受けた衝撃を語り、「プロ野球の選手になって、圭吾と勝負がしたい」という、自らの意志を伝えた。
「そういうことか」
響壱は、兄弟で性格をよく知っているだけに、野球を好きで才能はあっても、意欲に乏しい隆治がそんなにも頑張っていることに多少の違和感があったけれども、話を聞いて合点がいった。日本シリーズは、圭吾がその後もヒットを量産したりした結果、レッズがあっという間に四勝をあげて日本一となったのだが、「勝敗は一戦目の杉森のホームランで決まったようなものだ」と多くの解説者がコメントしたくらい、隆治でなくても「衝撃を受けた」と発言すれば納得する一打だったのである。
電話による会話の数日後、響壱は弟のもとにやってきた。
「才能があるお前が努力もすれば、プロのレベルに絶対到達するよ。俺が保証するから、自信を持って、その状態を継続しろ」
「うん。ありがとう」
「ただ、いくら力があっても、プロの側がそう判断して、ドラフトで指名してくれなければ、入団できないっていう問題がある」
「わかってる。だから、注目度の高い夏の大会で活躍して、スカウトの目に留まるように、来年の夏に標準を合わせて練習してるんだ」
「そうか。でも、おそらく、スカウトは候補の球児を長い期間観て、プロの世界で通用するか判断する傾向が強い。候補者は高校生以外にも大学生や社会人、その他にも大勢いるわけだし、その一大会のみだと、よほどのインパクトを残さない限り、『たまたま調子が良かっただけかもしれない』みたいに思われて、指名漏れに遭う可能性が大きいだろう。日本じゅうの誰もが知っているくらいの大物バッターを完璧というレベルで抑えることができれば、評価は高くなるに違いないが、対戦が叶わなかったら話にならない。お前は良くても、打つほうがそんなに期待を持てないだろうから、早い段階で敗退してしまう確率だって低くはない」
「うん……」
そう指摘を受けて、隆治は内心あった不安が膨らんだ。
しかし、響壱は、弟に厳しい現実を突きつけるために、わざわざ足を運んだのではなかったのだった。