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韮沢隆治の話②

 隆治には、歳が三つ上の、兄がいる。名前は響壱という。

 何もしていないときは、良い体格とはいえないし、おとなしい雰囲気から、文化系のコなのかと多くの人に思われるくらい、スポーツをやっている印象がない隆治とは対照的に、背は高めで、見るからに運動ができそうな、彼が熱心に取り組んでいた影響で、隆治も野球を始めたのだった。

 響壱は隆治を、溺愛もしていなければ、嫌ってもおらず、兄弟は平均的な仲の良さといえた。

 二人ともプロ野球の同じ投手のファンになり、といっても、それも隆治は兄の受け売りの側面が強いのだけれども、ゆえにプレーするようになって希望するポジションはお互いにピッチャーだ。先に地元の少年野球チームに所属し、運動神経が良くてスポーツ万能の響壱は、上級生を押しのけてエースとなっていた。そこに、隆治が「僕も入りたい」と言ってきたのだ。

「おー、そうか。もちろんいいぞ」

 響壱は歓迎した。通常であれば、悪くない兄弟の関係はさらに好ましい方向へ進んだであろう。

 ところが、だ。

「俺、キャッチャーをやってやるから、投げてみろよ」

「ほんと? わかった」

 響壱は、自分の、主に野球のことで頭がいっぱいで、近所の広場などで行っていた弟のプレーをうっすら目にしてはいたものの、そんなに真剣には見ていなかった。

 けれども、一緒のチームでやることになったので、隆治が入ってくる直前に、どんなものかと思ってキャッチャーを買ってでて、自宅のすぐそばの通りでボールを受けたところ、その能力の高さにびっくりした。

「……マジかよ……」

 響壱は小学校の五年生で、隆治は二年生。さすがに現在の時点では響壱のほうが力は上だが、すぐに追い抜かれると彼はわかったのだった。

 響壱は運動ができるので、その方面の分析に長けているのもあったけれど、にしても、謙と同じく何球か見た程度で、受け入れ難い現実を認めざるを得なかったほどに、隆治のピッチャーの才能はたぐいまれだったのである。

「どう?」

 自分がそこまでの力量であることも、響壱の驚きも、何もわかっていない隆治は、軽い調子で尋ねた。

「ああ……。お前、いい球、投げるな……」

 響壱は、なんともないふうを装っていたが、顔面蒼白になっていた。

 大人であれば、下のきょうだいが自分より優秀でも、なんてことはないだろう。むしろ、嬉しく感じる人も少なくない。しかし、今の響壱の年頃は、一番鼻っ柱が強い時期ともいえる。まして、体格差が大きい小学生で、一歳下くらいならまだしも、三つも離れた弟に、得意なスポーツ、なかでも最も好きな野球で、そんなに遠くない未来に負けてしまうなんて、これほどプライドが傷つけられることがあるだろうか。

 そのため、普段は、弟に限らず誰に対しても、意地悪なんてほとんどしない彼だけれども、少し経ち、チームに加入して間もない隆治の、選手としての成長の伸びを抑える目的で、ある夜、まだ自分の部屋を与えられておらず、ほとんどをリビングで過ごしている本人に、他の家族に聞かれないタイミングを見計らって、こう話しかけたのだ。

「なあ、隆治」

「ん?」

 寝転んで漫画を読んでいた隆治は、そのままの状態で返事の声を発した。

「お前さ、将来、プロ野球の選手になりたくないか?」

「え? そりゃあ、なれるものならなりたいけど」

「じゃあ、いいことを教えてやるよ」

「なに?」

 隆治は体を起こして、しっかり聴く体勢になった。

「左投げのピッチャーになるんだよ。バッターは昔に比べて左打ちの選手が増えている。その左打ちのバッターは、右投げよりも左投げのピッチャーのボールのほうが打ちづらいし、左利きの人の割合は小さいから、左投げのピッチャーも当然人数が少なくて、貴重なんだ。だから、どこのチームも左投げのピッチャーを欲しがる。もしも右投げと左投げで力がまったく一緒のピッチャーが二人いたとしたら、右よりも左投げの奴のほうがプロになれる確率は断然高いんだよ」

「ふーん。そっかあ」

 隆治は、その内容に感心はしたけれども、自分とは関係ない話という感覚だった。

 響壱は続けた。

「それで、この前、家の近くでボールを受けたけど、お前、すごくピッチャーの素質があるよ。びっくりした。プロも夢じゃないと、俺は本気で思ってる。ただ、そうはいってもプロは甘くないし、いざ入るときにどんな思いも寄らないことが起きるかもわからない。できるだけ可能性を高くしておいたほうがいい。だからさ、思いきって、今のうちから、左投げに変えちゃえよ」

「ええ? でも……」

 隆治は躊躇した。

 それはそうだろう。プロの選手になりたくないことは、会話の最初に訊かれて答えた通り、もちろんない。とはいえ、かなり先の話で、今やるプレーを楽しみたい。「利き腕じゃないほうで投げるなんて大変で、嫌だ」と思うのは、八歳という年齢を踏まえればなおのこと、妥当といえる。

「……わかったよ」

 しかし、本当は違うわけだが、わざわざ自分のためを思って言ってくれた兄のアドバイスであり、また、そのとき彼に向けられた響壱の眼差しが強くて、拒みにくかったことも手伝って、そう返事をしたのだった。


「どうしたんだよ? 隆治」

「何があったんだ?」

 突如右から左投げに変えたことを疑問に感じたのは当然満だけではなく、チームの面々はグラウンドでその投球の場面を見ると、間髪入れずに問いかけた。

 隆治は次のように返事をした。

「肩やひじを悪くして、ピッチャーができなくなっちゃう選手がいるでしょ。だから左手でも投げられたほうがいいし、それに左投げのピッチャーは少なくて貴重だから、練習してうまくできたら、こっちのほうがいいと思って」

 この回答は、響壱が用意したものだった。「プロを目指すため」と説明したら、「なれるわけないだろ」などと馬鹿にする奴が必ずいるから、本当の経緯である、あの自宅での会話は兄弟二人だけの秘密で、誰にも口にするなと約束させ、代わりにこう言うように告げたのだ。けれども実際は、彼が左投げに変えさせた事実に対して後ろめたい気持ちがあったし、「なんで弟にそんなひどいことをするんだ」と誰かに責められるかもしれないというのもあったからだった。

 ともかく、その変化の理由に違和感があったメンバーたちも、次第に見慣れて、なんとも思わなくなった。それはつまり、隆治の野球のピッチャーの才能はやはり並外れていて、その幼さで、利き腕ではない左でも十分過ぎるほどのピッチングができるようになったのである。

 それでいて、響壱は中学生になれば学校の野球部へ籍を移すので、同じチームでプレーしたおよそ二年の間には、右投げだったら追い抜いたであろう、響壱の力量までは届かなかった。響壱の狙いはドンピシャで成功を収めたのだ。

 一方で、隆治としては不運な出来事だった。左がまったく駄目だったら、少なくともチームメイトでなくなったら、さすがに響壱もすぐに右投げに戻すように言ったはずだが、ちゃんと、それもかなりのレベルで、投げられたばかりに、この後も継続して利き腕ではない左で投げる羽目になってしまったのだから。



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