韮沢隆治の話①
「バッター、杉森、打ちました! 大きいー! センターは、目でボールを追うだけで、守備位置から一歩も動きません。入りました、ホームラン! 一、二打席目に続いて、本日、三本目! なんと、一試合三本のホームランは、今シーズンすでに三回目です! これで、ホームランの数は、二位の選手と十一本差まで広がりました。今年もホームラン王はこの男で決まりでしょう!」
現在の日本のプロ野球における、最強のバッターの名前を訊かれたら、こういった答えが返ってくるだろう。
「杉森圭吾だ」
「杉森でしょ」
「圭吾くんに決まってんじゃん」
当たり前過ぎて、その質問をしようものなら、「馬鹿にするな」と怒りを買ってしまうくらいの状況である。
彼を完全に抑えられるピッチャーなど、日本にとどまらず、世界じゅうを探しても見つからないのではないか、とすら思えるほどの活躍ぶりだ。
「将来の夢は、杉森選手みたいに、いっぱいホームランを打つ、プロ野球の選手になることです」
「あたしゃ、野球のことなんてちっともわからないけど、圭吾ちゃんは大好き。とっても楽しそうにプレーして、観ていて、こっちまで元気になってくるもの」
「キャー、杉森さーん! 応援してまーす! 頑張ってくださーい!」
人気においても、年齢や性別を問わずに誰からも好かれ、他の追随を許さない。
しかし、万物は流転する。トップにいる人間の地位がずっと盤石で、揺るがないということはあり得ないのだ。
「ほんとにすごいんだから」
「わかった、わかった。でも、また言っちゃうけど、満はしゃべることがいつも大げさだからな」
小学二年生の、石原満という少年は、野球をやっていて、少年野球チームに所属している。名前は謙である、満の父親は、学生時代はそれしかしなかったというくらいの野球人間で、今も、時間があれば友人らとやったり、プロや高校の試合を観戦したり、道具やグッズをたくさん持っていたりと、生活のあらゆるところに野球が入り込んでいる彼の影響により、満は物心がついたときからというほど早くにプレー——といっても初めは当然遊びでだが——を始めた。
そんな満がある日、父が仕事を終えて帰り、自宅のドアを開けるやいなや、玄関のところまで駆け寄ってきて、興奮して言ったのだ。
「お父さん、すごいんだよ! 韮沢くんってコ、すごいの!」
「え?」
突然のことで、謙はぽかんとなった。
彼は、息子が自分と一緒で野球を好きになり、同様に観るだけでなく競技するようにもなって、もちろん嬉しく、試合の際は必ず応援にいくくらい関わっていたが、ここのところは、野球とはまったく関係がない、自身の仕事が忙しくて、練習も目にできていなかったのだった。
その我が子を落ち着かせて、移動したリビングで、お互いに腰を下ろしてから話を聞いたところ、なんでも、最近チームに加わった、韮沢くんという同学年の男のコの野球センスがものすごいらしいのだ。
「へー」
満は感動屋といった性格で、テレビによる観戦でのプロの選手のちょっとした良いプレー程度で、激しく興奮したりするので、驚きはしなかったものの、本当に幼い頃から親しんでいるだけあって野球を見る眼は肥えているし、同年代の子どもに対してこんな状態になったのは初めてのことで、謙は興味を覚えた。
それで、ようやくちゃんと休める状態になった日に、ピッチャーをやっているのだという、その韮沢くんとやらを見物にいったのだった。冒頭の会話は、その道中に交わされたものである。
「ほら、あのピッチングをしているコが韮沢くん」
「どれどれ」
満のチームが練習するグラウンドに到着すると、端のほうで、上級生であろうキャッチャーをしている大きいコを相手に、投球を行っている少年がいた。
背はその年齢の平均くらいで、太っても痩せてもいない、取り立ててどうというところのない体格で、容姿も、そこらへんにごろごろいる感じであり、特に目立つ部分はない、敢えて特徴を挙げるならば、素朴でおとなしい印象の、普通の子どもだ。
「ええっ?」
謙は、彼のピッチングを見て、びっくりした。
スピードもかなりのものではあるが、それ以上に、投球フォームが冗談ではなくプロ並みではないかというくらいにしっかりしているのだ。そして、一球たりとも、わずかも、とんでもない方向へボールは行かず、おそらく狙った位置にほぼすべてきちんとコントロールできている。
「確かにすごいな」
「ね? 言った通りでしょ」
「ああ。こりゃあ、将来はプロも、まったく不可能じゃないぞ」
謙は、単に青春を捧げたにとどまらず、野球歴は大学まで及び、ほとんどがレギュラーだったなど、高いレベルにある。その彼が、ちょっと目にしたに過ぎない、まだたった八歳の子どもに、そういった感想を抱いたのだから、相当な腕前だ。
このピッチャーをやっていた少年こそが、スーパースターの杉森圭吾に対抗し得る力を秘めた、韮沢隆治である。
杉森圭吾は、野球の才能があり、人一倍努力をし、運も持っていた。
かたや、韮沢隆治も、野球の才能、努力、どちらも圭吾に引けを取らない。
ただ——。
「え?」
翌日、その日も先にグラウンドに来ており、練習している隆治を目にして、満は驚いて声を漏らした。
「韮沢くん、どうかしたの?」
すぐに近寄っていって、そう訊かずにはいられなかった。
というのも、満は思わず「記憶違いをしていたんじゃないか?」と自問自答してしまったのだけれども、前日までは確かに右手で投げていた隆治が、左手でピッチングをしていたのだ。
圭吾は、本来は左打ちのところを、長く反対の右で打っていたが、それに影響を受けたわけではない。彼はこの時点ではプロになっておらず、世間のほとんど、ゆえに隆治も、存在を知ってさえいないのだから。
ただ——隆治は、圭吾には備わっていたなかに、決定的に欠けているものがあった。
それは、運である。