韮沢隆治の話⑦
そうした暮らしが続いて、一年半近くのときが経った。
隆治の父親は新たな職を得たものの、収入は事業を営んでいた当時よりかなり減り、生活は会社が倒産した直後と比べて多少ましになった程度で、家計が苦しい状態なのは変わらない。
「お母さん。プロ野球の試合がやるから、テレビをつけてもいい?」
「いいわよ」
自宅のアパートの部屋で、隆治が尋ね、彼の母親が答えた。普段は電気代がかかるためにテレビをほとんど使用しないので、わざわざ訊いたのだけれども、別に両親ともテレビを観るのを禁じてなどはいない。
最近は、国内で一、二を争う人気スポーツのプロ野球でも、通常のリーグ戦はめったに中継をしないが、この日の試合は日本シリーズの第一戦で放送があり、アルバイトが休みなのと重なったのもあって、隆治は観戦することにしたのだった。
対戦するチームは、トラディショナルリーグで優勝した東京アローズと、エマージングリーグを制した青森レッズである。青森レッズには、およそ三年前に電撃トレードによって北信越ロケッツから移ってきて、レッズを十八年ぶりのリーグ優勝に導いた、天才バッターの杉森圭吾がいる。めったに使わないテレビをつけることにしたのは、誰もが認める、我が国におけるナンバーワンのバッターである、その圭吾の日本シリーズでのプレーを観たい気持ちも当然あった。
アローズの先発投手は、バーンズという助っ人外国人選手だ。身長は二メートル近くもあるこのピッチャーは、通算で百勝以上している現役バリバリのメジャーリーガーだったけれども、日本人女性と結婚したことに加え、その影響で少なくない日本人の知り合いが口を揃えて「すごい能力の選手だ」と言い、自身が所属していたメジャーリーグの球団で将来獲得するかもしれないので調査しているスカウトらも「アメリカでも打撃タイトルをいくつも獲る力がある」と太鼓判を押す、圭吾と対戦したいとの思いから、日本にやってきたのであった。
なので、北信越ロケッツと同じトラディショナルリーグのアローズと契約したのだが、まだ対戦していない段階で、圭吾が違うリーグに移籍してしまうという悲劇に見舞われた。そのシーズン終了後に、エマージングリーグのチームに自身も移ることもできなくはなかったものの、親会社が潤沢な資金を有するアローズほどの年俸を払える球団はないし、交流戦や日本シリーズでも対戦できるといった理由から、アローズに残留してプレーを続け、今年で四年目を迎えていた。そのすべての年で二桁勝利をあげている。
圭吾とは交流戦で幾度かは対戦できたけれど、日本シリーズという大舞台での勝負は、彼の念願といえた。
この試合はアローズの本拠地のトーキョースタジアムで行われており、一回表のレッズの攻撃は三者凡退で終わったので、二回の表に訪れた、四番バッターの圭吾の第一打席。バーンズは、見るからに気合いが入っていて、百六十キロに達する豪速球を投げたのだが、それを圭吾は完璧に捕らえ、ライトスタンドの上段に到達する、特大のホームランをかっ飛ばしたのだ。
「……」
その場面を目にした隆治は、驚きで固まった。
すごい……すご過ぎる。
声には出さなかったが、彼は心の中でそうつぶやいていた。
まだ未成年とはいえ、隆治は野球を始めてからけっこうな月日を過ごした。素晴らしいプレーは数えきれないほど見ている。それでも、ここまでの衝撃を受けたことはなかった。圭吾は同じくらい人々を驚嘆させるバッティングを過去に何度も披露していたけれども、隆治は、自分の野球の練習や、くり返しになるが最近は電気代がかかるからとテレビをほとんどつけなかったために、目にしても、リアルタイムではなく、打つことがわかっている編集されたものだったので、びっくりまではしていなかったのである。
この瞬間、彼の中の何かが目覚めた。今までご覧いただいてきたように、隆治は控えめな性格で、悪い言葉を使えば、覇気がないともいえる、欲というものとは無縁に近い日々を送ってきた。
しかし、はっきりこのように思ったのだ。
杉森選手と勝負がしたい。そして、打ち取りたい——。