08-漆-関心Ⅲ
「倉本のこと、目で追っちゃう?」
結芽は、美冬の中に芽生えかけた感情を、ひとつひとつ丁寧に輪郭づけるように問いかけた。
「……はい。そう……ですね」
美冬は、どこか戸惑ったように、けれど否定することなく小さく頷いた。
「それは、どうして?」
結芽は、できるだけ優しい声音を意識して、さらに問いを重ねる。
「……気になるから、です」
「何が気になるの?」
「……学力試験のこととか、素行の噂とか……そういうこと、です」
「話しかけてみたいって、思う?」
「……どうでしょう。少し、怖いかもしれないですね」
「それがもし、可愛い子猫だったら? たとえば道端にいたとして」
「……たぶん、変わらないと思います」
「じゃあ、もしその人が、もう何度も話したことのある相手だったら?」
「……それでも、聞かない……かもしれません」
「……そっか、そうなんだね」
結芽は、美冬の答えに、どこか納得したように頷いた。
美冬は、人に興味を持たないわけではない。
ただし、他者と関わることそのものに、どこか“怖さ”を抱えているのだと、結芽は感じていた。
表面には出さないけれど、それは薄く広がる霧のように、彼女の輪郭にまとわりついていた。
結芽は、それなりに長い時間を一緒に過ごしてきたからこそ、うっすらと気づいていた。
けれど今の今まで、それを言葉にして触れようとしたことはなかったし、掘り下げるような場面もなかった。
だから、今だけはお節介でも、少しだけ背中を押したかった。
「美冬、話しかけてみたら?」
もちろん、倉本琉亜の素行が良くないという噂は知っている。
だからこそ、もし他に興味を持てる誰かが現れたなら、結芽はそちらを勧めたかもしれない。
けれど、今この瞬間、ほんの少しでも“誰かを見つめる目”が生まれたのなら、その芽を摘む理由なんて、どこにもなかった。
「えっと、その……どうやって、話しかければいいんでしょうか」
美冬は、少し不安げな目を結芽に向けた。
異性に限らず、自分から誰かに話しかけた経験が、ほとんどない。
「……そっか。美冬って、自分から誰かに話しかけること、あんまりないもんね」
結芽の言葉に、美冬は静かに頷いた。
授業で必要なやりとりなら、もちろん話す。
けれどそれは、あくまでも“場”に求められる最低限の情報のやり取りに過ぎない。
誰かに興味を持って、自分から声をかけに行く。今まで一度もなかった。
「普通はさ、自分から行かないと孤立しちゃうもんだけどなぁ……」
カップを指で回しながら、結芽はぽつりとつぶやいた。
改めて、美冬が“特別”なんだと実感する。
頭が良くて、顔立ちも整っていて、誰に話しかけられても嫌な顔ひとつしない。
能力のある人間は、それだけで周囲から求められるものが多い。美冬は、それに応える事ができる人間なのだ。
「親に感謝、ですね」
美冬は、何の感情も込めることなく、ただ当たり前のようにそう言った。
一瞬、言葉が詰まる。
その口ぶりには、皮肉も自嘲もなかった。ただ事実を述べただけの、感情の空白。
けれど、結芽には、胸の奥をひやりと撫でられるような感覚が残った。
(……今の、どういう気持ちで言ったの?)
彼女の背景を知っているからこそ、軽く流せなかった。
それは皮肉なんて生易しいものではない。ただの“毒”だった。
「正直、倉本のことは見かけたら、自分から話しかけるしかないと思うよ」
結芽は、そう言ってコーヒーのカップに目を落とした。
さっきの“親に感謝”という言葉。拾い上げて深く考えようとすればするほど、心にひっかかるものが増えていく。
だから、その毒を、今の彼女には飲み込めなかった。
何も聞かなかったふりをして、話を先に進めることにした。
「それって、されたら嫌じゃないですか?」
美冬は、すっと視線を上げた。
「私、告白とか──それなりにされてますけど。正直なところ、二度と話しかけてほしくないって思います」
その声音には、怒りも困惑もない。ただ、静かな拒絶の色だけがあった。
突然の好意を、赤の他人から一方的に伝えられること。
美冬にとって、それは“怖い”でも“嬉しい”でもなく、ただ“迷惑”に近い感情だった。
その背景には、彼女の容姿がある。
意図せず視線を集めてしまうその外見が、彼女にとってどれほどの重さになっているのか、結芽は改めて考えさせられた。
「美冬、告白と“誰かが興味を持って話しかけること”は、全然違うよ」
だからこそ、結芽は明確に線を引いた。
誰かと“仲良くなりたい”と思うことと、誰かに“好意を伝えたい”と感じること。
そのふたつは、似ているようでいて、本質はまったく別のものだ。
結芽自身だって、これまでに告白されたことはある。
だけど、好きでもない相手からの一方的な好意というのは、正直、重いし迷惑ですらある。
「だって、クラスメイトに話しかけられるのって、嫌じゃないでしょ?」
「……そうですね。話しかけてもらえるのは、ありがたいことだと思ってます」
美冬の答えは素直だった。そこに偽りはない。
「そういうこと。だったら、“話しかける”くらい、してみてもいいんじゃないかな」
結芽は一度視線を落とし、カップの縁を指先でなぞった。
「もちろん、話しかけられるのが苦手なタイプはいる」
もし仮に、倉本琉亜という人物が、そういう“人との距離感を厳しく守る人”だったとしたら。
「そのときは、“ああ、そういう人もいるんだな”って、ちょっと引いてみればいいだけだよ」
結芽は、少し微笑んで、ストロー越しにフラペチーノをひと口すする。
冷たく甘い液体が喉を滑り、カップの中でホイップがわずかに揺れた。




