韮沢隆治の話⑤
月日は流れ、拓夢たち一学年上の世代が、野球部からの引退を迎えた。やっと隆治がピッチャーを解禁できるときが訪れたのである。
「行ってきまーす!」
普段は感情の起伏が大きくない彼でも、さすがにその日はスキップしたくなるくらいにワクワクした気分で登校して、学校の門をくぐった。
「韮沢くん、ちょっといい?」
部活が始まるまであともう少しに迫った、昼休みの時間に、隆治は、クラスは異なるが同学年で、これまで一緒に野球部で頑張ってきた、吉竹瑛太という男子生徒に呼ばれ、廊下で向かい合った。
「なに?」
「うん……」
隆治がいよいよピッチャーができるために明るい表情なのに対し、瑛太はなぜだか冴えない顔つきだ。
「あのさ、先輩たちが部を引退して、韮沢くん、ピッチャーをやろうと思ってるんじゃないの?」
「うん。そのつもりだけど」
瑛太は、といっても彼だけではなく、一年生のときに隆治のピッチングを目にした、同学年の野球部員たち一人残らずだけれども、現場は見ていなくても、拓夢が隆治に投手をやらせないようにしていたことは、隆治もそうだったように、拓夢の性格から、察しがついていたのだ。
「その……言いにくいんだけど、僕もやりたいから、ピッチャーをするのはやめてほしいんだ」
「え?」
当然だが、思いもしなかった、またそれ以上に、身勝手といえる、彼のお願いに、隆治は驚いた。
「実はね、うちの家、経済的に厳しくて、高校に行くのはなんとかなるんじゃないかと思うけど、野球部に入って活動するのは確実に無理なんだ。多分、バイトざんまいって感じになると思う。野球に打ち込めるのは、中学の終わりまで。つまり、あと一年だけってわけ。だから、本当にひどいことを言ってるってわかってるけど、ピッチャーは僕に譲ってほしいんだ」
瑛太も、拓夢の前でピッチングを行った一人だった。力量はまずまずといったところである。隆治さえいなければ背番号一を背負える確率が相当に高まり、一方で、隆治がピッチャーをやればそれは絶対というくらいに無理なのは、確かな話だ。
「うーん……」
隆治はどうするか迷った。
果たして、この求めを受け入れる人はどれくらいいるだろうか。いくら、言葉遣いでおわかりになるように瑛太が悪い人間ではなく、ともに汗水垂らして練習に励んできた、絆は強いであろう同い年の仲間だとしても。隆治が譲ったとしても、彼が野球を続けられる期間に変化はないのだし、ピッチャーをまったくできなくなるわけではない。エースは無理でも、二番手や三番手で、やることは可能なのだ。何より、隆治は長いことピッチャーを我慢してきたのである。
しかし——。
「わかった。いいよ」
「ほんとに?」
「うん」
人の善い隆治は承諾したのだった。
こうして、彼は中学時代、個人的な場で練習はしていたものの、公にはピッチャーとして一球も投げずに終わったのであった。