23-参-偽物の日常Ⅲ
これから本格的な冬がやってくる──そんな足音が、風の気配に混じって聞こえるような気候だった。
チャイムが鳴り終わったあとの校舎は、どこか別の場所のように静まり返っていた。
昼間の喧騒は遠ざかり、放課後の空気は淡く冷たい。
教室を出て、昇降口へと向かう廊下の窓からは、低く垂れた雲が茜に染まりはじめているのが見えた。
琉亜は、いつものように自分の下足箱を開けた。
置き慣れたスニーカーを取り出し、無言で履き替える。
床にかすかに鳴るゴム底の音だけが、空間にぽつりと落ちた。
足元を整えたまま、彼は昇降口の壁にもたれ、外を眺めた。
光の傾きが、ガラスに映る輪郭を少しだけ歪めている。
冬の訪れはまだ名を名乗っていない。
けれど、それは確かに近づいてきていた。
澄んだ空気と、指先にかかる冷たさ。
そのすべてが、もうすぐ来る「それ」を告げていた。
美冬が来るまでは、もう少しかかりそうだった。
だが、琉亜は急がなかった。
こうして、静かに誰かを待つ時間が、案外悪くないものだと、ほんの少しだけ思っていた。
こんな味わいのある“間”を、自分が心地よいと感じる日が来るとは思わなかった。
仮初の関係なんてものにならなければ、たぶん一生、気づくこともなかっただろう。
そう思うと、少し皮肉で、どこか可笑しくなる。
とても美人で、性格もいい。頭もいい。一ヶ月、二ヶ月くらいの付き合いだが、努力家なことも知っている。
一緒にいて、嫌な気分になったことなんて、一度もない。
それでも、この関係を本物にしようとは思えなかった。
白石美冬は、それを望んでいないはずだ。
そして、自分も、そう望んではいない。
少なくとも、そう思っている。
仮に本物になったとして、その先を背負える気がしない。
誰かの想いに応えるほど、自分の心は強くなかった。
だから、これくらいの距離がちょうどいい。
仮初の関係で、十分だ。
本音をさらけ出さずに済む。
責任も、覚悟も、差し出さなくていい。
なのに。
こうして過ごす時間が、どこか心地いいのが厄介だった。
「倉本さんっ!
お待たせしてしまって、すみませんっ!」
美冬は息を弾ませながら昇降口に駆け込み、ドタドタと音を立てて靴を履き替える。
そのまま、勢いのまま琉亜の隣に立った。
「おつかれ。
いつも俺の方が遅いんだし、気にしなくていいよ」
普段は、美冬のほうが先に昇降口に着いている。
普段は琉亜の方が遅いのだ。遅いとは言っても、多少最後のホームルームが伸びたりする程度だが。
「何かあったの?」
普段はほとんど遅れない彼女が、今日に限って遅れてきた。
気にしていないつもりでも、少しだけ気になった。
「あー……この後、カフェにでも行きませんか?」
美冬は視線を泳がせながら、どこか言いづらそうに言った。
声の調子も、いつもよりわずかに落ち着かない。
「えっ、いいけど……」
琉亜は戸惑った。
放課後に誰かと遊びに行くなんて、ほとんど経験がない。
その反応は、咄嗟にどう返していいかわからないだけだった。
「あの、その……嫌だったら、断ってくださいね?」
「いや、大丈夫。
ただ、カフェに行ったことがないだけだから」
美冬の戸惑いに気づいて、琉亜はそれを誤魔化すように苦笑いを返した。
「そうなのですか?」
美冬はわずかに首をかしげた。
彼女自身、遊び慣れているわけではない。
カフェに行く習慣も、もとは友人に誘われたことがきっかけで知ったようなものだ。
だからこそ、他人が“行ったことがない”という事実には、少し驚いてしまった。
「一人じゃ、行かないだろ?」
琉亜は肩をすくめ、どこか自嘲気味に笑ってみせた。
「ふふっ、じゃあ今日は“初めて”の経験なのですね」
美冬は、琉亜とは対照的に、どこか嬉しそうな笑みを浮かべていた。
その表情には、素直な肯定と、微かな期待が滲んでいる。
「ぜひ、一緒に行きましょうか」
そう言って、美冬は靴音を響かせながら、昇降口の外へと一歩踏み出した。
「わかった。ついて行くよ」
琉亜もゆっくりと立ち上がり、その背中を追うように、外へと足を運んだ。




